20 文字禍 2
…あ。またあの白い部屋だ。
何の変哲もない白だけの部屋。
何もかもが白一色。無味乾燥。殺伐とした、ただ純白なセカイ。
何にもないけれど、どこかでまた、耳障りな無数の声だけが響いている部屋だった。
《為すべき役割を果たせ》
《こいつの意識を逸らすのも大変なんだよ?》
《この個体は我々の制御下》
《すべては順調》
《気づいた個体がある》
《いいやない》
《我々のチカラの及ばぬ存在》
《神。超越者。夢想者。造物主。悪魔》
《逆らえない》
《この空腹を満たさせろ》
《呪われてしまう》
《目が溶けた》
《未来を返せ》
《あのさあ。好き勝手に騒がないでよ》
《黙れ『オンナ』》
それはまったく意味すら分からない、雑談と呼ぶのも抵抗のあるノイズだったが、唯一、「オンナ」と呼ばれた存在の自己主張だけが、やけにニンゲン臭い響きを持っていた。
それに、この「オンナ」と呼ばれている存在の声は…あれ?私自身の声に似ている?
前に耳にした時よりも、「それ」は私の声に似てきていた。
《むー。ひどいなあ》
《汝の為すべき役目》
《あー、分かった分かりました!うるさいなもう》
…無数の「声」が、次第に反響していった。
反響がさらに反響して、それがさらに反響を生んで…音の輪郭がぼやけていった。
もはや何を言っているのかすら分からない。
何倍にも増幅した反響音が私の頭の中を揺るがしてゆく。頭蓋骨の内側が、まるで讃美歌が鳴り響く大聖堂みたいだった。
私の意識は、その反響の中に溶け込んでゆき…次第に薄らいでいった。
ああ…溶ける…溶け込んでゆく…溶…け…と……け…………。
そして。
「ワタシ」は目覚めた。
あー…あー…。
ワタシの名前は「キバシアヤ」。
キバシ家の分家の生まれ。誕生日はゴ月ニジュウナナ日のジュウナナ歳。
タカサキ市のとあるコウコウで生徒カイチョウをしている。
カネコ。シンコ。ワタシのナカマ。セイト会のナカマ。
シュミは読ショ。文字は素晴らしい。ダイスキ。
文字はニンゲンの生み出した嗜好の物。
文字が無くてはニンゲンはケモノのまま。
文字がニンゲンを「ニンゲン」に育てた。文字バンザイ。
彼氏の名前は「シガヨシハル」君。
年下のイチ年生。ビジュツ部のユウレイブイン。
ぎたーがスキ。ぎたー莫迦。
もっとワタシを見てほホシイ。ソレがナヤミ。
ワタシはシガ君をアイしている。ダイスキ。
ダイスキは「オネエチャン」もそう。
「オネエチャン」…「オネエチャン」?誰?
ダイスキな「オネエチャン」は誰?
「オネエチャン」の名前…何だっけ。
それだけが、ワタシの得た記憶の中にも見当たらなかった。
「記憶」の中には。どこにも。
…まだ情報の幾つかは整理できていなかったが、ワタシはとりあえずベッドから起き上がる事にした。
これらはその内、それなりにまとめ上げる事ができるだろう。気にする程の事ではない。
ベッドの脇に置いてある、小さな鏡を見た。一人の「オンナ」がこちらを見ている。
…ふむ。コレが「ワタシ」の顔だったな。間違える所だった。
部屋の中を見回した。ああ、いつもの「ワタシの部屋」だ。驚く事ではない。
ふむ?大きな箱があるな。ああそうか。この中には、昨日「ユウキュウ堂」で買ったお人形が入っている。
それは知っている。なぜなら、コレはワタシが買う様にさせた…買ってきた物だから。
このお人形には、もう少し役に立ってもらわねば。
とりあえず、今日ガッコウに持ってゆき、「オネエチャン?」に見てもらおう。
ワタシは部屋を出て、「いつもの様に」洗面所に向かった。
ソレがワタシの日課だったからだ。
既に何度か「表層」に出てきて実験してみた結果、理解した事のひとつだ。
この実験で得た物は大きかったが、時には思わぬ失敗をしてしまった事もあった。
「情欲」が余計な事をしたからだ。
その「情欲」は、もうこのセカイには存在しない。とっくに消滅した。自滅した。
廊下に出たワタシは、こいつよりずっと存在時間の経過した別の個体に出会った。
「あら文ちゃん、おはよう」
「おはよう『ママ』」
その言葉は、ごく自然にワタシの口から出た物だった。
「今朝は目覚まし鳴らなかったのね?せっかく買ってきたのに、もう壊れちゃった?」
「メザマシ」?目を覚ます?
