8 コミュニケイション・ブレイクダウン
…やってしまった。
やはり朝の時間という物は、とても大切であったのだ。
朝から腑抜けた気持ちでいれば、その一日もずっと弛んだものになってしまうし、朝から落ち込んでいれば、その一日は暗い気分のままで終わってしまう。
それは十分に理解しているつもりだった。
…が、ニンゲンの感情という物は、必ずしも理性と合致させながら日々を過ごしているというわけでもないのだろう。
…どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
私はただ、志賀君と楽しい時間が過ごしたかっただけなのだ。
落ち込んだ私を、彼が励ましてくれるだろうと期待していただけだ。
…それなのに。
それなのに何だ。
彼はギターの事ばかり。
寝ても覚めてもギター、ギター。
そんなにギターが好きなんですか。そうですか。
…この、私より…?
それは恐ろしい事だった。私という存在が全否定されている様な気持ちにもなる。
いやいや。そんな事はあるまい。
私と交際する様になってからというもの、志賀君は常に私の事を気遣ってくれていた…はずだ。朝の掃除に放課後の校内見回りだって…私は、手伝ってほしいなどとは一度たりとも言ってもいないのに、彼は自主的に協力してくれている。
一緒にいる時だってそうじゃないか。
事あるごとに彼のネクタイを引っ張る私の悪癖だって、彼は律儀に付き合ってくれている。いくら私が「魔導師」だとはいえ、しょせんは非力な女に過ぎない。単純に腕力だけならば、志賀君にかなうわけがない。歩幅だって、身長180センチに届こうかという大柄な彼と、150センチに満たないこの私とでは、まるで違っているはずなのだ。
…それでも彼は、私に引きずられてくれているではないか。
あれは、彼が私に合わせてくれていなければ成立しない…はず。
あるいは…もっと嫌な想像なのだが、もしかして、彼は私を恐れているのだとしたら…?
自分で言うのも何なのだが、私は基本的に「嫌な女」だ。
相手によっては威圧的にふるまってしまうし、歯に衣着せぬ物言いで相手を糾弾してしまう事だってある。
…何せ私は「鉄血宰相」で「アイアンメイデン」だからな。
事実、知り合った当初の志賀君だって、私を恐れていた節があった。
その後距離が縮まったとはいえ、もしかしたら、まだ彼は、心のどこかで私を恐れているのかもしれない?
だとすれば、今までの彼の私への態度、あれは「追従」だとでもいうのか?
…は!それこそ馬鹿げた発想だ。いくら何でも、そんな事はありえない。
…ありえない?…本当にありえないと言えるのか?
いやいやいや。ないないない。
私を恐れているというのなら、少なくとも今朝の様な自己主張なんてしないだろう。
…いかん。こんな負の思索ばかりしていては、やがて心も闇に堕ちてしまう。
魔導師にとっては思索ひとつ、紡ぐ言葉ひとつが、己の魔力と密接に係ってくる。
たとえば今朝の私の暴言。
「日本古来の暴言」という物は、どこかユーモラスで滑稽な物が多い。
「てやんでえべらぼうめ」「こんちくしょう」「一昨日きやがれ」「味噌汁で顔を洗って出直してこい」「このうすらとんかち」…そして私も今朝方口にした「おたんこなす」「トウヘンボク」に「スットコドッコイ」…えとせとら、えとせとら。
これらはみな、どこかユーモラスな響きを持っている。それは必要以上に相手を傷つけないための緩衝材的な役割を担っているのだ。
こんな素っ頓狂な響きの暴言ならば、言われた相手だって、立腹しながらも、同時に諧謔味を覚えてしまうだろう。そこに事態解決の糸口がある。
先人たちの素晴らしき知恵の産物だと思う。
コミュニケーションを良くも悪くするのも、この「言葉」の使い方次第だ。
ましてや、私たち魔導師たちにとって「言葉」は、もっと重大な意味を持つ。
強い感情を伴った言葉は、そのまま内なる魔力を帯びた「矢」となる。
私…というよりも歴代の「鬼橋 文」が得意とするのは、この「言葉」による魔術の構成法なのだ。
