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煌びやかな夜会会場。頭上には、豪奢なシャンデリア。その真した――花のように可憐なドレスを着た女性たちに囲まれた凛々しい青年に、例の言葉は突きつけられた。
「――私、セナ・シュミットは、エーベル・フレート・クスターさまと……こ、婚約破棄いたしますっ!!」
華やかな場に響いたのは、例に漏れない婚約破棄の言葉。
そしてそれを言い放ったのは――ほかでもない、私だった。
***
陽が傾き始め、うっすらオレンジ色に染まった空の下。セナは、とある学院の校門前に立っていた。
校門から出てくる生徒たちはそろって黒い騎士服を着た上背の高い男性のみ。それもそのはず。ここは、王宮仕えの騎士を育成する学院――王立騎士学院だ。
王立騎士学院は女人禁制、爵位を持つごく一部の子息だけが通うことを許される、由緒正しい男子校である。
セナは校門の隅に寄り、ぐっとつま先立ちをして、なかを覗く。校門から出てくる男子生徒たちのなかに、彼を探しているのだ。
なかなか見つけられず、セナは一度門に背をつけ、息を整える。
そのときだった。
「おう、セナ!」
突然、背後から声をかけられた。さらに無遠慮に肩を掴まれ、セナは小動物のごとく飛び跳ねながら振り向く。
「……あ、なんだ、フリードか」
声をかけてきたのは、フリード・シュタイナーだった。
フリードはこの騎士学院に通う一年生で、セナの数少ない友人のひとりである。
セナはほっと表情を和らげ、フリードに向き合う。
「もう、脅かさないでよ」
「相変わらずビビりだなー」
そう言って、フリードはからりと笑った。
フリードとセナは同い歳だ。幼い頃から共に過ごしてきた、お互い家族のような間柄の幼なじみである。
「そんで?」
フリードは肘をかけるようにセナの頭に自身の手を乗せ、同じように校門を覗く。
「セナはエーベルさん待ちか?」
セナは「うんっ!」と満面の笑みを浮かべて頷く。
「姫みずから王子さまを迎えに来るとは、相変わらずゾッコンだな」
若干、というか完全に揶揄されている気がするが、セナはそんなこと気にしない。というか、事実だから否定ができないのだ。
「それよりフリード、手、重いよ」
「いいじゃん。お前の頭、ちょうどいい肘置きになるんだよ」
フリードはセナの頭に手を乗せたまま、のんびりとあくびをした。
セナは思う。じぶんの身長が伸びないのは、もしやフリードがいつもこうしてセナの頭を肘置き替わりに使うからなのではないかと。
セナはフリードの手を両手で押しのける。
「もう……髪乱れちゃうからやめてってば。エーベルさまにこんな姿見られたら、笑われちゃうじゃない」
頬を膨らませたセナを見て、フリードはからかうような笑みを作った。
「大丈夫だよ。髪がぐちゃぐちゃでもセナはじゅうぶん可愛いって」
軽いノリで返してくるフリードに、セナは口を尖らせてふん、とそっぽを向く。
「またそんな。思ってないくせに」
セナがじとっと睨み上げると、フリードは手のひらをひらりとさせた。
「バレた?」
「やっぱり」
「俺の場合、セナと違ってモテるからさ、美人に慣れちゃってんだよな」
「よく言う」
だが、フリードの言い分はあながち間違ってはいない。
フリードは、その容姿と面倒見の良さから、セナと違って昔からよくモテる。その人気は、現在セナが通う女子学院内でもファンクラブが存在するほどだ。
とはいえ、である。
「エーベルさまのほうがモテるもん」
「……なに?」
「エーベルさまのファンクラブの会員数は、フリードとは桁が違うんだから」
そう。ファンクラブがあるのはフリードだけではないのだ。騎士学院に通う(顔よし、家柄よし、性格よしの三拍子が揃っている)好条件の男子生徒は、セナの学院で役者並の人気がある。なかでもダントツで人気なのは、セナの婚約者であるエーベルだった。
「あ、そういえばセナ、今度の夜会には参加するのか?」
「夜会?」
「おまえまさか、忘れてたのか……? 今週末の夜会のこと」
夜会は、生徒たちに特に人気のあるイベントだった。豪華な立食形式のパーティーのため、制服ではなくドレス着用が許可される。
そしてなによりの理由が、騎士学院と女学院共同で行われる唯一のイベントである、ということ。
条件のいい未来の旦那さまと知り合うことができるかもしれない――お相手探しの場として、みんな浮き足立って参加するのだ。
フリードの問いに、セナは苦笑した。
