久我根館のあかね様
西の館では毎日すずちゃんに起こされていたのだが、久我根館での初めての朝は、格子を上げる音や侍女が歩くときに立てる衣擦れのシュッシュッという音で目が覚めた。
とにかくこの久我根館は人が多い。
朝の身支度や、朝食の準備をする侍女達が廊下を行き来する音が絶えない。
すずちゃんが持って来てくれた朝食のお粥は、西の館と同じなのだがお米の色が白くてトロッとしている。
そんな小さな事にも気づくのは、楽しみが少ないので、食事に対する入れ込みが強くなってしまうんだろう。
朝はパン食だったあたしも、少しこのお粥に慣れてきたようだ。
朝食が終わってしばらくすると、久我根館の北の対に住んでいらっしゃるあかね様が、侍女を引き連れてやって来た。
すずちゃんとあかね様の侍女が部屋の間仕切りの几帳を動かして、少し広いスペースを作る。
なるほど、こういう広いワンルームは区切り方で色々に使えるようになっているんだ。
御簾を上げてあかね様が入って来ると、お辞儀をしたままの長々とした挨拶が始まる。
頭を下げて心の中でゆっくり十秒数え、それから頭をあげてみると、あかね様はまだお辞儀をしたままだ。
何度聞いても、この長い挨拶に慣れなくて、無駄に感じてしまう。
あたしはそういう点、サッパリしている刀自様のやり方の方が好きだ。
あかね様は挨拶が終わると、顔の前に翳していた扇をちょっとずらしてあたしの方を見た。
あたしも西の館の三郎様の奥様はどんな方なんだろうと注意して見る。
あかね様が持っていた扇をパタリと落とした。
「かえでより聞きしが......まことに清げな......月の国よりお越しのかぐや姫様......叔父様が一目見てお方様にと望まれるのも必定でございます」
「いいえ、あたしなんてそんなに綺麗じゃないです。あかね様の方がずっとお綺麗です」
あかね様は袖で口を覆って優雅に(ほほほ)と笑う。
刀自様は熊のお館様の姉上で、あかね様の母上だそうだが、どうも『此春の血』というのはとても強力なようだ。
あかね様も肩が広くがっしりした体格で、とても濃い顔立ちをしている。
目が大きく瞳は茶色で、長い睫毛がクルンと上を向いているし、鼻が高くて口も大きい。髪も少し栗色で髪油で押さえてはいるが自然なウエーブがかかっている。
あかね様が日本に来て今の化粧をしたらとても似合って、皆が振り返るような美人と騒がれるだろう。
ただ、くっきりした二重瞼で目がパッチリの彫りの深いお顔というのは、能面のような化粧にはあまり似合わない。口もわざわざ白粉で塗り潰してポッチリと紅をさしているのが不自然だ。
何と言うか、欧米の観光客が白塗りで着物を着ているような違和感なのだ。
あかね様はとても美人なのに勿体ない。化粧が残念過ぎる。
「何より髪の美しきかな......まるで水浴びしたるカラスの羽のごとき」
え?カラス?カラスの羽の色?......それって褒めてるつもりですか?......せめて夜の空の色とか、他の言い方があるんじゃないでしょうか。
「もう少し大人になりて......髪が長く背に掛かるほどにならば......いかに見事ならむ」
と、あかね様は感嘆したように話す。
そういえば、百人一首の絵札に長い髪の女性の後ろ姿が描かれているものがあった。
あたしは歴史クラブだったから、クラブのみんなで百人一首のカルタ取りをしたのだ。
長い黒髪の歌と言ったら、これだ。
「長からむ......心もしらず......黒髪の......乱れて今朝は......物をこそ思へ...」
百人一首のカルタには、朗詠CDが付いていて、あたし達はそれで練習したのだ。
その歌の読み方のように節を付けて呟いてしまった。
あかね様や側に侍っていた侍女達も、ハッと息をのんで固まった。
「......かぐや姫様は......どなたかと......言い交わされしか?......」
あかね様が躊躇いながら、おずおずと聞く。
あたしの側に付いておとなしくしていたすずちゃんが、慌てて首を振る。
すずちゃんはなにを慌てているんだろう?
「え?なに?これは有名な歌ですよ?......知りませんか?」
「有名なる歌詠みの歌とな?」あかね様の侍女がつぶやく。
「姫様は、さぞかし良く歌も歌われると見えますれば、先ほどの歌を是非とも今一度お聞かせくだされ」
あかね様は意気込んで早口で言う。目がキラキラと輝きはじめた。
さっきまでの優雅さが消えて、ぐっと身を乗り出して食いついた。
「長からむ......心もしらず......黒髪の......乱れて今朝は......物をこそ思へ...」
「乱れて今朝は〜~物をこそ思へ〜~」
あかね様は下の句を繰り返す時に一緒に声を挙げた。
リフレインが重なった。
あかね様はうっとりと目を潤ませている。
あかね様は恋する乙女だった。
「白き扇と筆をこちらに」
あかね様が侍女に命じると、すぐ筆と何も描かれていない白い扇が用意される。
「こちらに、先ほどの歌を是非お書きくだされ」
と渡されたのだけれど、細い筆で扇に字が書けるとは思えない。
あたしは習字の時間に太い筆で『平和』とか『希望』とかしか書いたことがないのだ。
「ごめんなさい、無理です。あたしには書けません」
あかね様は不思議そうな顔をしたのだけれど、自分で筆を取ってさらさらと書く。
あたしには読めないミミズの這った字だ。
でも、字のバランスが良くてとても美しい。
あかね様は書き終えると「これを三郎君に」と言って侍女に扇を渡して、照れたように微笑んだ。
結婚して子供もいるというのに、あかね様は三郎様に恋する乙女だったのだ!
あかね様の扇の歌を見て感激した三郎様は、その夜いそいそと北の対のあかね様の元を訪ねられたそうです。




