12 文字禍 1
…結局、志賀君とはあの後すぐ、挨拶もそこそこに別れて帰宅してしまった。
あんな破廉恥な行為に及んだ後で、一体どんな顔をして彼と接すればよいというのか?
思い出すだけで頭が沸騰しそうになってしまうが、その時の顛末を語らせていただこう。
「ママー。あそこのおねえちゃん、あのギターのおにいちゃんにチューしたよ?」
信号待ちで停車中の車の窓から顔を出した男の子の声で、私は我に返った。
「しっ!見るんじゃありません!」
運転席でハンドルを握る母親らしき女性が、その子をたしなめていた。
…何という様式美的親子の会話であろう。こんな会話は、マンガやドラマなどでもう数えきれないくらい見聞きしてきた内容である。
それが、よもや我が身に起ころうとは。
…などという冷静な判断が、その瞬間の私にできようはずもなかった。
頭の中は真っ白。
口の中に広がるパスタ・ソースの風味だけが、やけに鮮明に感じられた。
「あのっ、あのっ…えっと…うわーうわー…」
あわわあわわと私の口から出てくる言葉は、もはや人語の体を為していなかった。
志賀君は目を丸くしたまま、私に舐め取られた頬を押さえて茫然としていた。
その目だけは、私を凝視していた。
おそらく、あまりにも突然の出来事に、何も考えられないのだろう。
それは、そんな行為に及んだ私も同様だった。
「あのっ…ごっ、ごめんなさいっ!わ、私、用事があるので今日はこれで失礼しますね志賀君、また明日学校で!」
やっとそれだけを口にすると、私は逃げる様に彼の前から走り去って、ちょうどやってきたバスに飛び乗ってしまったのだ。
ほとんど乗客のいない、休日の午後のバス。
その最後尾の座席に腰を下ろすと、私ははぁ、とため息をついた。
ちょっとだけ冷静になって、己が行動を顧みる。
…本当に、私は何という破廉恥な女なのだろう。
いくらケンカ中だった彼氏さんと仲直りできたからと言って、往来の真ん中で…その…彼の頬をぺろぺろ舐めるとは…
…どうしてそんな破廉恥な行為に及んでしまったのか、自分でも分からない。
正直な気持ちを言えば、私だって好きな男の子には抱きしめてほしい。手をつなぎたい。
優しく髪を撫でてほしい。それに…その…キス…だってしてほしい。
しかし、それは二人きりの時に限っての事だ。
欧米の恋人たちは、往来でも公然といちゃいちゃしているそうだが、ここは日本、しかも群馬県高崎市という地方都市。まだまだ日本古来の節度という物が根強く残っている土地柄でもある。
…いやいやいや。そんな事は建前にすぎない。
私だって、それなりの「常識」という物くらいは持ち合わせているつもりだ。
いくら「魔法」という、およそ常識から逸脱した理を旨とするのが魔導師だとは言っても、同時に私は、20世紀の民主主義・法治国家たる日本国の公立高校に通う17歳の小娘に過ぎないのだ。
永い間、外部とは距離を置いていた私たち鬼橋一族だが、明治以降、恐ろしい勢いで変化してゆく社会に迎合してゆく道を選んだ。ごく普通の田舎の一族として、地域社会に溶け込んだのだ。
そんな中、時流に逆らい、魔導師として傍若無人にふるまったのが「御初様」こと初代鬼橋 文だった。
彼女は帝都東京に拠点を置き、多くの少女を自らの魔道研究の実験体にした。
数名の少女の体を繋ぎ合わせて、一体の人造人間を造ろうとした。
少女と植物の合成体の実験。少女の肝臓から作った起死回生の秘薬。
時には朽ちた死体を律動させたりもした。
「実験体」の少女を得るために、彼女は夜な夜な上野公園に出没したという。
漆黒のマントをひるがえして、哀れな犠牲者の背後に忍び寄る魔女。
肩を叩かれた時、その少女の運命は定まった。
「肩を叩く女」。正体不明の魔女は、そう呼ばれて恐れられたという。
そんな怪談を生み出した魔女の名を受け継いで生まれたとはいえ、私は御初様とは違う。戦後の民主教育を、ごく当たり前として受けて育ってきた、一介の女子高生に過ぎないのだ。己が欲望のまま、勝手気ままにふるまう事などできるはずもない。
…私は御初様とは違うのだ。
ましてや私は、生徒会長という責任ある立場にある。
その私が…あああ、何であんな事をしちゃったんだろう。
恥ずかしい、という気持ちよりも、まずは「何故?どうして?」という疑問の方が先行していた。
