第5話
次の瞬間、霧の怪異の腕が同時に振り上がった。
包丁の軌跡が空間を裂き、フライパンが重圧を伴って叩き落とされる。
レッドウルフが横へ跳ぶ。
だが――
追撃は止まらない。
八本の腕が嵐のように振るわれ、逃げ場を奪う。
「……っ!」
このままでは押し切られる。
僕は地面を蹴った。
断界の空気を裂き、前へ踏み込む。
スキル《身体強化》。
魔力が筋肉へ流れ込み、視界が研ぎ澄まされる。
心臓の鼓動が遅くなる。
世界が、ゆっくりに見える。
振り下ろされる包丁の軌道を読み、半身で回避。
頬のすぐ横を刃が通過し、空気が裂けた。
――近い。
腐臭混じりの冷たい魔力が肌を刺す。
「レッドウルフ、左!」
赤い閃光が背後から走る。
怪異の腕が迎撃に動いた、その一瞬。
僕は懐へ滑り込んだ。
霧の身体は実体が薄い。
だが、完全な無形ではない。
魔力の核がある。
胸部中心――そこだ。
振り下ろされるフライパンを腕で受け流す。
骨が軋む衝撃。歯を食いしばる。
同時に踏み込み、
拳を叩き込んだ。
「――はぁッ!!」
強化された打撃が霧の身体へめり込む。
触れた瞬間、粘つく抵抗。
水中を殴ったような感触。
だが内部に、硬い反発。
核。
怪異の輪郭が激しく揺らいだ。
直後、八本の腕が収束する。
危険信号。
「来い!」
レッドウルフが一直線に突っ込む。
鋭牙が怪異の腕へ食らいつき、軌道を逸らす。
斬撃が僕の肩を掠めた。
焼ける痛み。
血が滲む。
だが浅い。
僕は踏みとどまり、もう一歩踏み込む。
至近距離。
顔のない闇が目の前に広がる。
冷気のような魔力が肺へ流れ込む。
吐き気を押し殺し、拳を握る。
「終わりだ……!」
魔力を拳へ集中。
全身の強化を一点に収束させる。
背後でレッドウルフが跳躍する気配。
同時。
打撃と牙撃。
僕の拳が核を撃ち抜き、
レッドウルフの牙が霧の中心を貫いた。
空間が、歪む。
怪異の身体が波紋のように崩れ、八本の腕が暴れる。
金属音が断末魔のように響く。
そして――
魔力の奔流が弾けた。
衝撃波が地面を走り、霧が一気に吹き散らされる。
静寂。
崩れゆく光の粒子の中で、僕は膝をつきそうになるのを堪えた。
コヒュ、と荒い呼吸が漏れる。
目の前で、怪異の残滓が光となって消えていく。
その中心に――
淡く輝く魔玉が、静かに落ちた。
レッドウルフが隣に立ち、低く息を吐く。
僕は震える手でそれを拾い上げた。
掌の中で脈打つ、濃密な魔力。
……間違いない。
これは、
とんでもない獲物だ。
被害はかなり大きい、だが、それを上回る成果を手に入れる事ができた。
断界の風が、静かに吹き抜けた。




