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あの子の嘘はかわいい嘘

「お母さんが先生に会いたいらしいねん」

 そう天王寺さんから言われたのは、ミーちゃんが走り回った次の日の夕暮れ時だった。ミーちゃんの足元はシャンプーをしたのか綺麗な白色に戻っていた。天王寺さんは初めて会った時に被ってた、ダイソーの白い帽子を被っていた。


「どういう話かな?」僕は恐る恐る尋ねた。

「詳しくはお母さんが話すって言ってたけど、何か頼みたいことがあるんやて」

「解った。大丈夫……」

「ほな電話するわ。散歩のとき会うって言ってるからすぐ来ると思う」


 天王寺さんが電話している間「頼みたいこと」について考えたが、間違いなく昨日の僕の失敗の事だろう。足元が真っ黒でドロドロになったミーちゃんを見て天王寺さんの母は驚いたに違いない。リードも一日でボロボロになっていたのを目撃しただろう。天王寺さんの母はまがりなりにも僕を、娘の犬の散歩の保護者を兼ねてくれる犬友達と認識していたはずだった。旅行中もミーちゃんとルーシーの仲を信じて、信頼してミーちゃんを預けてくれた。そういった意味では昨日の失敗は天王寺さんの母を怒らせたに違いない。「頼みたいこと」というのは、二度と娘には会わないでほしいと直接伝えようという事なのだろう。


 考えればそもそも三十五歳の無職のおっさんと十二歳の少女が一緒に犬の散歩をしていた事から、異常状態だったのだ。今さら何をと思ったが、所詮これは僕の嘘の散歩だった。嘘の散歩がいつまでも続くわけがない。妻の言う通りだと僕は思った。


「車ですぐ来るって。公園の入り口」電話を終えた天王寺さんは言った。

「ほな入り口に行こか……」

 僕らは公園の入り口目指して歩き始めた。ルーシーとミーちゃんは適当な草めがけて放尿し、時にお互いの鼻をこすり付けあったりしていた。僕は犬達に申し訳ないなと思った。僕らが過ごした数か月の散歩で、彼らは本当に仲のいい兄弟の様に見えるようになっていた。ある晩は我が家で一緒に眠りにもついた。昨日も天王寺さんの叫びに呼応して、共に遠吠えをあげていた。この二頭の犬は共に戦う同志の様に感じているはずだった。彼らの仲を引き裂くと思うと心苦しかった。


 公園の入り口に着くと僕はこれからの展開を想像し寒気がしていた。二頭の犬は相変わらずお互いの尻の臭いを交互に嗅ぎまわってた。

「お母さん来たわ」天王寺さんが一台の車を指差しながら言った。

「天王寺さんとこの車ってあの車なん?」僕は驚いて言った。

「せやで」

 公園の入り口に滑り込んできた車は、白いベントレー・コンチネンタルだった。


 車から降りてきた天王寺さんの母は、白いサマースーツを着ていた。白いスーツが似合う女性はテレビに出ている人以外では、芦屋市長ぐらいしか僕は知らなかった。そして間違いなく天王寺さんにそっくりな、美しい顔立ちをした大人の女性だった。

「初めまして山中先生。私が芽衣子の母の、天王寺舞です」言うまでもない上品な口調で、その女性は僕に話しかけてきた。


「いや初めまして。山中圭と申します。その山中先生はちょっと……」うまく言葉が出てこなかった。

 天王寺さんの母は笑って言った。

「その話、娘から聞いて本当に笑いました。確かに偉大なる山中先生がおられますものね?」

「そうなんです。参ります。できれば山中さんとかでお願いします」

「もちろんです」天王寺さんの母は笑顔で言った。


「昨日はすみませんでした。娘さんを危ない目に会わせてしまいまして、本当に申し訳なく思います」僕は先に頭を下げた。

「頭を上げてください、娘からその話は聞きました。山中さんは助けて下さったのですから。むしろ娘だけの時にその放し飼いの犬に出会ったらと考えたら、その方がよっぽど恐ろしい」