…あれでは、まるで私が色情狂みたいではないか。
己が内なる欲望は否定しない。
私だって、淡白ではあるが肉欲のひとつくらいはあるつもりだ。しかし、その肉欲に溺れて安易な行為に及ぶのは愚の骨頂である。
…何が「鉄血宰相」だ。
何が「アイアンメイデン」だというのか。
こんなのは私じゃない。私であるはずがないのだ。
『次は~古取町~古取町~』
車内アナウンスは、私が内なる葛藤と問答している間に、いつしか自宅の最寄りのバス停に迫っている事を告げていた。
慌てて「…あ、降りまーす!」と声に出してから、停車ボタンの存在を思い出した。
それくらい、私はまだ動揺していたのだ。
…乗客がほとんどいないバスでよかった。
バスを降り、自宅までのわずかな距離を歩く。
ほんの数時間前、私はこの道を逆に歩いていた。
あの時は、自分の身に降りかかった様々な問題に頭を悩ませながらだった。
その後、悠久堂での志賀君との思わぬ邂逅があって。
亜弓さんのおかげで仲直りできた志賀君との、ささやかで楽しいブランチ。
その直後に起きた…起こしてしまった破廉恥行為。
落ち込んで。笑って焦ってまた落ち込んで。
…何という感情の乱高下した一日だったのか。
結局、その感情は元の木阿弥、朝の落ち込みに舞い戻ってきたのだった。
「…ただいま帰りました」
自宅の玄関のドアを開けたが、ママは不在だった。
きっと近くの住民センターにでも行って、何かのカルチャー教室にでも参加しているのだろう。
そういえば、ママは最近、袋物細工に凝っているみたいだったっけ。
そんな事を考えながら、ふと目をテーブルの上に向けると、回覧板が置かれているのに気づいた。もしかしたら…と思い、それを手に取って開いてみたら、案の定、今日の日付で袋物細工の教室が近くの公民館で開催されているとの事だった。
講師は…「伝統工芸士・袋物細工師範・志賀絹江さん」って…え?
私はその名前を存じ上げていた。
存じ上げるも何も、それは我が彼氏さん、志賀義治君のお母様のお名前ではないか!
おそらく、ママは知らなかったとは思うが、こんな所にもご縁を感じてしまった。
一度、彼のご自宅にお邪魔させていただいた事がある。
彼の家は高崎でも郊外の、農村地帯の一角にあった。
先祖代々、この土地に住んでいるというだけあって、敷地もけっこう広いお宅だった。
志賀君に案内されて玄関を上がると、下駄箱の上に飾ってあった可愛い細工物の人形が目に入った。
「可愛いお人形ですね」と素直な感想を口にしたら、「それは私が作ったのよ」と、品の良さそうなご婦人の声がした。それが志賀君のお母様だったのだ。
慌ててご挨拶した私だったが、笑顔で迎えてくれたこのお母様は、一目で尊敬できる方だと感じ取れた。将来、私もこんな笑顔の似合う女性になりたいなと思った方だった。
…笑顔のおよそ似合わない私だから、こんな笑顔の似合う女性には憧れてしまうのだ。
お茶の間に案内されてしばらく談笑していた所に、農作業から戻られた彼のお父上も合流した。こちらはいかにも戦前の日本男児といった貫禄ある方だった。一見してかなり気難しそうな印象があったのだが。
「…あ、あの、初めましてお父様。私、志賀君…義治さんとお付き合いさせていただいている、鬼橋 文と申します」
私は直立して深々と頭を下げたら、お父様は何と正座して、土下座で返してくださった。
「この度は、我が愚息にご厚情を賜り、凡父としては恐縮の至りでございます。何分にも不出来な息子でありますが、ご容赦くだされば幸いでございます」
何とも礼儀正しい方だった。聞けば、私たちの世代の親にしては珍しく、旧帝国軍人として出征経験もお持ちだという。得心。
お父様の土下座は、黙々とおよそ1分近くにも及んだのだった。
立派な方である。こちらも尊敬に値する人物た。
そんなご両親に育てられた彼が、いっそう好きになった。
…そんな至福の時もありましたけれど。
…何だろう、この心の中に浮かぶ切なさは。
あの、温かみのあるご家庭の敷居を跨ぐという行為のハードルが一気に上がって、今や聳え立つ壁となって私の前に立ちはだかってしまった。
いや、これはあくまでも私の心の中での葛藤に過ぎない。
…過ぎないのだが。
今さら、どんな顔をしてあのお宅に赴けようか?
