第2章 7節
オペラはすばらしかった。これまでに見たどのステージよりも良かった。エリザベスはサウスハンプトンのような田舎に住んでいたにしては、芝居もオペラも良く見ているが、さすがにロンドンの真ん中で歌っているプリマドンナはすばらしい。ロード・シルヴィはこんな音楽会に飽きるほど来ているだろう。エリザベスはロンドンの目新しいことで心が躍る反面、シルヴィも戻ってこない上に、田舎者と言われた自分がこのロンドンで本当にやっていけるのか、またしても不安でいっぱいになった。
オペラがはねた後、オリヴィアはエリザベスを伴って劇場を出た。その足でオリヴィアの知り合いのフィッツハーバート伯の屋敷へ向かった。フィッツハーバート家はオリヴィアの姉の嫁ぎ先だったが、オリヴィアの姉は既に亡くなっていて、オリヴィアの古い友人だったイサベラがフィッツハーバート伯の後妻となった。そんな話を馬車の中で聞きながら、エリザベスはまた誰か意地悪な人間が出てこなければいいがと不安を募らせていた。
「あなたブリッジは?」
馬車を降りるなりオリヴィアが訊ねた。
「たしなむ程度には」
本当はエリザベスはブリッジは得意だった。トリックの終わったカードから相手の持ち札が何か想像するのが面白いのだが、決してゲームにのめりこむようなことはない。父が生きている間は、他人とゲームをすることを許されていなかったからである。
「今夜はフィッツハーバートの甥がきているかも知れないわ。多分、カードに誘われるでしょう。けど、できればお断りしたほうがいいわね」
義母からどうしてそんな忠告があったのか、フィッツハーバート伯のサロンで、オリヴィアの後ろにずっとついてまわっていたエリザベスはすぐに理解した。フィッツハーバートの甥、テディアス・フィッツハーバートはシルヴィがロンドンにいない間の伊達者代表らしかったが、カードでカモになる人間を探していた。テディに誘われれば大抵の女性はカードテーブルにつく。既婚者だろうが年配だろうがおかまいなしだ。そして、相手にちょっと懐が痛む程度の負け方をさせる。エリザベスたちが誘われる前に、既に二組の若い女性たちが彼らにすっかり負けてしまっているのを、エリザベスは気づかれないように観察していた。
「やぁ、これは。珍しい方がいらっしゃる」
カードテーブルから一旦引き上げて新しいカモを探していたテディ・フィッツハーバートがオリヴィアの傍へやってきた。
「お久しぶりです。レイディ・オリヴィア。伯父は今夜あなたがいらっしゃるなんて一言も言ってませんでしたよ」
テディがオリヴィアの手を取る。黒く波打った髪が美しい。
「そちらの美しい方が、ロード・シルヴィの奥方ですか?」
流れるように自分の方を見たテディ・フィッツハーバートに、エリザベスは目を伏せ、小さく足を折て挨拶した。
「はじめまして」
カードに誘おうとしているテディを見越してその場を立ち去ろうとしたオリヴィアをフィッツハーバートが一歩前へ踏み出して制した。
「レイディ・オリヴィア。僕はポーツマスに友人がいて、お噂をかねがね聞いていたのですよ。何しろ、あのロード・シルヴィを射止めた女性ですからね。非常に頭のいい方だと伺っています」
テディ・フィッツハーバートはエリザベスの方を見て『そうでしょう?』と言わんばかりににやりと笑った。
「さぁ、それはどうかしら。あなたのカードの相手にはならないと思うわね」
「それはやってみなくてはわかりません。それとも、ロード・シルヴィが選ばれた方がブリッジの一回も出来ないと? 大英帝国の表に立つ外交官の奥方が?」
レイディ・オリヴィアは若いフィッツハーバートをじろりとにらんだが、大きくため息をついた。
「あなたには負けましたよ。やれやれ。またおこずかいをせびられるのね。ハンフリーはどこ? あなたのお友達には遠慮していただきますよ」
さっきまで一緒にカードテーブルについていたテディの友人は、テディの伯父、ハンフリー・フィッツハーバート伯にとってかわった。
勝負は三回と決められた。十三トリックを三回。長い夜になりそうだ。一回目はお互いのレベルがわからないので競り無しということになった。レイディ・オリヴィアはもちろんエリザベスと組んだが、トリックが進むにつれ、エリザベスが控えめながらゲームの勘所をきちんとつかんでおり、決して悪いパートナーではないことを感じていた。
一回目の勝負はレイディ・オリヴィアとエリザベスの組が勝った。さっきの女性たちと同じパターン。テディ・フィッツハーバートは初めは絶対に女性に勝たせるのだ。そして次にほんの少しの差をつけて勝つか負けるかして、心をくすぐり、そうして最後に大きく勝ちに出る。おおよそ初級者などはなからフィッツハーバートの相手ではない。ただの戯れか、あるいは金を巻き上げるためのカモでしかない。二回目の勝負はフィッツハーバート組がかろうじて勝った。その勝負が終わりかけのトリックで、エリザベスは自分たちのカードテーブルのすぐ先に、テディ・フィッツハーバートの友人らしき男たちがずっとそこを離れずにいるのに気づいた。テディは彼らの方を向いてはいたが、たまに視線を上げるくらいでそれほど気にしている様子はない……と思ったのだが、テディが落とした視線の先には彼らの足があり、テディと同じタイミングで視線を落としたエリザベスには、足がこつこつと床を小さく叩いているのが目に入った。
ゲームに集中しなければ……
エリザベスはテーブルについているプレイヤーに遅れをとらないよう、知らないふりを続けたが、やはりどうしても気になる。一トリック終わるごとに彼らの足が動くからだ。
男たちからはレイディ・オリヴィアのカードが見えている……?
最後の勝負に入って何度目かのトリックで、エリザベスは業を煮やしてゲームを中断した。
「すみません。こんな途中で……私、少し寒気がしますの。あちらの部屋から風が足元に来るようですわ。できればそのカーテンを引いていただくか、ついたてを広げていただけないでしょうか」
皆の視線が一斉にエリザベスの方を向いた。エリザベスは一瞬、自分がそんなことを言ったことを後悔した。
「確かに少し足元が寒いようだ。クリスティン、そこのついたてを広げてくれ。それから、レイディ・オリヴィアとエリザベスにひざ掛けを」
ハンフリー・フィッツハーバートがメイドに言いつけた。テディは少し驚いた様子でエリザベスを見つめていたが、何事もなかったかのように勝負を続けた。




