10 悠久堂にて。 2
「…や…やハ、しがクン」
せめて年上の私は余裕をもって会釈しようとしたのだが、如何せん顔の筋肉が強張ってしまい、無闇矢鱈に堅苦しい声と台詞しか出てこない。
まったくもって遺憾千万な事である。
対する志賀君も、この予想外の遭遇にはかなり驚いている様で、口をぱくぱくさせているばかりだった。
お互いに、こういった時にうまく立ち回る事などできないのは熟知していたはずだ。
「あ…ども、です。文ちゃん先輩…ではなくて鬼橋会長…」
あ…そうか。私はあの時、勢いに任せて「文ちゃん先輩って呼ぶな!」なんて言っちゃったのだった。
今にして思えば、余計な事を言ってしまったと後悔する事しきり。
お付き合いを始める前から…出会った直後から、彼は私の事を「ちゃん」付けで呼んでくれていた。その時まで、そんな呼称をしてくるのは家族と鮎子おねえちゃん、それに親族や亜弓さんくらいだった。基本的には身内の目上の方々ばかりだったから、校内で、ましてや年下の男の子から「ちゃん」付けで呼ばれた事にはかなりの抵抗…というか気恥ずかしさばかりが先立ってしまった。
考えていただきたい。
やれ「鉄血宰相」だ「アイアンメイデン」だのと、ひたすら堅苦しくて冷徹な響きの徒名で呼ばれ、生徒会長という立場もあって、それなりに順応させていた女がだ、ある日突然、年下の男の子から「文ちゃん先輩」などと呼ばれてしまった時の動揺の程を。
「何だこいつ、馴れ馴れしいな」とは思った。
その言葉は、私にとっては無防備な領域でのみ、耳にする物だったのだ。
学校での私は、「生徒会長」という役割に見合った人となりを演じている。威厳を持たせようとかいった生臭い感情など皆無だった、とは言わないが、決してそれだけではない。
「個性」を意味する「パーソナリティー」という単語の語源は「ペルソナ」。「仮面」を意味するラテン語だ。
仮面を被り続けていれば、やがてその仮面そのものが「素顔」になる。
たとえば、会社で課長に昇進した男がいたとする。その直後は貫禄もなく、とてもそうは見えなくとも、数年後の彼は、立派に課長の顔になっていることだろう。
彼は「課長」の仮面を被り続けているうちに、その仮面が本物、彼の素顔になったのだ。
これは日本においても、古来から同様な考え方がある。
能の仕舞に用いる「能面」。翁面や女面、男面、尉麺、怨霊面に鬼面、神霊面など、実に様々な種類があるが、これらはみな、それぞれの「役割」を演じるための物だ。
これらの面をつけた瞬間から、その下にある素顔は消滅してしまう。
たとえば女面をつけた瞬間から、たとえ演者が男性であったとしても、舞台上に立っているのは「美しい女」という存在でしかない。
…そういえば、昔読んだ民話に、悪戯で鬼の面を被ったら取れなくなってしまい、やがて身も心も鬼そのものになってしまった女の物語があったな。
つまりは、学校での私は、「生徒会長」たらんとその役割、すなわち「仮面」を纏っている様な物なのだ。
とはいえども、いくら仮面を被ろうとも、その下にあるのは、近しい方々から「文ちゃん」と呼ばれる、融通の利かない17歳の小柄な少女でしかない。
志賀君は、最初からその「仮面」の内側、脆弱な素顔に触れてきた。
普段は仮面で隠されて敏感になっている素肌を、いきなり撫でられた様なくすぐったさがあった。
しかも相手は、私よりはるかに背が高いとはいえ、中学校を出たばかりの年下の男の子だ。
ここは年上の貫禄で、余裕をもって応じようとしたのだが。
そこは融通の利かないのが私。
そのくすぐったさに、ある程度の快感を覚えながらも、年上のプライドだとか生徒会長としての威厳とかいった余計な物が、即座に反応してしまった。
だから、彼と出会ってしばらくの間、私の口から飛び出したのは、
「文ちゃん先輩って呼ぶな!」
という拒絶めいた言葉でしかなかった。
――ところが、である。
この志賀君という少年は、私と同様、よほど変わっているらしかった。
私が何度たしなめても、彼の口から出てくるのは「文ちゃん先輩」。
身近な方々からしか呼ばれた事のないこの名前は、「仮面」を外して無防備な状態の私にのみ通用する物だった。
