24 ジー・ベイビー、エイント・グッド・トゥ・ユー
部屋の明かりを消すと、静けさがずっと深まる気がする。
それは気温も同じだ。
真っ暗になった途端、室温もぐんと下がってしまう気がする。
もうすぐ春だとは言え、まだお布団の温もりに心地よさを覚えるのは否めない。
この数日間というもの、床に就いてから微睡むまでの間、私に恥辱と失態を演じさせていた、あの忌むべき「文字」どもについて考える習慣がついてしまった。
私に取り憑いていた古代の象形文字「オンナ」。
あいつのおかげで、私は散々な目に遭った。
取り憑かれ、操られて仕出かしてしまった恥辱の数々はもちろん、あろうことか鮎子おねえちゃんに刃向かい、挙句の果てに斬首されてしまったというこの失態。
もちろん、鮎子おねえちゃんのアフターケアは申し分なかった。今こうして無事でいられるのは、ひとえにおねえちゃんのおかげである。
その鮎子おねえちゃんはこう言った。
「『慰撫』…『オンナ』?どっちでもいいけど、アレは結局、文ちゃんの所に戻ってくるんじゃない?」
それはどうして?という私の問いに、おねえちゃんは、
「長い間文ちゃん先輩と同化していた事で、『オンナ』は文ちゃんの意識と同調しやすくなってると思うよ。文ちゃんが望めば、向こうからやってくるって」
などと、実に楽観的かつ希望的な見解を申されたのだった。
「それにね」
「それに?」
「アレは、文ちゃんという存在自体にも関心を持っていると思うんだ」
「どうしてですか」
「文ちゃんと同化していた間、アレは文ちゃんを通してこの現代社会を見ていたでしょ?それがそのまま、アレの知識を拡大させていった」
「うん」
「今は『慰撫』という仮初の身体の中だけど、そのままでは十分な情報を得る事ができない。知り得た情報を糧に概念化させる…えっと、新たな『文字』を増殖するのが本能のアレにとっては、それは耐えられない事じゃないかな」
「うーん…そういうモノ…なのかなぁ…」
「そうそう。例えるならば、血を吸わないと生きてゆけない蚊、みたいなもの?」
おねえちゃんはいつもの笑顔でくすくす笑った。
むぅ…。「蚊」ですか。
私は蚊のせいで、恥を晒して首まで斬られたのか。
どうせ例えるのならば、せめてそこは「吸血鬼」くらいにしてほしかったと思う。
とはいえども。この「蚊」という例えは、中々に的を得た物なのかもしれない。
蚊という生物は、実に「機械的」な構造をしている。
まず、吸い取った血で膨れるあの腹部。あの中には「内臓」という類の臓器は皆無なのだという。ただ単に、吸った血を貯めておくだけの「タンク」でしかないのだ。
この「タンク」が空になると、当然そこは真空状態になる。そこで蚊が血を吸うと、減圧された腹部が常圧に戻る原理で血液が流れ込むのだ。
これはまさに、真空式の採血注射器の原理と同じ。つまり蚊は、腹部に血が無くならないと、自分自身の意思では次に血を吸う事もできない。
つまり、蚊は「自律的な嚥下能力」も持っていないのだ。
次に、ではなぜ蚊は血を吸うのか。
これも、生物としては実に不完全だからとしか言い様がない。
連中の体内には、吸収した養分を分解する「酵素」が存在していないのだ。
通常の生物ならば、吸収した食物を体内で分解して必要な養分を摂取する機能を持っている。この分解作業には酵素が必要になるのだが、内臓すら持たない蚊の体内には、この酵素も存在していないらしい。
連中は自らで養分を生成できないので、直接「養分」となる血液を採るしかないのだ。
ところが、上記した様な単純化した吸引構造のせいで、連中は口器を抜かない限り、血を吸うのを止める事すらできない。
だから、蚊が腕に止まった時に拳を握ったりして力を籠めると、筋肉が引き締められて刺針が抜けなくなる。
そのまま放っておくと、際限なく血を吸い続けて、蚊の腹のタンクは膨らむばかりになる。私は試した事はないが、最後にはぱんぱんに膨らんだ腹が破裂してしまうとも聞く。