たとえば先日、私が自身に掛けた暗示。あれも、その初歩的な魔術構成法のひとつだった。
『御主様の秘密を知ってしまった者は排除せねばならない』
この言葉に魔力を込める事で私は自身の精神にフィルターを掛け、己を冷徹な殺人機械に仕立て上げた。
異形と化した倉澤さんを…屠ってしまったのも、この魔術を攻撃に応用した物だった。
愛用している自作の「フェッチ棒」という武器に、私は強力な意味を持つ「言葉」をこめて放ったのだ。
「操」「縛」「滅」。―――「操り」。「縛り」。そして「滅する」。
これらはすべて強力な呪いの文言だ。
恐怖のあまりにゲシュタルト崩壊寸前に陥ってしまった志賀君を、正気に戻した方法もこれだった。
あの時は精神を安定させる言葉、古来より伝えられてきた聖書のとある一節を、より原初に持っていた「力」を引き出すためにラテン語で口にしたのだった。
彼がラテン語を解するかどうかが問題ではない。
「言葉そのもの」が持つ力こそが重要なのだ。
言葉とは、「文字」を組み合わせて作り上げる。
この「文字」ひとつにだって、ある種の「精霊」が宿っている。
この「精霊」が魔法の根源、原動力となる。
この秘密に気づいた古代アッシリアの老博士を圧死させたのも、「文字」の復讐だった。
この「文字」を一定の法則で組み上げ綴ったのが「言葉」。
そして初代の「鬼橋 文」、御初様が自らに掛けた呪い。
あれこそが、この「言葉」の持つ力を用いる魔法術式の傑作といえた。
彼女は自らの「鬼橋 文」という名前を、最大限に活用したのだった。
御主様、鮎子おねえちゃんは「人ならざる者」。すなわち「鬼」。
「鬼」とは「隠ヌ」。存在しない者の意味も持つ。
鮎子おねえちゃんと存在を等しくする「カミサマ」は、どこかの深い深い海の底の神殿の中で、永遠に眠りについているのだという。
このセカイは、その「カミサマ」が微睡ながら見ている夢に過ぎないのだともいう。
いわばおねえちゃんは「このセカイの外にいる」存在、この世に「隠ヌ」存在とも言えた。
一方、私たち「ニンゲン」。
この霊長の存在を象形的に表したのが「文」という」文字だ。
この「文」という文字は、実に大きな意味を持つ。
「文化」「文明」――「ニンゲン」が築いてきた大いなる遺産の名称にさえ、この文字が冠されている事からも、その意義が窺えよう。
それらを構成する最小単位であるのが「文字」。
「文字」を持たない社会は「文明」たりえない。
精霊の宿った「文字」というツールを用いることで、「ニンゲン」は「人間」となった。
「文字は、影の様な物である」――こう言ったのは、先にも触れた古代アッシリアのナブ・アヘ・エリバ博士だった。彼は言った。「獅子という文字を覚えた猟師は本物の獅子の代わりに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか」――と。
「文字」とは、人間を堕落させる程の力を持つ物なのだ。
この力を、何とかしてニンゲンのコントロール下に置く事はできないものか…?という先人たちの研究の成果が「魔法」という物だった。
この大いなる力を秘めた「文字」という物の名称にも、「文」という字が用いられている。
そして同時に、この「文」という字体そのものが、「ニンゲン」のカタチそのものを表した象形文字でもあるのだ。
「この世ならざる存在」と、「ニンゲン」。
この対極にある存在同士は、本来、相容れない。
これらを結ぶためには「桟」が必要になる。
「鬼」と「文」の間にある「橋」。
御初様は、自らの存在をそう位置づけたのだった。
「桟」が失われてしまったら、このふたつは切り離され、やがて「セカイ」は希薄な物へとなってしまいかねない。それは緩慢な崩壊、滅亡の始まりである。
いわば「鬼橋 文」とは、「ニンゲンの代表」として御主様に仕えている立場なのだ。
…そんな重大な使命を帯びているはずの「鬼橋 文」の四代目たるこの私が、目下悩んでいる問題が、「言葉の応酬」による人間関係の崩壊…というのはあまりにも情けない。
…いや、私だって自制したのだぞ?