何度も何度もそう呼ばれ続けているうちに、その言葉は次第に私の仮面に染み込んでゆき、敏感な素顔にも浸透していった様だ。
素肌を優しく、とてもやさしく撫でられ続ける快感になぞ、いつまでも耐えられるわけがない。
私は、その快楽に屈したのだ。
しかしそれは、決して不愉快な敗北ではなかった。
いつの間にか、私は彼からそう呼ばれる事に幸福感さえ覚える様になっていた。
それを「恋」と呼ぶのかどうかは知らないが。
先にも触れたが、言葉には精霊が宿っているという。
精霊の宿る言葉を紡ぎ組み立て、重ね合わせて「力」を生み出すのが魔導師だ。
魔力を帯びた言葉に深く接している魔導師は、私に限らず、この「言葉」に影響を受けやすい。それを自己抑制し操ってこそ「一流」といえるのだが、まだ未熟な私など、時折この「言葉の魔力」に振り回されてしまう事もある。
私が暗示に弱いのも、ここにその原因があると言ってよいだろう。
私は彼から「文ちゃん先輩」と歩ばれ続ける事で、ある種の暗示にかかってしまったのかもしれない。
ただ、それは志賀義治君という、たった一人の男の子にのみ許された暗示らしい。
例外的に、彼以外の男子からもそう呼ばれた事があったが、その時は不快感しかなかった。
しかし、その暗示を、私は自ら否定してしまった。
たった一言。
『文ちゃん先輩って呼ぶな!』
この、たった一言で、私の幸福な暗示は砕けて溶けて、消え去ってしまった。
人は、一度幸福を覚えた後にそれを喪うと、より絶望感に陥ってしまうらしい。
志賀君を責めるのは過ちだと思う。
彼は律儀にも、私の暴言を守ってくれているだけなのだ。
「…………」
「鬼橋…会長?」
押し黙ってしまった私を、志賀君が怪訝そうな顔で見ていた。
「あ…ああ。申し訳ない。少し考え事をしていたのだ」
…あれ?
「志賀君、キミはなぜこんな店に?キミの様な高校生には、あまり関心がある様な物は、ここにはないと思うのだが」
…あれ…?あれれ…?
おかしい。
彼に対する言葉遣いが違っている?
彼とお付き合いする様になってからというもの、私は彼に対して極力敬語を使う様に心がけていた。
前にも触れたが、私が敬語を使うのは目上の方か、初対面の相手、そして心を許せる大切な存在に対してだけだ。
今の私にとって志賀君は、家族や鮎子おねえちゃんと同じくらい大切な、かけがえのない大きな存在になっている。だから私は彼に敬語を使っていた。それが私の敬意であり、誠意であり、そして…決意の表れだった。
…しかし、彼はこう言った。
『少々堅苦しい気もします』
…彼にとっては、それが重荷になっていたのだろうか?
私の誠意が伝わりきらない事が悲しかった。
が、今の私の口から出たのは、いつもの敬語口調ではなかった。
――彼に迎合しようとか、あるいはそんな彼に対する敬意が薄らいでしまった――決してそんな感情が働いていたわけではない。
自然に…ごく自然に漏れおちた口調は、兼子や真子たちに対するのと同じ、学校での「生徒会長・鬼橋 文」の仮面から出たものだった。
「…あ、いえ、このお店には、昔からけっこう掘り出し物とか安いギターなんかも置いてあるんで…前から何度かきた事もあるんです…よ?」
そういう志賀君の表情からは、私の口調の変化に戸惑っているのが明らかに感じ取れた。
…いや。戸惑っているのは私も同じだ。
いやいや。そうではない。当の私自身が、誰よりも一番当惑しているのだ。
…何で?どうしてこうなる?訳が分からない。
彼と見つめ合ったまま、私の頭の中は、自分への疑問で真っ白になった。
今や、私が一番信用できないのは自分自身だった。
「…あ…そうか。そういえばそうだったな。うん。このお店にはギターも若干あったな」
私は楽器類のある棚の方を見る振りをして、彼の視線から逃れた。
…む?
その棚の手前にある、もうひとつの棚。
壁に直接取り付けてある棚の端に置いている、1体の人形が目に入った。
およそ60センチくらいの大きさの、おそらくはフランス人形の類。
長くて美しい金髪をなびかせた、青い瞳の少女の人形だった。
時代がかった黒いドレスに、黒い大きな帽子。
あどけない表情ではあるのだが、角度のせいだろうか、私を嘲笑っている様な顔にも見えてしまった。
…あんな人形、この店にあったかな?