あの「文字」という異形どもも、この蚊と同じだ。
自らだけでは眷属を増やす事ができず、ニンゲンに取り憑いて思考させ、産み出させた新たな概念を「文字」として表彰化させる事でそれを可能とする。
違うのは、糧としているのが「血液」か「概念」か、という点だけ。
どちらにせよ、ニンゲン…というか、少なくとも私にとっては不愉快なだけなのだが。
「で、同化していた事で、『オンナ』は文ちゃんとの相性が格段に上がっているから、」また文ちゃんに取り憑こうとしてもおかしくはないと思うんだ」
…なるほどね。要は味をしめた蚊が、また同じニンゲンを狙ってくるみたいなものか。
全くもって煩わしい事この上ない。
夏の夜、寝静まっている所に聞こえてくる、あのぷぅーんという羽音。
近くにいるのが分かっていても、中々捕まえにくいあの苛立たさ。
注意していたつもりでも、いつの間にか身体のどこかに痒みを覚えた時の腹立たしさ。
どれをとっても、ニンゲンにとっては相容れない存在。
一方、蚊と言う生物は、ニンゲンがいないと生きてはゆけない。
この点では、蚊と「文字」は異なるな。
ニンゲンにとって「文字」は、無くてはならないのもまた事実。
「文字」がなかったら、ニンゲンはこうまで文明を発展させる事はできなかった。
前に私が連想した、細胞内におけるミトコンドリアと同じ様な機能も「文字」は持っている。そもそもが、私たち魔導師だって、文字を組み合わせ紡ぎ合わせる事で、数々の魔法の術式を生み出してきたのだから。
私は、その「文字」のひとつと敵対する事になってしまった。
…その名前が「オンナ」というのも皮肉な話である。
「オンナ」。…「オンナ」、か。
「鬼橋 文」と…「オンナ」。
以前は気にも留めていなかった言葉だった。
しかし志賀君と出会って以来の私は、その響きを口にする時、常にある種の「切なさ」を覚える様になった。
「オンナ」。
その言葉は、「鬼橋 文」にとって縁遠い――
こん。こん。
静寂の中、ふと、窓を叩く音が聞こえた。
こん。こん。こん。
音はもう一度、今度はよりはっきりと聞き取る事ができた。
冬の良く晴れた夜。月明かりに照らされて、その音の主の影は、カーテン越しにも見て取る事ができる。
その影は、明らかにヒトの姿をしていた。
長いスカート姿の少女。着ているのは、きっと時代がかった黒いドレスに違いない。
ただ、その「少女」は小柄だった。たぶん、身長は60センチ程度だろうか。
こん、こん、こん、こん。
私が無言でその影を観察していると、相手は少し苛立ったのか、窓を叩く手にもいささか力が込められたみたいだった。
「…カギは掛っていない。開いているぞ」
私の発した一言に、少しだけ躊躇の間があってから、がら、と窓は開けられた。
夜風に曝されたカーテンが、かすかに揺らめく。
その夜風は、私の頬と髪を撫でて過ぎていった。
北から吹く冬の風を「陰風」とも言う。「朔風」とも呼ばれる、陰気で不気味な風だ。
小柄な少女の姿をした魔人形。
「慰撫」が私の部屋にもたらしたのは、まさにそんな風だった。
魔人形は貴婦人の様に、スカートの裾をつまむと、深々と頭を下げて優雅に一礼した。
「…少しだけ予想外だ」
『何が…でしょう?』
私の感想に「慰撫」が応える。
「もっと乱暴に、私の寝込みを襲ってくるものだとばかり思っていた」
それは、私としては実に素朴な感想だった。
数日前。保健室で、「オンナ」がこの人形の身体を強奪した時に挙げた奇怪な笑い声は、今でも私の耳に残っている。
それはまさに、狂気以外の何物でもなかった。
その根源にある物が執念なのか、それとも怨念なのかなど皆目興味はないが、私は狂気に犯された魔人形が、本能じみた行動で襲いかかってくるものだとばかり考えていたのだ。
もっともその懸念は、彼女(?)が律儀にも窓を叩いて私の所在を確認する行為を示した事でかなり薄れたのだが。
『…わたくしは、その様な下卑た真似などいたしませんわ』
「慰撫」自身にも、あの時の記憶は残っているらしい。声の中にも、やや躊躇いが感じられる。