彼に浴びせた暴言は、どれも日本古来から伝わる諧謔味あふれる物ばかりだった。
「言葉」に魔力を込めるのが「魔導師」である。
もしあの時、私が悪意を込めた言葉を浴びせてしまっていたら、どんな不幸が彼を襲うか分からない。
冗談ではなく、私が「死んじゃえ!」などと言い放ってしまったら、魔力を帯びたその言葉が彼を襲ってしまうだろう。
…ふぅ…。
今の私にできる事と言えば、腑抜けたため息をつく事くらいだった。
机に突っ伏した私の目の前に、湯呑みが差し出された。
目線だけを上に向けると、兼子の品の良い笑顔があった。
「…今日はご機嫌斜めですね?文さん」
「そう見えるのか?今の私は」
「有り体に言えば」
「…兼子はいつも冷静だな」
「そうでもないですよ?」
「ほう?」
「現に今も、文さんの不機嫌の原因に興味芯々ですし」
「趣味が悪い」
「あら、そうでしょうか?」
「そうだとも」
「わが敬愛すべき生徒会長殿のご機嫌をうかがうのも、副会長の役目ではないかと」
「詭弁だな」
「そうとも言います」
…むう。やはり口では兼子にかなわない。いや、それ以外の部分でも負けている気がするのだが。…容姿とか体型とか気品とか。あと容姿とか体型とか気品とか。
私は兼子の淹れてくれたお茶をいただいた。
…うん。やはり美味しいな。熱くもなく、さりとてぬるくもなく。
お茶の甘みを最大限に引き出せる、絶妙の温度。
「お茶は本来、渋い物ではない」とは兼子から教わった事だ。
沈んだ気分も、多少は和らいでくれる。
もう一度ため息をつく。
しかし今度は、ほんの少しだけ、安堵感が加味されている気がした。
「そういえば文さん?」
「…ん?」
「文さんは、ウエラの目覚まし時計を探してましたよね?」
「あ…ああ。…修理できる所を見つけてくれたのか?」
「心当たりをいくつか当たってみたのですが、残念ながら型番が古すぎて、どこも部品がないそうです」
「…そうか。よく調べてくれた。感謝する。それなら仕方がない。諦めるしかないのか」
「でも、同じ型番の物ならば、まだ売っているお店があるそうですよ」
「本当か!?」
何と!これは朗報だった。少なくとも、最低な今日一日の中では、最も心の晴れる情報に違いなかった。
「で、それはどこに売っているのだろうか?」
「ええっと…知人に聞いたのですが、市内の『悠久堂』という骨董品店さんだとか」
「…悠久堂!?…って、クスランデパート脇の御堀端の…?」
「あら、よくご存じですね。行かれた事があるお店なのですか?」
…ご存じも何も。
私はその店を知っている。知らないはずがない。
「高崎悠久堂」。それは元々、鮎子おねえちゃんのお店なのだから。
長野県上諏訪町出身の鮎子おねえちゃんは、昭和の初めに上京してから、上野の片隅に居を構え、「上野悠久堂」という小さな骨董品店を始めたそうだ。この店には文学者の寺田寅彦・東京帝大教授や文豪の幸田露伴、小宮清隆らの著名人も多く通ったという。
その店は東京大空襲の戦火にも見舞われることなく、戦後を迎えたのだが。
鮎子おねえちゃんは昭和30年代の中頃に起きたとある事件の後で日本を離れてしまい、その後、店があった付近も東京オリンピックの関係で区画整理の対象となって、店舗もなくなってしまったのだった。
私が6歳になった時に帰国してきたおねえちゃんは、鬼橋の一族が用意した和歌山の屋敷には、まったくと言ってよい程興味を示さなかった。
代わりに、こんな事を口にしたのだった。
『今度の文ちゃんも気に入ったから、この子の住んでる高崎に住もうっかな』
慌てたのは本家の寛一おじさんたちだった。せっかく家を用意したのだからとかそれでは本家の立場がないとか色々な手でおねえちゃんを説得したのだが、おねえちゃんはまるで聞く耳を持たなかったらしい。