少なくとも、私はこれまで見た事はない。もっとも、さっきの蓄音器だってそうだったのだし、きっと亜弓さんがどこからか仕入れてきた物のひとつなのだろう。
疑問を私なりの解釈で納得させると、私はその人形に、それ以上の関心はなくなった。
…ただ。
その人形の無機質な青いガラスの瞳と、目が合ってしまった気がした。
気のせいだとは思うが。
「あ…あの、それで鬼橋会長こそ、何で朝からこのお店に?」
「あ…ああ。だって、ここは鮎子おねえちゃんのお店なんですよ」
…おや?口調が戻っている?
「え…ええっ!?そうだったんですか!」
この新情報は、彼にとっては大変な驚きだった様だ。ふふ。
「…し…知らなかった…だってアユミ姐、そんな事、一度も言ってなかったし…」
「アユミ姐?店長の源田亜弓さんの事ですか?」
「あ、はい。アユミ姐って、小木曽君っていう僕の幼馴染の従妹なんです」
ほう?世界は狭いものだな。
「…アユミ姐は、僕たち遊び仲間の親分肌で…恐ろしい存在でした…」
「恐ろしい?あの亜弓さんが?」
「はーい。文ちゃん!おっまたせー。これでいいのかな?」
その時、その女親分が、小さな箱を持ってお店の奥から出てきたのだった。
「あれ?ハル坊じゃない!アレ、見にきたの?」
「あっ、はい!謹んで拝見させていただきますっ!」
なぜか直立不動になって返事する志賀君。今にも敬礼とかしそうな勢いだ。
「ふむ。よろしい。閲覧を許可する」
「光栄でありますっ!」
あ、やっぱ敬礼した。ふたりはどういう関係なのだろう?
志賀君は、そのままギターの棚に向かっていった。
兵隊さんが行進して行く様な歩調だった。
「それはそうと、はい文ちゃん。あなたが探していたのって…こういうの?」
亜弓さんから手渡された、小さな紙の箱を開けてみる。
あ、これだ!間違いない。過日、私が壊してしまったあの目覚まし時計と同じ物。ただし、あれは水色だったのだが、今ここにあるのは淡い黄色…クリームイエローという違いはあったのだが、そこまで気にかける必要もない。それに、このお店になければ、他のお店にはもうない様な気もした。
「あ、これです!これが欲しかったのです!ああ、よかったぁ」
思わず、時計の入った箱を抱きしめてしまう。
「上々。喜んでもらえた様でよかった」
「でも…お幾らなんですか?」
お店の奥に置いてあるくらいの物だ。やはりそれ相応のお値段もするのだろう。
「じゃあ、これくらいで」
亜弓さんは右手の指を開いて差し出した。
「えっと…あ、50万円ですか」
年代物だ。やはりそれくらいにはなってしまうのか…。
「ううん、違うよぉ」
「じゃあ…5万円ですか?」
「ちがうちがう。5千円でいいよ?」
「そんな!?それって安過ぎませんか?」
「そうでもないよ?」
「…もしかして、鮎子おねえちゃんに気を遣ってませんか?」
「あっはは!ないない、それはないよ」
「だって…」
「このお店に置いてある品物の値段はね、鮎子さんからここを任される時に『あなたの好きな値段をつけていいから』ってお墨付きをいただいてるんだ。だから、私がそれを5千円と言ったら、それは5千円でいいのよ?」
「…でも、安過ぎます…こんなに年代物の優れた時計なのに…」
「あ、そっか。文ちゃんが気にしているのはそこかぁ」
亜弓さんはくすくすと笑った。どことなく、鮎子おねえちゃんに似ている笑顔だった。
「それが安いのはね、年代物だから…よ」
「年代物だから?」
「最近はねえ、もっと心地よい電子アラームの新しいモデルがいくらでもあるから、そんな古めかしくてうるさいのは人気がないの。…ゼンマイ式は不安定だしね」
「そういうものでしょうか」
「だから、そんな物を使いたがる酔狂な人なんて、今時なかなかいなくてね」
「…その酔狂なのがここにいますけど」
「あーごめんごめん。でも売れないのは本当よ。だからホントは5千円でも高いくらい」
私の予算よりずっと安いのはありがたいお話だった。
…同時に、自分がいかに時代遅れの流行遅れなのかも再認識させられたのだが。
「うん。じゃあそれでお願いします」
「上々。お買い上げありがとうございまーす」
私などとは比べるのも烏滸がましい、プロフェッショナルの営業スマイルをいただいてしまった。何となく恥ずかしくなって、ちょっと赤面してしまう。
「包装はどうする?唯さんへの贈り物なら、ラッピングしてリボンも付けるけど?」
「あ、それもお願いします」
じゃあ、ちょっと待っててね、と、亜弓さんはカウンターの奥に戻っていった。
店内には音楽が流れているわけでもなく、話し相手がいなくなると、静けさが際立ってくる。私はもう少し、店内の散策をしてみようかと思い、棚を見て回ろうと思った。
…ん?何か聞こえる…ああ、奥で志賀君がギターを試奏しているのか。それにしては音が小さい様だが…?