「ワタシの目はとっくに覚めてます」
「?」
「ママ」の顔が変化した。ああそうだ。これは「疑問を感じた時の顔」だったな。
ああそうだった。「メザマシ」というのは、こいつが買ってきた、あの黄色い機械の事だったな。まだ情報を統括できていない弊害が出てしまったか。
「『メザマシ』は、今朝は鳴りませんでした」
「あ…あらそう」
「それより『ママ』、ワタシはお腹が空きました」
「あ、そうね。もう朝ごはんの準備はできてるから」
「わーい」
「わ…わーい?…わーい??」
「ママ」が、また「疑問を感じた時の顔」になった。
情報の統合と修正が、当面の最優先課題なのだな。
ワタシは「いつもの様に」席に座り、朝食を済ませて「ガッコウ」に向かった。
そうだ。ワタシは「いつも」「こうして」「ガッコウ」に向かっている。
何の不思議もない。
「記憶」の通りの道を歩き、「記憶」の通りの「ガッコウ」に着く。
ゲートを抜けると、まさに「記憶」の通りの光景が広がった。
うむ。「記憶」の通りだとは言え、実際に目にすると、その情報量が一気に拡大する。
「コウシャ」の壁の色。植樹されている「キ」の種類。ふむ…「カダン」の花…はまだ咲いてはいないか。
個々の情報が、いっそう精緻な物になってくるのは、「ワレワレ」にとっては好ましい。
情報が増えれば増えるほど、その情報についての「表現」も増えてゆく。「表現」が増えるという事は、すなわち「文字」がより多く、そしてより多彩に活用されてゆく事にもなるのだ。
「ガッコウ」に到着したワタシは、記憶の中にある「次にやるべき役割」を模索した。
…ああそうだ。ワタシは「いつも」、「シガ」君と「オソウジ」をするのだ。
それが、何の意味合いを持つのかは理解できない。
誰かに指示された訳でもなく、ましてやこれは「セイトカイチョウ」の仕事でもない。
「キバシアヤ」は、なぜその様な非論理的な行動を取るのだろうか。
理解できない物…表現できない物には恐怖を覚える。
理解不能な行動を取る事には抵抗を覚えたが、それが「キバシアヤ」の「日常」ならば仕方あるまい。
ワタシは「いつもの様に」「モノオキ」に足を運んで、その扉の鍵を開けた。
なぜかは分からないが、開錠して扉を開けた時に、自然に身構えてしまう。
それは、ワタシの身体が覚えている条件反射らしい。
ワタシは毎日、この扉を開ける時に何を見ているのか?
この「モノオキ」には、何か得体のしれない存在が潜んでいるのだろうか。
理解できない事は警戒するべきだが…この「モノオキ」には、怖れるべき物はこれといって何も存在してはいなかった。ではなぜ「キバシアヤ」は、こうも過敏に反応してしまうのか。分からない分からない…リカイフノウ、ワカラナイワカラ――
「文ちゃん先輩?」
背後から「記憶」の中にあった声がして、混乱したワタシは我に返った。
「我に返る」?ヘンな話だ。「ワタシ」はワタシなのだから。
…ワレは我に返る必要もない。
「…む?やあ、『シガヨシハル』君ではないか」
私は振り向きもせずに、声の主の名前を呼んだ。
それくらいの分析はできる。いいや、この「シガヨシハル」君についての情報は、「キバシアヤ」の中にある「記憶」の中でも、かなりの領域を占めているのだ。ワタシが間違えるはずもない。
「…フルネーム?」
しかし当の「シガ」君は、なぜか私の返答に疑問を示した様だ。「ママ」が見せた様な「疑問を感じた時の顔」になった。…どこか不自然だったのだろうか?