寛一おじさんの妹である私のママは、十年ぶりのおねえちゃんとの再会に舞い上がっていたらしく、完全におねえちゃん側についてしまったそうだ。
言い出したら頑として譲らないあのママだ。きっと相当ゴネたであろう事は想像がつく。
具体的にどの様な折衝および折衷案と妥協策が為されたのかは分からないが、おねえちゃんは晴れて高崎の街中に住む事に落ち着いた。
その時に、どうせならとかつて経営していた「悠久堂」を、この地で再開する事にしたのだった。これが昭和40年代の中頃の話。
それ以来、おねえちゃんはこの店でひっそりと…あるいはのんびりと過ごす様になった。
私も子供の頃から、この店には何度も遊びに行った。夏休みなどには何日も泊めてもらったりもした。
いわばあの店は、私の思い出が詰め込まれた場所でもある。
あの店の持つ独特の雰囲気は、私の人格形成にも少なからず影響を与えたかもしれない。
私の考え方がいささか古めかしいのも、あの店の数々の骨董品の中で育ったから…かもしれない。
転機が訪れたのは、実はまだほんの1年半くらい前の事だ。
高校進学のための受験勉強に没頭していた私の元に、ある日、本家の寛一おじさんが血相を変えてやってきたのだ。
『文ちゃん!御主様が今度、学校の先生になるって本当の事かい!?』
私がそんな事など知るはずもない。
驚いた私は、おじさんや両親たちと悠久堂に押しかけた。
詰め寄る私たちに、おねえちゃんは笑顔で教員免許を見せてくれたのだった。
呆れた事に、日露戦争の頃の生まれのはずのおねえちゃんは、いつの間にか戦後生まれの戸籍で教員免許を取得していたのだった。
戸籍偽造について、私は最初、鬼橋本家が手を回したのかと思った。だから寛一おじさんがあんなに慌てていたのだろうと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。
いかなる手を使ったのか、鮎子おねえちゃんはきちんと正規のルートで出生届を出していたというが、これもおかしな話だ。そもそも、その生年月日自体が捏造なのだし。
しかも手にしている教員免許も、きちんと某大学に通って単位を取得して得た物だった。
おねえちゃんは私たちの誰も知らないうちに、ちゃっかり「女子大生」までやっていたのだった。その大学は都内にあるので、どうせ背中の翼を羽ばたかせながらの通学だったのだろうけれど。
ともあれ、鮎子おねえちゃんはこうして高校の養護教諭となった。
しかもその1年後、何の予告もなしに。
…ある日突然、私が入学した高校に彼女が赴任してきたのだから、驚く他はなかった。
おねえちゃんは、私の住む町内に引っ越してきた。
私の思い出が詰まっている悠久堂の方はどうなるのか…?と危惧したのだが、これまた私の知らないうちに、おねえちゃんは知人の女性に店を任せていた。
…おねえちゃんは、今でも悠久堂のオーナーでもあるのだが。
そんな、私と縁の浅からぬ悠久堂。
そこに、私の求める目覚まし時計があるというのも奇縁であろう。
「ありがとう兼子!今度の休みにでもさっそく行ってみよう」
「くす。今度のお休みって、明日ですよ文さん」
「む…そうだったか?」
兼子はさもおかしそうに、手で口元を押さえながら笑った。
…本当に、笑い方ひとつとっても品があるな、こやつ。
私の劣等感は弥増すばかりだった。
その時、午後5時のチャイムが鳴った。
それは、私の心を現実に引き戻す音だった。
私の晴れかけていた気分に、再びどんよりと雲がかかってしまう。
「あら。そろそろ彼氏さんがやってくる頃ではないでしょうか?」
「…今日はこない」
「…え?」
「今日、志賀君はこないと思う」
「そうなのですか?彼氏さん、今日は何かご予定でも…」
その時、がらりと生徒会室の扉が勢いよく開けられた。
…む?志賀君…なのか?