先ほどの件もあってか、直接、彼と顔を合わせるのも気まずいので、私は棚の陰から彼の様子を見てみる事にした。
あ…いた。
彼はこちらに背を向けて、椅子に腰かけてギターを弾いている模様だが…む?
後姿の彼の肩越しなのでよくは分からないが、彼が弾いているのは、いつものアコースティックではないみたいだ。
ええと…ヘッド?というのか、ギターの竿の先っぽの形が違う。
普通、弦を巻き上げる糸巻きは3個ずつ、左右…上と下というのか?━━に並んでいるはずだが、彼が弾いているのは、その糸巻が横に6個、一列に並んでいた。
それに彼の腰の脇から見えるボディ部分は銀色で、あまり厚みがある様には見えない。
…む…むむむ?
あれって…エレキ・ギターなのではないか?
…どういう事だ?
彼はアコースティック一途ではなかったのか?
先日のケンカだって、元をただせば、彼が敬愛するポール=サイモン氏が新作のアルバムでアコースティックではなくエレキを使っていたという事の、私と彼の見解の相違からだったはずなのだが…?
彼は『何だか裏切られた気がした』とまで言っていたはずなのに。
ギターになぞまるで関心のない私にとっては、正直な所どうでもいい様なお話なのだが、彼にとっては、それはアイデンティティを揺るがしかねない一大事だったらしい。
その彼が、なぜ…?
私は、ますます彼が分からなくなってしまった。
…ねえ志賀君。キミはいったい何を考えているのだろう。
私には、もう関心なんてなくなっちゃったのかな…
《…気になるのなら》
…………え?
どこかで、知らない少女の声がした。
《気になるのなら、抱かれてみればぁ?》
え…えええ…!?
私は店内を見回してみたのだが、この場にいるのは私と志賀君のふたりだけだった。
志賀君はギターを弾くのに夢中で、何も気づいていない様だった。
しかし、どこからか視線も感じる。…誰かが「いる」のだ。
もう一度、意識を集中して店内を見渡してみた。
視線…視線…。どこからなのだ?
ふと、さっきのフランス人形と目が合った。
…もしかして、視線を感じたのは、これが原因だったのか?
人形は、その無機質なガラスの瞳でこちらを見ていた。
…はは。ケンカ中の彼氏さんと同じ場所に居合わせているという予想外の事態に、私ともあろう者が、少々動揺している模様である。少し、神経も過敏になってしまっている様だ。テイク・イット・イージー。もう少し、気持ちを大きくもたねば…な。
そういえば、あの「声」だって、その内容はといえば、鮎子おねえちゃんから先日言われた様な事ではなかったか?
それにしても、よくできている人形だな。
優れた細工師の手による人形には「魂」が宿るというが…さぞかし名のある名工の作なのだろう。
そんな事を考えていると、ふと、ギターを弾いている志賀君の手が止まって立ち上がった。
私は慌てて身を引っ込めた。そのままカウンターの方に戻って、何事もなかった様に椅子に腰かけた。
志賀君もこちらにやってくる。
…気まずい。
空になっているお茶碗を口元に持っていって、さも、今飲んでいる最中ですよ的演技。
「…熱っ!」
ちょっと小芝居もやってみた。
「…それ、さっき飲み干してありましたよね?鬼橋会長?」
私の横を通る時、志賀君はぽつりと呟いた。
かぁぁぁぁぁぁ…。
…恥ずかしくなってしまった。失敗したなぁ、もぅ。
「…いっ、入れ替えたんですっ!」
「あ、そうなんですか」
「…ごめんなさい。嘘ついちゃいました」
「…ヘンな鬼橋会長」
《ダメだなぁ。くすくす》
まただ。また声が聞こえた。
ええい、邪魔をするな私の妄想。少しの間は大人しくしていなさい。
志賀君はそれ以上、私に話しかけてこなかった。
彼はカウンター越しに身を乗り出して、奥で作業している亜弓さんに向かって、
「アユミ姐?あのギター、アンプに繋いで音出してもいいかなあ?」
と声を掛けた。奥から「いーよぉ」との返事。
彼はまたさっきの棚の方に戻っていった。
今度は私の横を無言で素通りしていってしまった。
無駄だと分かっていても、やはり小芝居のひとつもするべきだったか。
彼が通り過ぎる時の、ごく僅かな風の感触だけが、今の私と彼の接点に過ぎなかった。
《抱かれちゃえばいーのに》
私の妄想は留まる所を知らない。うるさい黙れ。
ややあって、奥の方からぷつん、と何かのスイッチを入れた音がして、ぽーん…という音が、次第に大きくなった。
ああ、これが「エレキ・ギター」の音なのだな。
間近で、こんなにもはっきりと耳にしたのは、はじめての経験だった。
私の耳にはじめて飛び込んできた、意識して聴く生のエレキ・ギターの音が、志賀君の指から産み出された物だと思うと、何だか嬉しい。
と同時に、エレキ・ギターに対する抵抗感を持ちながらも、こうして弾いている彼の気持ちが分からなくなってしまい、私は混乱した。
志賀君は何回か適当に音を出すと、メロディーを弾きはじめた。
あ、この曲は知っている。
先日、屋上で彼と鮎子おねえちゃんが一緒に演奏していた曲じゃないか。
「キャシーの歌」、だったかな?