少しだけ腹が立った。
私に散々、恥辱を負わせておきながら、自らはきちんと「恥」という物を理解しているのか、この魔人形は。
『それよりも、この家は来客に対してお茶のひとつも出さないのかしら?』
むか。
何なのだこいつは。
この魔人形の中に封印されていたという人肉喰らいの少女が、生前どんな性格をしていたのかなど知る由もない。しかし、少なくとも私に取り憑いていた「オンナ」は、こんな高慢な性分ではなかったはずだ。
『これだから庶民は』
「…人形の分際で、お茶など飲めるのか?」
『”鬼橋 文”の造ったドールを馬鹿にしないで頂戴』
む。そこで先々代の名を出すか。小癪な。
「……。少しだけ待っていなさい」
私は部屋を出て1階のキッチンに行くと、ポットと紅茶セット、それに冷蔵庫から買い置きのケーキを出してトレイに載せた。
それともうひとつ。とっておきの品も。
「お茶を出せ」と言われて、それだけしか準備なかったら、きっとあの高飛車なお人形はまた難癖をつけてくるだろう。
幸いと言うか、どうやらママは熟睡しているらしい。しかし念を入れてキッチンの明かりを消したままでの作業は、思いのほか手間取ってしまった。
「…待たせたな」
『ずいぶんと手間が掛ったみたいですわね』
「それだけ、もてなしにも気を遣ったという事だ」
『あら嬉しい』
私が戻ってくるまで、「慰撫」は微動だにせず、品よく正座して待っていた様だ。
ふん。当たり前だ。普通のお人形は、動き回ったり嫌味を口にしたりはしない。
あくまでも「普通」ならば、の話だが。
「紅茶でよいのだろう?」
『ええ』
私はカップにティーバッグを置くと、静かにお湯を注ぎはじめた。
案の定、茶葉を入れた紙の袋を目にした「慰撫」は、呆れた様な仕草を見せた。
表情の動かないお人形だが、その視線や仕草で、こやつ此奴が何を考えているのかくらいは察する事ができるのだ。
鮎子おねえちゃんの様に本格的に茶葉で淹れたりはしないが、そのおねえちゃんいわく、「ティーバッグだって、淹れ方次第でグン!と美味しくなっちゃうんだよ」
との事だ。剣城鮎子直伝、ティーバッグ式紅茶を堪能させてやろうではないか。
湯気立つ紅茶を魔人形の前に差し出すと、私はその横にケーキも並べた。
「慰撫」は自分のサイズには持てあます大きさのカップを、それでも器用に抱えると、小さな口をカップに触れさせた。
こくこく。こくこくこく。
……むぅ。本当に飲んでいるな。
さすがは先々代の手遊びによる逸品。私も、そこは素直に感心したのだが。
『…安物の葉ね。温度も熱過ぎるし』
とてもとてもありがたい、辛辣なご批評が返ってきた。
生意気な奴だ。300円のお値打ち故買品のクセに。
300円は、今度はケーキにフォークを刺して口に運んだ。
もぐもぐ。もぐもぐもぐ。
小さな口でよく咀嚼しているその姿は、黙っていれば品の良いお嬢様の仕草に見えない事もない。
表情の変わらないその顔と、60センチの身長を除けば、の話だが。
『こちらのお菓子は…まあまあですわね』
それは近くのスーパーで買ってきた、1パック380円のケーキなのだが、少なくともお前よりは高かったのだぞ。よく味わって食べてほしいものだ。
『御馳走様』
「慰撫」はどこから出したのか、小さなハンカチで口元を拭きながら言った。
慇懃無礼という奴だ。
断言する。私は此奴とは絶対に仲良くなれない。というか、なりたくもない。
そもそも、私はこの魔人形の中にいる輩には散々「世話」になったのだ。
…その「ご恩」にどう「報いて」やろうか、と考える事はあっても、だ。
「…で、こんな夜更けに、私の様な『庶民』の住まいに、いったい何の御用なのだ?お嬢様の出歩く時間ではないぞ」
『ええ。いくつかご質問とお願いが御座います物で』
「言ってみなさい」
『ではお言葉に甘えさせて戴きますわ。まず、貴方は魔導師”鬼橋 文”なのですか?』
「その通り」
『わたくしをお造りになった魔導師の子孫?それとも生まれ変わりかしら?』