「せやで。あかんのは、あのおばはんや」天王寺さんが言った。

「芽衣子。そんな言葉使ったらあきません」


「いやでも、申し訳なく思います」

「山中さんにはこれからも娘をよろしくお願いします。犬の散歩に行くようになって、娘は本当に元気になりました」

「そう言って頂けると、こちらもありがたいです……」僕はようやく前を向いた。


 僕は天王寺さんの母が乗ってきた車を眺めていた。確かに芦屋はメルセデス・ベンツが軽自動車よりも多い異常な街だが、さすがにベントレーはさほど見かけない車だ。いくらぐらいするのか考えてみたが、想像もつかなかった。

「こちらいい車ですね。憧れます」

「主人の趣味でして。大きすぎて不便なところもありますよ?」

「ご主人ですか?」僕は驚いて言った。確か天王寺さんは「お父さんは今いない」と言ったはずだ。もしかしたら網走刑務所で懲役になっているのかもしれないとプリズンホテルのストーリーを思い出した。


「主人は海外に単身赴任してまして。ですから娘には寂しい思いをさせてしまって」

「それで犬を飼い始めたのですね」相変わらずバカな想像をしたと思った。家に帰って妻に言う文句が山ほどありそうだった。

「もちろんそれもありますが……」と言った天王寺さんの母は、赤い鞄からコードバンと思われる赤い革の名刺入れを取り出した。


「すみません。僕今、名刺を切らしてまして」僕は肩にかけたポーターのウエストポーチから、空の名刺入れを取り出し慌てて言った。

「娘から聞いております」

 考えれば当たり前の事だ。天王寺さんに聞いたメッセージは「働く奥様によろしく」だった。名刺入れを取り出したのも、仕事を辞めてから初めてだった。


「私こういう事業を展開させてもらいまして」

 そう言われ渡された名刺には天王寺舞の名前の他に、聞いた事のあるホット・ヨガ・スタジオの名前があった。確かJR芦屋駅で見たことがあるなと思っていたら、JR芦屋校、芦屋岩園校、西宮北口校、三宮校の四つのスタジオの表記があった。

「これ聞いた事あります。最近流行ってますよねホット・ヨガ」

「よろしければ、今度奥様をご招待しますよ?」

「いやいや。まあでも妻は喜ぶと思います……」思い直して僕は言った。


「その子がルーシーちゃんですね?」天王寺さんの母は僕の足元に座るルーシーを見て言った。

「この子がルーちゃん。ミーちゃんとおんなじビションや」天王寺さんが言った。

「ミッシェルでしょ。芽衣子」

「そんなん長い。ミーちゃんや」

「ミーちゃん、ミッシェルなんですか?」

「そうなんです。オスなのにミッシェルなんですよ。おかしいと思ったのですが、主人がミッシェルにしようって」

「うちもオスなのにルーシーなんです。同じですね」僕は笑って言った。


「実は今日お願いしたかったのは、ルーシーちゃんなんです」

 僕ではなくルーシーに用があるのだ。犬も出世したもんだと、放尿しようとしたが尿の出ていないルーシーを眺めた。

「今度うちのスタジオで新しくドッグ・ヨガを始めてみようと考えているのです。犬の癒し効果をヨガに取り入れてみようと。娘もミッシェルを飼い始めて、本当に元気になりましたから」

「ドッグ・ヨガですか。そちらは初めて聞きました」


「そのドッグ・ヨガでルーシーちゃんをお借りしたいのです。ミッシェルとルーシーちゃんでダブル・ビションのモデル犬をお願いしたいのです」

「ホームページに掲載する写真とか、チラシとかですか?」

「そちらももちろんですが、インストラクターとの相性も良ければ、ドッグ・ヨガの体験ドッグとしても活躍していただければと考えてます。もちろんその都度のモデル代はお支払いいたします」