「かいちょ!志賀くんと別れちゃったってホントなんですか!何で何で?」
部屋に飛び込んできたのはテニスウェア姿の真子だった。残念ながら志賀くんではない。
部活から一目散に駆けつけたらしく、汗まみれで息も上がっていた。
「まあ真子ちゃん!それは本当の事なのですか?」
兼子は私よりも反応が速かった。
「本当も何も、もう校内で噂になってますよ?エライこっちゃ、です!」
「まあ!それは大変!」
「…そろそろ見回りの時間だ。私はこれで失礼する。校内は施錠するから、みなもそれそろ切り上げてほしい」
私は立ち上がってそう言うと、二人に背を向けて生徒会室を後にした。
「へ…あの、かいちょ?」
真子の声を無視して廊下に出ると、少し肌寒さを感じた。
まだ2月なのだ。こんな冷え込む日もあろう。うん。
…志賀君と共に歩いていた時は、そんな事を感じた事もなかったのだが。
彼が私と共に見回りをしてくれていたこの2ヶ月の間には、雪が降っていた日だってあったのに、今はその時よりも寒いのは何故なのだろう。
南校舎の1階から順に、各教室を見て回る。
もうほとんどの生徒は下校していたらしく、生徒たちの姿を見かける事はあまりなかった。時々はすれ違う生徒もいたのだが、その誰もが私の顔を見て驚いていた様だ。
「…何か私の顔についているか?」
さすがに不審に思って、たまたま見かけた下級生の女子に聞いてみた。
その女子ははっとして、「…あ、いえ、別に…お役目お疲れ様です会長」とだけ言い残すと、慌てる様に私の前から立ち去ってしまった、
…一体、何だというのだろう。
それにしても、今日はやけに時間が掛るな。いつもと同じコースなのに、今日に限ってこんなに時間が掛ってしまうのは何故なのだろうか。
「――そうは思いませんか?ねえ志賀君…………あ」
…そうか。そうだった。
心に浮かんだ疑問を口にしてしまった時に、私は現実に戻されてしまった。
今日、私の横に彼はいなかったのだ。
腕時計を見れば、ここまでに掛った時間は、いつもとそう変わってはいなかった。
「…見回り、続けなきゃ…」
私はまた独り、廊下を歩きはじめた。
南校舎の1階に始まり、私のクラスもある2階、1年生の教室のある3階と順に回る。
視界の隅に、ついつい、あのギター・ケースを背負った大柄な後ろ姿を探している自分に気がついて苦笑してしまったりもした。
…見慣れているはずのあの姿は、どこにもなかったが。
3階の廊下の窓から駐輪場を見下ろしたが、邪魔な屋根のせいで彼の「自由の翼」号の所在を確認することもできなかった。
一度2階に降り、渡り廊下を通って、今度は北側校舎に向かう。
こちらの1階はトイレと教材用の倉庫くらいなので普段はスルーしているのだが、今日は何故かそちらも気になってしまい、立ち寄ってみた。
…こちらも気配はない。
再び2階に上がって、書道部と華道部の教室も見て回った。
こちらには数人の生徒が残っていたが、閉門の時間を伝えてその場を後にした。
3階に上がった。
ここは階段を中心に、音楽室と美術室が向かい合って位置している。
今日は吹奏楽部の練習日だったはずだが、みな下校してしまったらしく、音楽室は静寂に包まれていた。
次に美術室。こちらも不在。
ほんの2ヶ月前、冬休みの前日にここで起きた…いや、私が起こした惨劇を思うと胸が痛む。あの事件以来、私はここを訪れるたび、必ず倉澤さんの魂に黙祷を捧げている。
今日も短めの黙祷を捧げた。
神経を集中させていると、この教室のすぐ上、屋上から微かな、本当に微かな音が聞こえた様な気がした。
―――誰か―――いる?志賀君!?
私は踵を返して美術室を出て、屋上への階段を一気に駆け上がった。
途中の踊り場で足を滑らせそうになったが、そんな事も気にならないくらいの勢いで駆け上がると、私は屋上の扉を開けた。
「――志賀君!?」
ぴゅぅ、と強い風が私の髪を薙いでいった。如月の空っ風はまだ冷たい。
叫んだ私の声に反応して、屋上の片隅、転落防止のフェンスの所に立っていたその人物は振り返った。
「…なぁんだ。文ちゃんかぁ…なぁんて。ここにくるの分かってたよ?」
「鮎子おねえちゃん…!?」
おねえちゃんは、私の所まで歩み寄ってきた。
白衣の裾が風に流されてなびいている。
「…何で…おねえちゃんがここに…?」
「何でって、いつもの事だけど?…志賀くんは…あー、そうか。今日はいないよね」
「…何の事だかさっぱり分かりません。彼にも色々と都合があるのでしょ?」