「そのどちらでもあるし、どちらでもない」
「慰撫」は、私の態度に反感を覚えたみたいだった。
『よく分かりませんわね。どういう意味なのか教えて頂戴』
「答えるつもりはない」
『ま…まあいいでしょう。次に、貴方と一体になっていた時に』
「思い出したくもない話だ」
『お話の腰を折らないで頂戴。一体になっていた時に、貴方の記憶から色々と情報を得る事ができたのだけれど、ひとつだけ分からない事がありましたの』
「記憶泥棒か。悍ましい話だ。お前の性格の悪さが出ているな」
『そう言わないで頂戴。わたくしのこの個性には、貴方の人格も多分に加味されているのだから』
「どういう事だ?」
『今のわたくしは、本来の”オンナ”という象形文字とこのお人形の中にあった”倉中 栄”という少女、そして貴方の中にあった記憶や情報が混合された結果なのだから』
…頭を抱えたくなった。
いくら何でも、この私の中に、あの様な時代錯誤口調の勘違いロリータ趣味があるなどとは考えたくもない。
アレはきっと、その倉中とかいう人肉喰らい娘の個性なのだろう。そう確信する事にした。
『その記憶の中に、貴方の言う”おねえちゃん”について、何もなかったのは何故?』
「知らないな。誰だその『おねえちゃん』とやらは。私には4歳違いの姉はいたが、彼女はかなり前に他界している。今の私に姉妹はいない」
『とぼけないで下さらない?あなたの記憶の中には、ちゃんと”おねえちゃん”と呼ぶニンゲンの記憶はあったのよ?でも、それが誰だか分からないのはどうして?』
「ノー・コメントだ」
「慰撫」はかなり苛立っていた。それはそうだろう。「情報」を糧として増殖してゆく「文字」が由来の魔人形にとっては、「理解不能」は致命的にもなり得る恐怖なのかもしれない。
私の「記憶」の中に、なぜ鮎子おねえちゃんについての情報がないのか。
それには理由がある。「御初様」こと初代・鬼橋 文は、「カミサマ」である鮎子おねえちゃんの守護者となるために、自らの精神と肉体にいくつもの魔法術式を施した。
身体能力の向上。脳の中に刻まれた数々の魔法知識のデータベース。先にも触れた様に、これを活用するためには、ある程度の努力も必要とするけれど。
そして一番肝心な、「御主様」への理解と信頼。
これを確実な物とするためには、「記憶」などという曖昧な物では不十分だった。
なぜなら、「記憶」とは、次第に摩耗してゆく物だから。
コピーを重ねるうちに、元の像が次第にぼやけた物になってしまう様に、何代も肉体を変えてゆけば、いずれはおねえちゃん…御主様との絆も薄れてしまうのではないか?
これを危惧した御初様は、「剣城鮎子」様と言う存在についての情報を、「鬼橋 文」たる「核」――魂の部分に刻み込む事にしたのだ。
私が「鬼橋 文」である限り、「御主様」についての全ては記憶ではなく、代々受け継がれてきた「鬼橋 文」としての魂その物に、生まれながらに刻み込まれているのだ。
「記憶」などという中途半端な物ではとても語りつくせないし、理解できない。
それが「御主様」と「眷属」との「絆」。
もちろん、御初様が選択したこの方式には、「カミサマ」の存在についての機密漏洩を防ぐ狙いもあった。魂に刻まれた「絆」は「記憶」ごとき物でコピーなどできないのだ。
此奴がいかに私の「記憶」を探ろうとも、「御主様」としてのおねえちゃんについての情報を取り出す事はできないのだ。
だからあの「文字」ごときが、いくら念入りに記憶を探ろうとも、私が「鮎子おねえちゃん」と慕う「高校の養護教諭の剣城鮎子先生」の記憶を確認する事はできても、それ以上は立ち入る事などできはしない。
『ま…まあ、お答えしたくないのならば、それはそれでよろしいでしょう』
次に、「慰撫」は生意気にもこほん、と咳をしてこう言った。
『では最後のご質問です』
「言ってみなさい」
『”鬼橋 文”さん。貴方のお身体には、どうして”子宮”が無いのかしら?』