「忘れてたわけじゃないけど、私は行かないかな。知らないひとばかりだと緊張しちゃうし……」
「ったく、人見知りは相変わらずかよ」
幼い頃からセナは、初対面のひとと話すことが苦手だった。
「ま、おまえにはもう、立派な婚約者がいるし、いいんじゃねーの」
「フリードは参加するの?」
フリードは社交的だし、まだ決まったパートナーもいない。出ない理由がない。
と、セナは思ったのだが、フリードは意外にも、首を横に振った。
「どーしよっかな」
「えっ、でもフリード、ずっと恋人ほしいって言ってたじゃない」
「それはそうなんだけどさ……」
言いながら、フリードはセナから目を逸らした。これ以上は話したくない、という雰囲気が出ている。
「……そっか」
セナはそれ以上話すことをやめ、再び校門へ目を向けた。
「それよりフリード。エーベルさま見なかった? そろそろ出てくる頃だと思うんだけど」
「……さあ。四年生の校舎は、俺たち一年とは真逆のところにあるし、授業も被らないからな」
「そっかぁ……」
あからさまにテンションを下げるセナを見て、フリードが苦笑した。
「なに?」
「いや。相変わらず大好きなんだなーと思って。エーベルさんのこと」
「そりゃ、婚約者だし」
と、頬を染めるセナを見て、フリードがさらに苦笑する。
「暴漢から助けてくれたヒーローだし?」
「それだけじゃないもん。すごく優しいし、大人だし……」
「俺みたいに意地悪なことも言わないしな」
わざとらしく言うフリードに、セナはじとっとした視線を送りながら「そうね」と返した。
「でも、エーベルさんはセナみたいなお子さまには、ちょっともったいないかもな。この前も、お前んとこの女学院のご令嬢に呼び出されたって噂になってたし」
「えっ、そ、そうなの?」
「しかも、すごく可愛いご令嬢だったらしいぞ?」
セナは青ざめる。
「ま、まさか婚約の申し出とかじゃないよね……?」
「さあな。そこまでは知らないけど。でも、ま、おまえもあんまり子どもっぽいことしてると、エーベルさんも愛想を尽かしてそっちの令嬢に浮気しちゃうかもしれねーな」
「むっ、エーベルさまはそんなことしないもん!」
セナは頬をふくらませて、フリードの肩を押した。するとフリードは、
「ほら、そーゆうとこ。どう見てもいいとこのご令嬢には見えないぞ」
「うっ……」
セナはひゅっと空気を吸って、ふくらませていた頬を細めた。眉を下げ、フリードを見る。
「……き、気をつける」
「そうしな」
素直なセナの頭をぽんと軽く叩きながら、フリードはふっと笑った。
そのときだった。
「――あれ、セナ?」
喧騒のなか、不意に品のある声がセナの名前を呼んだ。
「!」
弾かれたように振り向くと、そこには涼しげな笑みを浮かべた青年が立っていた。
「エーベルさま!」
セナは歓喜の声を上げ、青年に駆け寄っていく。
濃紺色の騎士服風制服に包まれた、すらりとした体躯。さらさらの黒髪に、上品な顔立ち。
――エーベル・フレート・クスター。
セナより五つ歳上、王立騎士学院の四年生で、穏やかで大人で優しい、且つ頭脳明晰な、とにかくすべてが完璧な人物である。
「セナ、もしかして俺のこと待っててくれたの?」
エーベルが、嬉しそうに駆け寄ってきたセナに訊ねた。
「はい! 今日は授業が早く終わったので、エーベルさまといっしょに帰れたらと思って」
「そうだったんだ。嬉しいな」
エーベルはふわりと微笑み、そしてちらりとセナのとなりに立っていたフリードに目を向けた。
「……彼は?」
エーベルが控えめに訊く。
「あ、えっと……」
「もしかして、セナの友だち?」
「はい! フリードは私の幼なじみで、エーベルさまと同じこの騎士学院に通ってるんですよ」
セナに紹介され、エーベルは「へえ、そうだったんだ」と、もう一度フリードを見る。
「はじめまして。四年のエーベル・フレート・クスターです」
フリードは名乗ったエーベルに「どうも」と軽く会釈をしてから、セナに向き直った。
「じゃ、俺はもう行くな」
「うん。またね、フリード」
フリードの背中が見えなくなると、エーベルがセナの顔を覗き込んだ。不意打ちで距離を詰められ、セナは息を呑んだ。
「どっ、どうかしましたか?」
「あのさ……」
エーベルはわずかに目を泳がせてから、なにか言いたげに口を開く。
しかし、「いや」と、結局なにも言わずに歩き出した。
慌ててセナもエーベルのあとに続く。となりを歩きながら、セナは何度もエーベルを見上げた。
セナは未だに信じられていないのだ。こんなかっこいいひとが、じぶんの婚約者だなんて。