私はちょっと意固地になって、おねえちゃんから顔をそらした。
「ふーん。そう。色々、ねえ。…色々、かぁ。いろいろ、いろいろ。ふーん」
「…私は、そこまで彼の都合を把握しているわけでもありませんから」
すると、横を向いたままの私の耳元で、おねえちゃんがいきなり囁いてきた。
暖かい息がくすぐったい。
「…ごろにゃーん。おはようにゃん」
「…ぴゃっ!?」
いきなり顔面が熱くなった。思わず飛びのいてしまう。
「なななななななな…!!??」
「なーななななー?『ダンス天国』?」
「ちっ、違いますっ!!何でおねえちゃんが今朝の事…!?見てたんですか!?」
するとおねえちゃんは、腕を組んでふっふっふーと笑った。
「わたしに隠し事なんて無駄よ?文ちゃん。お見通しなんだから」
「カミサマの”力”ですか?いくら何でも、プライバシーの侵害ですっ!」
「使ってないよぉ。わたし、意外と信用ないのかな」
「じゃあ、何で知ってるんですかっ!?」
「うーんとね、恋人にいきなり詰られてしまった、悩めるギター好き青少年が、今日のお昼休みに保健室にやってきたと思いねえ」
「…何で講談みたいな口調になるんですか」
「その青少年は、優しい優しいおねえさんに、恋の悩みを打ち明けてくるわけだ」
…私がいじけている間にも、志賀君は能動的に動いていたのか。そこは評価するに値する。その行動力には素直に感心させられた。
「『かくかくしかじかで、僕はまいはにーからオタンコナス呼ばわりされちゃったんです。先生、僕ぁどーすればいいんでしょうか』って、青少年はわたしの胸にすがって泣くの。ね?可愛いじゃない」
…そこの「まいはにー」という部分は絶対に創作だと思う。それと、胸にすがって泣いたという所だって脚色十割だと見た。
「…そこまで頼られちゃあ、おねーさんとしても黙ってられないでしょ?よっしゃこのおねーさんに、どーんと任せておきなさい、そんなに冷たいはにーさんなんて、このおねーさんがちょちょいのちょーいだよって言って、今ここにいるわけなの、わたし」
「…あの、その話聞いてると、私がものすごーくひどい女みたいに聞こえるんですけど」
「…うん。ひどい女の子だよ、文ちゃんは」
「わっ、私にだって言い分はあります!」
「うんうん。そりゃああるだろーねぇ。いいよ、文ちゃんの言い分も聞いてあげる。でもその前に」
「…はい?」
「ばーかばーか。文ちゃんのばーか。チンクシャのナイ胸つるぺったん。意地っ張りの頑固者。ワカランチンのあっぱらぱー」
「はぁあああああ!?」
おねえちゃん、いきなり何を言い出すのか?
「…ええっと、後は…」
「…まだあるんですか?」
「うーんと…思いつかないからこれくらいにしとく」
…おねえちゃん、心底楽しそうだなあ。
「いきなり何を言い出すのかと思えば」
「うふふ。これは志賀くんの代わりの仕返し。…彼ばかり一方的に言われっ放しなのはフェアじゃないからね」
あー、そういう事ですか。
「でもね文ちゃん。気にしちゃダメよ?」
「何がです?」
「文ちゃんみたいな胸のない子だって、それがステータスになる時代が必ずくるから」
「むっ、胸の話はどうでもいいのですっ!」
おねえちゃんはあはは、と笑った。
「まったくもぅ!…で、それっていつの事ですか?」
私だって女だ。そんな話は気にもなる。
「あ、やっぱ気になるんだ?」
「…さっ、参考までですっ!また予言なのでしょう?」
「そ。うーんとね、『平成』って時代」
「…ヘイセイ?平安じゃなくて?…未来…ですよね?」
「うん」
「どのくらい先の事ですか」
「あはは。それは内緒」
「いい加減にしてください!…こっちは落ち込んでるっていうのに」
「でも、元気出たみたいだね」
…あ、おねえちゃんのこの笑顔だ。
昔から何度も見てきた笑顔。無防備で、それでいて破壊力抜群の笑顔。
この笑顔の前では誰も逆らえない。たしか、志賀君も前に同じ事を言っていたっけ。
永い間この笑顔と接してきた私にも、それはよく理解できる。
…あ、そうか。おねえちゃんは私の性格を知り抜いているから、わざとあんな態度を取ってくれたのかな。
何だか、今日一日、ずっと悩んでいた事が馬鹿らしくなってしまった。
私はおねえちゃんに私の思いを打ち明けた。
最近、私だけが置いてけぼりになっている様な不安。
ギターばかり気にしている志賀君。
私よりもギターの方が大事なのだろうか?
私って一体何?彼の何なのだろう?
恋人じゃないのかな?恋人だと思っていたのは、私の思い上がり?
