09『勢い』
ごりごりと床に額を押し付ける。ああ、顔をあげるのが怖い。怒るなら早く怒ってくれ。殴ってもらうのも構わない。だから、出来れば待たせず早くやってくれ。こういう空白の時間が一番精神にくるんだ。
「……いや、今の事故だし別にいいよ」
だから土下座なんてやめなよ、と鶴ヶ谷は言う。その声は若干引いていた。それはそれで心が折れる。何をしても精神に来るにはかわりなかった。
やめなよ、と言われても土下座を続けていると、頭のおかしいやつか又はスカートの中身を覗きたいやつだと思われてしまう可能性があるため俺は立ち上がる。鶴ヶ谷と目が合う。気まずい沈黙が流れた。こうやって向かい合うのは随分と久しぶりのような気がする。実際は一週間ぶりだが。
仕方がないので鶴ヶ谷の顔をひたすら眺めていることにした。沈黙を破る材料は見つからなかったのだ。
ふむ。こうやって鶴ヶ谷の顔をまじまじと見つめるのは初めてかもしれない。前々から薄々思っていたが、やはりこうやってしっかり見ているとよくわかることがある。鶴ヶ谷の顔立ちはとても整っているということだ。
少し吊っているようにも見える猫っぽい目についたまつ毛はとても長く、化粧をしたときはつけまつげなど一切必要ないのだろう。ニキビの痕が一切見られない肌は透明感がありきめ細かい。化粧を始めてしまうとこの肌は失われてしまうのだろう。そう考えると、鶴ヶ谷はずっと素っぴんでいてくれていいと思う。本人は嫌がるだろうけれど。
そしてこうやってまじまじと見ていると、鶴ヶ谷は見た目はとてもいいのに中身がとても残念だな、とも思う。愛読書は猟奇的推理小説だし、他人の困った顔を見ることが生き甲斐みたいな一面もある。恥じらいが欠けてしまっているような部分もあるし、発想が男寄りなところもある。そんなところも可愛いのだけれど。
……ああ、首ったけだ。諦められた様子は全くない。俺もバカだ。大バカだ。分かってはいたけれど。
「えっとさ」黙ったまま鶴ヶ谷を凝視し続ける一見変態の俺に少し戸惑いながら鶴ヶ谷は言う。「今のは壁ドンの失敗系って認識してもいいのかな?」
狙ってもない出来事だったため反応に困るが、相手を壁に追いやって手をつくことが壁ドンと言うのなら、その認識はあながち間違いではないだろうと俺は頷く。すると鶴ヶ谷は「そっか」と小さく呟いて、俺の腕を強く引いた。
その鶴ヶ谷の突然の行動に俺は構えられるわけもなく、引かれるがまま身体を動かされ、気がつけば鶴ヶ谷と俺の位置が入れ替わっている。俺の背には壁があった。つまり俺たちは半回転したということになる。
ドンッと耳元で壁を叩く音がした。目だけ動かしてみると俺の顔の真横に鶴ヶ谷の腕があった。ふわりと甘いいい匂いがして、前を見てみると鶴ヶ谷の顔がとても近いところにあった。匂いの正体は鶴ヶ谷だった。そう、俺は気が付けば鶴ヶ谷に壁ドンされていた。心拍数と体温がどんどん上がっていくのがわかる。心臓が凄くうるさい。
「壁ドン、見本。おっけい?」
ニヤリと不敵に笑って鶴ヶ谷は言った。俺はどうしたらいいのか分からなくなり、とりあえず頷く。なるほど、壁ドンが女子たちの憧れになる理由がよくわかったような気がした。好きな人にこんなことをされたらときめくに決まっている。
「次、壁ドンする機会があったらちゃんとカッコつけるんだよ? ふふ、女子の憧れだからね」
壁から手を離し、俺から少し離れて、ピンと人差し指を立てた鶴ヶ谷はとても楽しそうだった。凄くいい笑顔だ。久しぶりに見た笑顔でもある。ああ、この笑顔をもっと見られたらいいのに。ずっと、一番近くで。
そう思った瞬間、俺の口は勝手に動いていた。「鶴ヶ谷も壁ドン、憧れなのか?」
「え?」
鶴ヶ谷は一瞬キョトンとした顔をした。どうやらそんな質問が来るとは思っていなかったらしい。そのキョトンとした顔もいいな、と俺のなかで何かが目覚めた。
「まあ、そりゃあね。私だって女子だよ」
「そうか」一週間、鶴ヶ谷のいない生活を送っていた俺は妙に貪欲で、体が勝手に動く。「俺でもいい?」
いつの間にか立ち位置が元に戻っていた俺たちは、今度は俺が鶴ヶ谷に壁ドンをする形になる。
鶴ヶ谷の上目遣いの視線が送られて我にかえると、どっぷり後悔した。頭を抱えたい気分だ。一体何をやらかしているんだ、俺は。どうした? 何を急に男に目覚めているんだ。それも肉食の。上目遣いの鶴ヶ谷が非常に可愛らしくて俺の理性を揺さぶってくるのだが、ひとまず冷静になるべきじゃないだろうか。落ち着け。落ち着くんだ、俺。
「え、えっと……」
鶴ヶ谷は困っている。その顔は照れているのか少し赤く染まっていて、俺の理性は更に大きく揺さぶられた。そしてその結果、暴走した思考が勝手に一つの結論に辿り着く。
もう、俺から諦めることはできないのだ。鶴ヶ谷がこんなに近いところにいるんだ。勢いに身を任せて、ここはもう手を伸ばしてしまおう。そこで跳ね返されたときに諦めればいいんだ。そう、悶々とし続けるなら、玉砕覚悟で。
腹を決め、括り、鶴ヶ谷の教え通り、カッコつけさせてもらおう。そのぐらいしたっていいじゃないか、高校生なんだ。
……全く、あとでどっぷり後悔しそうな思考の暴走具合だ。
「……鶴ヶ谷」息を大きく吸い、覚悟を決めてしまった俺はその言葉を口にする。「好きだ。ずっと好きだった」
心臓が止まりそうだ。沈黙が痛い。とうとう言ってしまった。この、よくわからない謎のテンションと勢いに任せて。言ってしまった。
鶴ヶ谷は少し目を開いて俺が正気かどうかを黙って確かめる。真剣な表情で見つめ返してみると、やがて鶴ヶ谷の表情は和らいでいき、困ったような呆れたような、でも口には笑みを浮かべて眉を下げて、こう言うのだった。
「待ってたよ」