相変わらず、美しい響きの旋律だ。
とはいえども、先日彼が弾いていた時とはまるで印象が違う。
あの時はアコースティックで、今はエレキ・ギターだからなのか?
むぅ…たしかに彼があの時言っていた様に、まるで違った楽器の様にも聴こえるな。
しかし結局、彼が弾いているのは、あの時とまったく同じメロディーなのだし、おそらくは弾き方も同じなのだろう。
…何だ。結局、アコースティックもエレキも、同じ様に弾けるのではないか。
あの時、何で彼は、ああまで自分の意見に固執していたのだろうか?
《女の体も知らない様なオコサマだからじゃない?》
あ…また声が聞こえた。いい加減にしろ私の妄想。
心の中で強く念じれば、ほぉら、声なんてもう聞こえない聞こえない。
志賀君の演奏が終わった。
6本の弦の上を流れる様に動く志賀君の指。
その複雑な動きを想像するだけで、何だか気持ちが昂ぶってしまう。
…あんな動きで体を撫でまわされちゃったら…気持ちいいだろうなあ。
「ちょっと見ないうちに、だいぶ腕を上げたねハル坊」
はっ…!?
私の後ろから聞こえた亜弓さんの声に、我に返った。
…私は何という…何という破廉恥な妄想をしてしまったのか。
「いやぁ…夢中で練習しましたから」
褒められて満更でもなさそうな顔をして、棚の奥から志賀君が顔を出した。
「いやー上手い上手い。ほら、ここのお嬢さんなんか聴き惚れてぽーっとしてるじゃない」
亜弓さんは、私の肩に手を置いて笑った。
「え…文ちゃん先輩…鬼橋会長が?」
「わっ、私は別に志賀君の演奏なんか!」
「ほうほう。『文ちゃん先輩』とな?もしかして二人は知り合い?…あ、そうか!二人ともおんなじ高校だもんねえ」
…そこに気づくとは。さすがは亜弓さん。
「あーそうか!鮎子さんが言ってた、文ちゃんの年下の彼氏って、もしかしてハル坊、あんたの事だったの?」
「あー…ええっと…うーんと…そのはず、です」
志賀君は照れ臭そうにそう言った。
え?志賀君!こんな私の事を、まだ彼女だと認めてくれているのか!
何だか嬉しくて、目頭が熱くなってしまった。
うん、ダメ。今ここで泣いちゃダメだ。我慢がまん。
鬼橋 文は、曲がりなりにも魔導師だ。
魔導師は泣いちゃいけないんだ。
「ふーん、やるねぇハル坊。小学校の頃は女子に泣かされて、お漏らしまでしちゃってた、あのハル坊がねえ…才色兼備の鬼橋さんトコのお嬢さんを落とすなんて…お姐ちゃん、感慨深いなあ」
「その話はやめろよー!」
真っ赤になって手をぶんぶん振り回す志賀君。あは、何だか可愛いな。
「…あれ?文ちゃん、泣いてるの?」
「へ…?」
気がつくと、私の瞼からは涙が零れ落ちていた。
「あ…ああ、いいえ、今の志賀君の慌てぶりがおかしかったので、つい」
「あはは。ハル坊の晴れやかなエピソードはまだまだあるのよ?…あれは…6年生の頃だったかなぁ…」
「だからやめろって!」
くすくす。嬉し涙は、いつの間にか、本当におかしさで流す涙に代わっていた。
そんな私の背中に、またもや視線を冠した。
あの人形の置いていある場所からは、ここが見えないはずなのだが…?
まあいい。たとえ私の妄想の産物とはいえ、こんな視線なら、私は甘んじて受けようではないか。