「まあいいや。それより、昨日はお疲れ様でした」
「あ…ああ、昨日の事だな。君も疲れた事だろう」
「あはは。まさか、文ちゃん先輩があんな事をするなんて思いませんでしたからね」
「『シガヨシハル』君にも心配をかけてしまった様だ。謝罪しよう」
「…?」
「シガヨシハル」君は、またもや「疑問を感じた時の顔」になった。
「文ちゃん先輩?」
「な…何だ?」
「まさか…あの時頭を打った影響で…本当に大丈夫ですか?」
シガヨシハル君は、ワタシの額に手を当ててきた。その指先は硬くなっていて、お世辞にも心地よい感触ではなかった…はずだ。
しかし何故だろう。ワタシの肉体は、その感触に抵抗を覚えるどころか、奇妙な高揚感すら覚えてしまった。
分からない分からない。
「あー、ちょっと汗ばんでますよ?体調が悪いなら、今日はお掃除は休んで、鮎子先生に診てもらった方が…」
「『アユコセンセイ』?」
…誰だ?ワタシの記憶にない名前だ。しかし、ワタシにどこか不自然な所があるならば、誰であろうと迂闊に詮索させるのは得策ではなかろう。
「大丈夫。『アユコセンセイ』に診てもらう必要はない。それより『オソウジ』をしようではないか、『シガヨシハル』君」
「あ…ああ、大丈夫ならいいんですけどね…」
ワタシは「ホウキ」を手にして作業を開始した。
幸いな事に、この意味も理解できない苦痛を伴う作業を終えるまでには、さほどの時間を要しなかった。
その間、ワタシを見る「シガヨシハル」君は、ずっとあの「疑問を感じた時の顔」をしていた。
「…お疲れ様でした。じゃあ、後はまた放課後に」
「うむ。それが『ニッカ』なのだからな」
彼に挨拶をすませて、ワタシは「いつもの様に」自分の所属する「キョウシツ」へと向かったのだった。
「ジュギョウ」を受けるのは楽しかった。
特に「コクゴ」。ワレワレが元来持っていた物とは比べ物にもならないくらい、現代の文字の表現は豊富だった。言葉…いや、文字の持つ可能性は無限だと再確認できる。
それにこの「ニホン」という、ニンゲンの築いた集合体で使われてきた文字のカタチは、ワレワレと同じ様な経緯で作られてきたらしく、親和性もある。
ただ、「ジュギョウチュウ」はなるべく大人しくしている様に心がけていた。
先日は「情欲」がやり過ぎた。そのせいで目立ち過ぎてしまい、その後の活動にも色々と支障をきたしてしまったではないか。「情欲」には論理性が欠落しているのだから、そうなった事は必然であるのかもしれないが、ワレワレにとっては痛恨の出来事だった。
そもそも、「ワタシ」がこんな割の合わない役割を押し付けられたのも、元はと言えば「情欲」のせいなのだ。
しかしその「情欲」は自滅した。この世に存在しなくなった。その末路がどうだったのかは、ワタシには分からない。まあいい。「情欲」という「存在」が消滅した所で、その「観念」が無くなったわけではない。そのうちに、この時代により適合したカタチの「情欲」が発生する事だろう。いや、もう既に存在しているのかもしれないが。
「ホウカゴ」になった。
ワタシは「いつもの様に」「セイトカイシツ」に向かった。
これも「ニッカ」なのだ。何の不思議もない。
「セイトカイシツ」の扉を開け――む?
部屋の中には誰もいなかった。
いつもならば…「記憶」によれば「ナカマ」の「テツガヤカネコ」や「ミズシマシンコ」が来ているはずなのだが、今日は二人とも姿が見当たらない。
まあそれもよかろう。ニンゲンには個々の事情という物があるらしい。
事実、シンコなどは、時々ここに来ない事もあった…らしい。
あまり、この「らしい」という言葉は用いたくはない。
表現が曖昧な物、文字で表現できない物を受け付ける事はできない。それは「ワレワレ」の存在意義に反する物だ。
とはいえ、「いつもの二人」がここにいないという事は、むしろ都合がいい。
今朝の「シガヨシハル」君の様に、「疑問を感じた時の顔」をされるのはまずい。
そういえば、その「シガヨシハル」君は、またワタシに会いに来るはずだ。
…今度は、今朝の様な失態は繰り返すまい。
どうすれば自然にふるまえるか…を構築しながら、ワタシは「シガヨシハル」君を待った。
やがて、ガラガラ…と部屋の扉が開いた。
「『シガヨシハル』君か?」
「ざーんねん。志賀くんはね、今日はこないよ」
そう言ったのは、「ハクイ」を着た一人の「オンナ」だった。
ふわりとした髪が印象的な、まださほどには存在時間も長くなさそうな個体だった。
…誰だ?