「それはまあ、ルーシーの気分次第なところもありますが。でもルーシーが喜ぶなら」

「ありがとうございます。では詳細が決まればご連絡を。娘から携帯の番号を聞いてよろしいですか?」

「構わないです。ルーシーが喜ぶのなら、ヨガを楽しんでもらいたいと思います」



 天王寺さんの母は白いベントレーに乗って去って行った。僕は白いベントレーが見えなくなってもその残像を眺めていた。

「天王寺さん。君はええとこの子やってんね……」

「別に。普通やと思う」

「さすがに今回は普通とはちゃうと思うけど? 天王寺さんとこの車、一回運転してみたいわ」

「今度お母さんに言うとくわ」

「いや嘘です。怖くてようそんなことできません。あの車めっちゃええやつやねんで?」

「普通やん……」

 僕はもうそれ以上は言わなかった。その普通が普通でない事は、年を重ねれば分かるはずだ。


「お母さんドッグ・ヨガやるんやって?」

「らしいわ。家でミーちゃん持ち上げたり、腹の上に乗っけたりして遊んどる」

 それは遊びではなく色々と研究してるのだろうと思ったが黙っていた。

「お父さん、外国にいるんやってな。ちょっと寂しいな」

「うん。でもこの前会ってきた」

「会ってきたっていつ?」僕は尋ねた。

「この前旅行行ってきたやん? ロンドン行ってん。内緒やったのにお母さん」

 今さら北海道と思い込んでいた自分が馬鹿に思えた。妻にはものすごい文句があった。


「ロンドンか。涼しいわなロンドン。先生も十年以上前やけど行った事あるよ。でも初めての飛行機がロンドンやったら大変やったんちゃう? 十時間以上かかったやろ」

「大変やった。でも思ってたよりは席が広かった。寝るときな、ベッドになるねん」

 恐らくはビジネスかファーストクラスだ。エコノミーしか乗ったことのない大人にとって、もはやこの子はひがみの対象でしかない。素直に羨ましかった。


「お父さんに先生とルーちゃんの話をしてん。ほな喜んで先生へのお土産買いに行こうって、ロンドンのデパート一緒に行ってん」

「だからネクタイね……」妻も笑うだろう。

「先生もそうやけど男の人はようかっこつけるわ。なんやルーシーはお空に浮かぶビションの白い雲やって言ってた」空を見上げながら天王寺さんは言った。

「せやで。男はかっこつけるねん。ミッシェルは芽衣子の可愛い白い恋人やろ?」

「なんで解ったん! お父さんもそんな感じの事言ってた!」天王寺さんは今までで一番の驚きの表情を見せた。

「男やから解るねん」昨日の天王寺さんを真似て言ってみた。

「男もすごいな」天王寺さんは驚きの表情を続けながら言った。


「しかしルーシーがモデル犬か。お母さんなんでダブル・ビションにしようと思ったんやろね?」

「なんか南芦屋浜の人に聞いてんて。ビションが二匹、ダブルのめっちゃかわいいのがおったって」

「それ多分ルーシーとミッシェルやで。君らがロンドン行っとるとき、先生の奥さんと南芦屋浜の公園に行ったんよ」

「なーんや。ほなそのまんまやな」

「そのまんまやね」

 この子の言う通り、この世界はそのまんまなんだと思った。天王寺さんがシングルマザーの子供でも、ええとこの子供でも何も変わらない。僕らのドッグ・ライフはそのまんまだ。

「ほな公園歩いて帰ろか。まだ暑いで」

「ミーちゃん行くで!」

「ルーシーも行こか!」

 二頭のビションフリーゼは白い雲のような頭を揺らして走り出した。



「あり得へん勘違いやわ。もう完全に『生まれてくる家間違えたー!』やで。最高やわ」妻は笑い続けていた。

「何を笑って言っとるねん。勝手な想像して勘違いしてたんはほぼ君やろ? シングルマザーや田舎のバイオハザードな噂とか。函館なんか全くかすりもしてへんやん、ロンドンやで。ええとこの子供が、普通にええ服着てただけやん。ええ帽子もスマホのアプリやなくて、どっかホット・ヨガのつながりで貰ってきたんやろ」

「それもあなたの勝手な想像です。まあそんな気がするけど」

「君はテレビドラマの見過ぎやで……」網走刑務所を想像したことは黙っていた。


「でも考えたらそんなに間違えてないわよ? 天王寺さんは悩める十代の一人っ子。お父さんが家にいなくてお母さんも仕事で忙しく、毎日家で一人寂しくしていた。それで犬が家に来た。ここまではほぼ正解。計算したら九割は正解やね?」