嗚呼、楽しかった昔日を思えば、私の口から漏れるのはため息ばかりなり。
私は、悠久堂で買った年代物の目覚まし時計の入った箱を、「ママへ」と書いたメッセージ・カードを添えてテーブルの上に置いた。
…とにかく、疲れた。部屋に戻って少し休もう。
私は自室に戻った。
ここは本来、父の部屋だった。地元新聞の記者の父は、今は京都の支局に単身赴任中なので、高校入学と同時に、私がこの部屋を使わせてもらえる事になったのだ。
クローゼットの扉を開け、着ていたコートを脱ぐ。
私は服を脱ぐ時は、必ずポケットの中身を確認するのが習慣になっているのだが━━む…?
コートのポケットの中には、折りたたまれた1枚の紙切れが入っていた。
あの時計を買った時、亜弓さんは領収書を出してくれたのだが、これはプレゼントだからと私はお断わりしたはず。
では、志賀君と昼食をご一緒した時のレシート…?いや、それも違う。
あの時はワリカンで支払ったし、あの時もレシートは受け取らなかった。
…今日ではなく、以前に外出した時の物が残っていた?いやいや、私はいつもポケットの中身を確認してからクローゼットにしまっているので、そんなはずもない。
そもそも、この紙は、レシートや領収書の類にしてはかなり大きなものだった。
四つ折りになっていても、ちょっとした手帳くらいの大きさである。こんな大きな紙がポケットに入っていれば、ふつうは気づきそうな物なのだが。
不審に思いながらも、私は紙を広げてみた。
…む?
そこには、何やら見慣れない文字が、びっしりと書かれていた。
文字を紡ぎ組み合わせ、魔力を生み出す魔導師としては、いくつかの言語はマスターしているつもりだったのだが、その私でも把握できない文字だった。
欧州圏の物でも、東洋の物でもない。
それは象形文字――楔形文字だったのだ。
シュメール語?ヒッタイト語なのか?それともエラム?アッカド?
ギリシャ語やラテン語ならまだしも、それよりはるか太古の文字の知識など、いくら私でも、その範疇にはない。
とはいえども、文字を操る魔導師の習慣で、その紙に記された文字に目を通した。
…見てしまったのだ。
…びくん!
最後の行まで文字を目で追い終えた瞬間、身体に軽く電撃が走った。
私の網膜を通って、あの無数の奇怪な文字が身体の中に這寄ってくる。
獣のカタチ。鳥のカタチ。魚。蛇。天秤。武具。太古の神々。子供。老人。男。
そして――女。
文字は個々に、あるいはひとつの群れとなって、私の眼球の水晶体に染み込んできた。
その圧倒的な情報量に、私は眩暈を覚えた。
すると文字たちは、各々勝手に得体のしれない言葉で喚きはじめた。
それぞれが好き勝手に自己主張し続けるものだから、他には何も聞こえない。
…私の眼球を支配した文字どもは、今度は鼓膜の中を犯しはじめたのだった。
恐ろしい。
何が恐ろしいかと言って、この異様な文字どもの浸食が、凌辱される私には心地よい物に思えてしまう事だった。
浸食される快楽。
目と耳を犯し抜いた奇怪な文字どもは、いよいよ私の脳に忍び寄ってきた。
脳が際限なく膨張してゆく様な多幸感。
悍ましくも官能的な快楽の波しぶきが、私の脳に降りかかってくる。
その滴が脳に降り注ぐ度に、私は愉悦に打ち震えた。
「…気持ちいい…」
口元から涎を垂らしながら、私はより深く強い快楽を求めた。
もはや、あの紙切れに書いてあった文字の事など、どうでもよくなっていた。
必要なのは、今、私を満たしてくれている快楽の波だけ。
痺れる様な、それでいて、肉体はおろか精神までをも優しく包み込んでくれる様な快感。
その快感の波は、絶え間なく押し寄せては去って、また押し寄せては去って…
私は抵抗もせずに、その波長に身を委ねていた。
沈んでゆく。沈んでゆく。
私を包み込む快楽の波は、私そのものを呑み込んでゆく。
次第に意識が薄れてゆき、より深い深淵へと―――――
…ジリリリリリリリリリリ!