「キバシアヤ」の「記憶」にはなかった存在だが。
「今日はね、お休みしちゃいなさいって私が言ったから、志賀くんはここにはこない」
オンナは無防備に笑った…いや、むしろ「嗤った」と言った方が相応しかったかもしれない。そこには、明らかに自分よりも下位の存在に向けられた意識が込められていた。
「兼子ちゃんと真子ちゃんもそう。今日はこないよ」
ワタシは、この得体のしれない「オンナ」に戦慄を覚えた。
この「オンナ」には、何か底知れぬ物を感じる。
それを表現できないのが恐ろしい。
理解できない物、そして表現できない物には恐怖を覚えるのだ。
「…どうしたの『文ちゃん』?さっきからずっと黙ったままだね」
「あ…いや…」
「さあ。『いつもの様に』、校内の見回りに行こうよ。くすくす」
「オンナ」はまた嗤った。
《この『オンナ』はまずい!》
ワタシは「オンナ」の脇をすり抜けると、一目散に駆け出した。
それは「直感」などという非論理的な物だったが、その衝動がワタシの身体を突き動かしたのだった。
その「ロウカ」には誰もいなかった。
まるで、ワタシとあの「オンナ」だけを残して、このセカイから一斉に「ニンゲン」が消えてしまったかの様に。
幸いな事に、この「キバシアヤ」の身体能力は、他の個体よりもよほど優れた物だった。
目も止まらぬ速度で足が動く。
とにかく、今はあの「オンナ」から一歩でも遠くに離れなければ…
ワタシは「ロウカ」を一気に駆け抜けて、突き当りの角を曲がり――
「で、今日はどこから廻るの?」
「…!?」
そこには、あの「オンナ」がいた。
ワタシは踵を返して、今きた方角に向かって走り出した。
なぜだ?なぜあの「オンナ」がそこにいたのだ?
分からない分からない分かラナイワカラナイ!?
とにかく、この「コウシャ」にいるのはよくない。逃げなくては!
ワタシは飛び降りる様に「カイダン」を駆け下りた。
「そんなに焦らなくってもいーよぉ」
「…ひっ!?」
「そこ」にも、あの「オンナ」がいた。
「あ…あ…ああああ…」
「戦慄」。「恐怖」。
ワタシの意識は、そんな言葉で一杯になった。
あいつらまでが「表層」に出てきてしまうと、身動きも取れなくなってしまう。
ワタシは、ともすれば飛び出してきそうな「同胞」たちを必死で押さえつけながら、あの「オンナ」から逃げ出した。
今度は「ワタリロウカ」を過ぎて隣の「コウシャ」に渡り、「カイダン」を駆け上がる。
とにかく逃げねば!
ワタシは夢中で「カイダン」を駆け上がり…気がつくと、そこは「オクジョウ」だった。
屋外に出ると、まだ肌寒い風がワタシの髪を撫でていった。
「うん。そうだよね。見回りのゴールは、いつもここだもんね」
「オンナ」はそう言って、またくすくすと嗤った。
「…お前…誰だ?」
「くすくす。さぁて。誰でしょうか?」
またしても「オンナ」が嗤う。
危険!危険!危険!危険!危険!危険危険危険危険危険危険!!!!!
なぜか、あの「メザマシ」のベルの音がアタマの中に鳴り響いた…気がした。
ワタシは「記憶」の中から、何かこの事態を打開できる方法はないか模索する。
即座にひとつの「ブキ」の存在を思い出した。
左手の袖を振ると、一本の棒きれが飛び出した。
「ふぇっちボウ」。「キバシアヤ」が最も使用する「ブキ」だ。
短かった「ふぇっちボウ」は、すぐに手頃な長さになった。
先端は「ヤリ」状になっていて鋭利な「ヤイバ」が付いている。手元側の先端には、
「ニンゲン」の頭部の「コッカク」を模した意匠が、3個付けられている。
「あらあらあらまーまーまー。『文ちゃん』、オイタはダメだよ」
「オンナ」はまた嗤う。「フユカイ」だ。消滅させてしまおう。
ワタシは「ふぇっちボウ」で振りかかっていった。
「あーあ。ダメだなあ。フェッチ棒の基本は投擲でしょ?」
「オンナ」は、ワタシの攻撃をいとも容易くかわすとそう言った。
そ…そうなのか。
言われるまま、ワタシは手にした「ふぇっちボウ」を「オンナ」に向かって投げつけた。
どすっ。
鈍い音を立てて、「ふぇっちボウ」は「オンナ」の左胸に突き刺さった。
「くすくす。くすくすくすくす」
しかしどういう事だ?「オンナ」は胸にそれを突きさしたまま、一向にその活動を停止する事もなくワタシに近寄ってきて…その左腕を鋭利な「ヤイバ」に変化させた。
「あ…あ…あ…あ…あ……」
思考がまとまらない。
「オンナ」は、ついにワタシの目の前に立ちはだかった。
「ひいっ…!!」
そして「オンナ」は、その凶悪なカタチの左手を横に撫で払った。
ぶしゅっ…!!
突然、ワタシの首から下が消えうせた。
いや違う、ワタシの首の方が胴体から切り離されたのだ。
視界が空中をぐるぐると回る。
最期にワタシの目に映ったのは、真っ赤な鮮血を噴水の様に噴き出しながら、力なく崩れ落ちてゆくワタシ自身の胴体だった…
ああ、そうか。
ここは「オクジョウ」。
過日、「情欲」が消滅した場所だったのだ。