ずっと心の中に溜め込んでいた思いを口に出しているうちに、涙が出てきてしまった。
おねえちゃんは、ただ黙って私の話を聞いてくれていた。
「…ね、おねえちゃん?」
「なぁに?」
「…やはり志賀君は、私なんかよりもギターの方が大切なのかな?…こんな面白味のない私なんかよりも」
「そんなの決まってるじゃない」
「…え?」
「もちろん、ギターよ」
…何という事だ。分かっていたつもりだった。分かっていたが、おねえちゃんの口からここまではっきり言われるのはショックだった。
「あ…やはりそうでしょうね…そうなんだ…うう…ぐすっ…」
あ、ダメだ。とまらない。
「うっ…うぇぇぇぇぇん」
私は泣いた。子供みたいに泣いた。もう自分では止められない。
イヤだ!志賀君、志賀君…!助けて…!!
「だってねぇ、ギターはもう志賀くんの身体の一部だもの」
…え?どういう事?
「ね、文ちゃん。気がついてた?倉澤さんの一件があってから、志賀くんのギターって格段に上手くなったと思わない?」
あ…そういえば…
「あの事件の前にね、わたしはあの子にこう言った事があるんだ。『君は意識しなくても、自然に自分の感情をギターの音に変えて表現できるだけの経験を積んできた』ってね」
「…自分の感情をギターの音に変えて表現…する?」
「うん。気持ちのこもっていない演奏なんて、誰の心にも響かないもの。志賀くんはね、独学でギターを覚えてきたみたいだけど、むしろそれが彼にとってよかったのかもしれないね」
「…それが、どうしてよかったのですか?」
「あの子はね、文ちゃんが考えている以上に繊細な子だよ?自分の気持ちもうまく表現できないくらい」
「…信じられません。彼はけっこう率直に物を言ってきますよ?」
「それは、文ちゃんだからじゃない?」
「え…私?」
「そ。文ちゃんだけは特別。くすくす」
思わず赤面させられてしまう。いつの間にか涙はとまっていた。
「ギターはね、あの子にとって、自分の感情を表現できる最大の方法なんだ」
「…だから、身体の一部だと…?」
「うん。つまり文ちゃんは志賀くんに、『身体の一部を、私のために捨てちゃって!』なんて言っちゃったも同然なの」
あ…それは分かる。分かるけど、でも…
「…と、ここまでは志賀くんの弁護でしたあ。じゃあ次に、今度は文ちゃんの弁護に入っちゃうね?」
「あ…はあ」
「志賀くんだって悪いんだよ?自分の事を、こーんなにも好きでいてくれる健気な女の子の気持ちに気づいてあげられないのはよろしくない」
「やはり…そう…ですよね?そうなんですよね?」
「うん。だから文ちゃんが彼に言ったっていう『朴念仁』というのはまったくの正解」
さすがはおねえちゃん。よく分かってくれている。
今度は嬉しくて、また少し涙が出た。
「こんな言葉を知ってる?『ギター弾きの恋人にとって、最大のライバルは他の女でなく彼のギターである』」
あ、それは先日にも聞いた言葉だ。
「それ…真子も言ってました。たしか、『ギター弾きは、女よりもギターを抱いている時間の方が長い』という意味だとか」
「へー、あの真子ちゃんがねえ…やるわね」
おねえちゃんは何故か、腕組みをして考えこんでしまった。
「あの…おねえちゃん?」
「ん…?まあいいや。その通り」
「それが何か?」
「あーごめんごめん。要するに文ちゃんは、彼のギターに嫉妬しちゃったわけだ」
「そんな事…!あ、でも、そうかもしれません…」
「でしょーねぇ。これって、ギター弾きの恋人たちが抱えてる共通の問題だもの。万国共通、ギターに国境はないからね」
「…そういうものですか」
「そ。それで文ちゃんはどうするの?」
「どうするって…それが分からないから悩んでるんです」
「そう?簡単な事じゃない」
「分かりません」
「簡単簡単。文ちゃん?」
「はい?」
「あなた、志賀くんに抱かれちゃいなさい」
…………は?
「ギターを抱いている時間が長いのなら、それより長い時間を彼と過ごしちゃえばいいよ。文ちゃんのミリョクで、彼を文ちゃん無しではいられなくしちゃえ」
はい…?はいぃぃぃぃぃぃぃ…………!!??




