巽様が毒の矢を受けました
刀自様が国府にお出かけになると、久我根館の東の対はのんびりとした空気に包まれる。
あたしの新しい着物を縫ってくれているまつ様とすずちゃんも、今日は珍しくおしゃべりをしながら、裁縫をしている。他の侍女達もどこか緊張の取れた雰囲気だ。
あたしものんびりとして、そろそろ琴の練習を始めようとしていた時だった。
全速力で走る激しい馬の蹄の音が近づいて来たと思ったら、東門の辺りで大きな声がする。
「大変でございます!どなたか!一大事でございます!賊が矢を!」
あっという間にお屋敷は蜂の巣を突いたような有様になった。
あたしはどうしていいのか分からず、立ったり、座ったりする。
お屋敷の薬師が顔色を変えて、廊下を走るようにして侍所に向かったり、侍女達も慌ただしく行ったり来たりしてただならぬ様子だ。
すずちゃんが、慌てた顔で戻ってきた。
「大変でございます。巽様が刀自様をお護りして矢を受けられました。刀自様が襲われましたので、更にお屋敷にも賊がやってくるかもしれませぬ」
「えっ!巽様が怪我を?......それで、大丈夫なの?」
「格子も御簾も下ろして、かぐや様は塗籠に入られる様にとの刀自様のお指図でございます」
「巽様は?巽様は大丈夫なの?」
「......巽様は、毒の矢を受けられたようでございます......刀自様の馬も矢を受けて、その場で......」
「巽様が毒の矢を!」
あたしは、頭を誰かに殴られたような衝撃を受けた。
頭が真っ白になって、まとまったことが考えられない。
ぐるぐると頭の中が回っているような混乱した気持ちの中で、一瞬稲妻が走ったように、突然あたしはわかったのだ。
あたしはアイドルに憧れるように巽様が好きなのじゃない。
巽様が死んでしまうかもしれない、と思うだけで、自分の身体の半分がもぎ取られて失くなってしまった様な痛みを感じるのは、単純な憧れではなく、いつの間にか巽様がしっかりと心に住み着いていたからだ。
もっと言えば、最初に神社の祭壇で初めて巽様を見たときから、巽様に心を奪われてしまったのだ。
自分に嘘をついてはいけない。
巽様がこの世から居なくなってしまう前に、あたしの気持ちをどうしても巽様にお伝えしなければならない。
あたしは羽織っていた表着を頭から引き被ぶり、袴をたくし上げると侍所に向かって走り出す。
「かぐや様、お待ち下さい。何処へ行かれますか、塗籠にお入り下さい」
すずちゃんに止められたけど、振り切った。
「放して、すずちゃん、行かなくちゃいけないの」
すずちゃんは、あたしの顔を見たら、手を離してくれた。
東の対から侍所につながる廊下を渡り、侍所に駆け込む。
奥にある当直室に人が集まっている。
「巽様!」
あたしは立ててある几帳や侍女を蹴散らす勢いで、巽様の側に駆け寄った。
薬師と従者が巽様の側にいて、巽様の胸を布で巻き終わるところだった。
巽様の顔は血の気が無くなっていて、手当の間も意識がないようにぐったりと動かない。
「かぐや様、来てはいけませぬ。塗籠にお入りくだされ!」
近くにいた刀自様が強い調子で言うけれど、構うものか。
あたしは巽様の側に座っていた武者を押しのけて、巽様のすぐ横に座ると、巽様の手を両手で握る。
巽様の手が冷たい。
「巽様!死なないで、巽様!戻ってきて!巽様!」
あたしは巽様の手を握ったまま、自分の顔に押し当てる。
涙が止めどなく流れる。
「......巽様......巽様......」
自分の気持ちを言いたいのに、言葉にならない。ただ、巽様のお名前を呼ぶばかりだった。
周りにいた侍女も啜り泣いている。
刀自様ももう何も言わない。
その時、あたしが握っていた巽様の手の指がふと動いたような気がする。
指が痙攣したのかと思って、涙で霞んだ目を袖で拭う。
巽様の指が、あたしの手を握るように動いた。
「巽様!」
巽様の目が薄く開き、あたしを見ると、ふっと微笑んだように見えた。
栗山館の六郎様は、走ってきたかぐや様に押し退けられ、間近でかぐや様のお顔を見ることになりました。
巽様の手を取って泣いているかぐや様は、絵巻の姫君のようにお美しく、身が震えるほど感動してしまった六郎様でした。