「僕の気分的には一割ぐらいしか正解していません」


「あなたは天王寺さんのお父さんになりたかったのよ」

「そういう訳ではないと思うけど……」

「やっぱり、動揺してるでしょあなた。あなたは天王寺さんが好きでしょ? 天王寺さんに会ってから、あなたは天王寺さんのことばっかり話してた」

「確かにそうやけど……」

「あなたは嘘の散歩に行ってたんでしょ? 天王寺さんのお父さんじゃないけど、天王寺さんのお父さんみたいな人になっていた。大好きな天王寺さんに先生って呼ばれて、嘘のお父さんになっていた。それがあなたの嘘の散歩」

 僕は何も言い返せなかった。

「でも天王寺さんには本当のお父さんがいましたー! 嘘のお父さん残念」

「まあこれで良かったやん? 思ってたよりは幸せな家庭やったって事やろ?」


「私は嫌やった……」妻は突然言った。

「どうしたん?」

「私は嫌やった! あなたが天王寺さんに会うの少し嫌やった。あなたが楽しそうにしているからええかと思ったけど、やっぱりちょっと嫌やった」

「すまん……」僕は謝った。


「もっと嫌やったんは、もしかしたらあなたが天王寺さんの本当のお父さんになりたくなるかもしれないのが嫌やった。私、天王寺さんに会った時思ってん。この子は可愛すぎるって。この子のお母さんは絶対美人やって。もしあなたが天王寺さんのお母さんに出会ったら、本当の天王寺さんのお父さんになりたくなるって。それが一番怖かった」

「考えすぎやろ、そこまで頭が回らんわ」

「私は一番初めに思った。シングルマザーの子供って聞いた時、一番初めにそれを考えた。あなたがネクタイ貰った時も凄い怖くなって嫌やった!」

「すまんかった……」僕は自分の楽天に謝るしかなかった。


「……こんなん、天王寺さんに本当のお父さんがおるって解ったから言えるねんで? 解ってなかったら怖くて言えへんかった。最初に言いたかったけど、言えへんかった。私は嫌やった。あなたが天王寺さんに会うのは嫌やった。小学生相手に嫉妬する自分が嫌やった。他の女にあなたを取られるのが嫌やった!」

 いつの間にか妻は泣いていた。僕は黙っていた。何を言えばいいのか解らなかった。僕が楽しそうに天王寺さんと会った話をしていた時、妻はどんな気分で聞いていたのだろう。妻のしていた勝手な想像には、本音を覆い隠そうとする深い意味があったのだろう。僕は自分の聞きたいことしか聞いてなかった。


「ごめん。言わへんつもりやったけど、言っちゃった……」涙を拭いた妻は言った。

「すまんかった。天王寺さんとはもう会わへんようにするよ」

「そんな事はないよ。これからも会いに行き。天王寺さんもあなたを必要としているに決まってるもん」

「それはどういうことかな?」僕は尋ねた。


「だって天王寺さんは、あえてあなたに言わなかったんじゃないかな? お父さんは今はいませんじゃなくて、お父さんはロンドンにいますって言えば良かったのに。内緒の旅行に行きますもそうじゃなくて、お父さんに会いにロンドンに行きますって言えば良かったやん?」

「確かにそこは僕もおかしいなとは思っててん。もともと言葉少なめに話す子供やから、そんなもんかなって勝手に解釈してたけど……」


「だからあえて言わなかったんよきっと。言ってしまったら本当になるから、あえて言わない嘘。言わない嘘」

「じゃあなんでそんな言わない嘘をついたのかな?」

「あなたを必要としたからよ。言わばお父さんの代用品。天王寺さんだってお父さんはロンドンでお母さんはホット・ヨガ教室で忙しくて、寂しかったのは間違いないでしょ? あなたは公園の犬友達で、先生と呼ばれるお父さんの代用品。あなたがその気になるように、そう仕向けてあえて言わない嘘をついたんよ」

「あの子は本当に頭がいい……」僕は心底思った。


「間違いないよ。あの子の嘘はかわいい嘘。だからあとちょっとだけ、少なくとも天王寺さんが小学生でいるうちは会ってあげたらいいと思う。お父さんだってEUからの離脱でロンドンから帰ってくるかもしれないし、中学生になったら部活や恋愛で、てんてこまいよきっと」

「君は優しいな。僕にも天王寺さんにも……」

「何を今さら。こんなん普通です!」

そう言って妻は笑った。妻の笑顔は本当に綺麗だと僕は思った。


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