「…!!」
突然響いた、耳に馴染みのあるベルの音で、私の意識は現実に呼び戻された。
最初に目に入ってきたのは、見慣れた私の部屋の天井だった。
…どうやら私は、いつの間にかベッドに潜り込んで、うたた寝していたらしい。
しかも、かなり寝乱れていたみたいだった。
ブラウスは第三ボタンまで外れており、スカートはめくれて下着が丸見え。
よほど興奮していたのだろうか。胸のささやかなる二つの膨らみが、乱れた呼吸に合わせてわずかに上下に揺れ動いていた。
肌にはうっすらと汗をかいていた。まだまだ寒い季節だというのにも関わらず。
頬に触れてみた。かなり熱い。それに。
――下半身が、やけに熱気を帯びていた。
…ひどい有様だった。
どこか気だるさを伴った、奇妙な高揚感。
こんな感覚は経験した事もない。
…もしかしたら、これが世に言う「性的な快感」という物なのだろうか?
それは、「鬼橋 文」としての宿命を持って生まれた私には縁遠い感覚のはずだった。
「文ちゃーん。帰ってきてるのー?」
リビングの方から、ママの声が聞こえた。
あ、そうか。さっきのベルの音は、帰ってきたママが、あの箱を開けて目覚まし時計を鳴らせた音だったんだ。
「あ…はーい!部屋にいまーす」
思わず返事をしてから、このまま出て行くのは何となく気まずくて、慌てて服装の乱れを直す。
大きく深呼吸をしてから、部屋のドアを開けて廊下に出た。
ママは目覚まし時計を手にして立っていた。
「あ…あの、ママ、お帰りなさい」
「なぁんだ。もう帰ってたのね。…この時計、文ちゃんが買ってきてくれたの?」
「あ…うん。悠久堂で」
「ありがとう!ママ、とっても嬉しいわよ」
「どういたしまして、です。元々、私が壊しちゃったのが悪いのですし…」
「もぅ!そんなの気にしなくていいって言ったのに…あ、そうそう聞いてよ。今日ママね、お出かけした所で、意外な人と会っちゃったの!誰だと思う?」
「…志賀君のお母様、ですよね」
「…ほぇ?」
意表を突かれて、ママは唖然としていた。
「…何で知ってるの?」
「志賀君に聞いたのです」
まったくの嘘だった。
ただ、その話題に載ってしまうと、話が広がって志賀君とのお付き合いの話題になるのは容易に想像できた。
そうなれば、今日の私の痴態を、内心いやという程思い知らされる事になる。そんな事態は避けたいのが本音である。
「…あ、ああ、そうなの…それでね?」
「すみませんママ。昨夜、あまりよく眠れなかったので、少し頭がくらくらするのです。このまま、夕飯まで部屋で休みたいのですが」
「あ…ああ、そうなの。それじゃあ引き止めちゃ悪いわね。ぐっすり寝るのよ?」
「心得てます…おやすみなさい」
「はい、おやすみ…あ、そうだ、この時計、さっそく使ってみる?」
「そうですね…ご厚意に甘えさせていただきます」
私は買ったばかりの目覚まし時計を受け取って部屋に戻った。
ぱたん。
ドアが閉まる弱々しい音を後ろに聞くと、私はそのままベッドに倒れ込んだ。
「…ううううう…私は何て事をしてしまったのだ…」
恥ずかしい。まったく恥ずかしい上に情けない。
枕を抱きしめ、ベッドの上でごろごろと悶絶する。
…私はいつから、ああも破廉恥な女になってしまったのだ?
破廉恥。無節操。自制心の欠片もない淫乱な女じゃないか。
枕を抱きしめる腕に力が入る。そうなると、ぎゅっと抱きしめられた枕は、私の顔に当たるわけで。
…私自身の体温で暖まった、枕の温もりが心地よい。
それは、人肌のぬくもりを連想させた。
「…志賀君のほっぺ、柔らかかったなぁ…」
彼の肌の感触を思い出して、私は枕に頬を埋めてみた。
「…志賀君…」
そう思うと、枕が志賀君の顔に見えてきた。
「…ね?志賀君。…えっちな女の子は嫌い…かな?」
枕が応えてくれるはずもない。
私は舌なめずりすると、枕を彼の顔に見立てて舐めはじめた。
最初は唇で軽く甘噛み。徐々に…次第に大胆に。
舌の付け根付近までさらして、枕を無心に舐め上げる。
時々、舌の動きを小刻みにして緩急をつけてみると、これが意外に興奮する事にも気づいた。これはよい発見をした。くすくす。
舌というとても敏感な部分に、枕カバーの生地の感触が伝わってくる。
ママに言ったのは詭弁だったつもりだが、どうやら本当に疲れがたまっていたのか、私の意識は、やがて微睡の中に吸い込まれていった…




