2「過去の処方箋」
「––––無理かも」
「なんだよ、座るなり投げやりによ。何が無理なのかってオレサマに聞いて欲しいのか」
私はソファに全身を投げ出してうつ伏せになり、安請け合いしてしまったかもしれないと頭を抱えている。
こちらで準備をしてから改めてお伺いします、と約束をして、ドミニクさんを送り出した。けれど、ドミニクさんは最後まで、どこかすっきりとしない表情だった。
右も左も分からない、言わば新米に、重要な仕事を頼んでいいのかを悩んでいる、という様子で。
そしてその気持ちを拭い去るために「安心してください」と言い切れない自分が申し訳ない。
私は勢いよくソファに起き上がった。
「ねえ、フムル! いや、フムル先生」
「なんだよ猫撫で声で気持ち悪りぃな」
「”火返しの儀”って知ってる? やり方、わかる?」
「なんだそりゃ。人間が勝手に名前をつけた儀式のいちいちまで知ってるわけねえだろ」
「うっ、それもそっか……」
さっきドミニクさんから聞いたままの話を繰り返すと、フムルは短い後ろ脚で耳の裏を掻きながら、
「そら”香の盟約”だな。香りを捧げて精霊と契約する儀式だ。火に加護を与えてもらう代わりに、何かしらの条件をつけたんだろ。毎日、燃え残した残滓を供物にするとか、パンとワインを欠かさないとか。昔にはありふれたやつだな」
「そう! そういう話が聞きたかったの! じゃあ、その精霊との盟約を終えるためには、どうすればいいの?」
「まず契約を取り持った魔女本人か、その血を継ぐやつが必要だ。つまりコレットだな」
「うんうん」
「そして儀式の手順をちゃんと守る必要がある。これはオレサマが教えてやれる」
「良かった!」
「問題はだな」
「問題があるんだ……」
「炉に呼び込んだ精霊に、どんな香りを捧げて盟約を結んだか。これがわからねえと、話がちとややこしくなる」
「ちなみに、ややこしい、っていうのは……?」
「正しい精香が分からない場合は、そこにいる精霊とまず新しい盟約を結び直して、そこから古い盟約までひっくるめて話をつける。契約を二重にこなす上に、他人の契約までいじろうってなると、そら熟練の”精香師”でも何年かかることやら。精霊次第だからな。下手につついて騒ぎになることもある」
「……それは、困る、かも」
「んじゃ、手段はひとつだ」
と、フムルが後ろ脚で立ち、前足で私を指した。
「コレットの婆さんがその当時に調香した”精香”を再現するしかない」
「ど、どうやって?」
「それはな」
フムルが腕を組んで、さも思わせぶりな声音で言う。
「そ、それは?」
ごくり、と唾を飲む私を見上げて。
「––––知らん」
「……でしょうね」
分かってはいたけれど、肩の力が抜けてしまって、私は再びソファに倒れ込んだ。
壁に拵えられた棚に目を向ける。
一枚きりだけ、祖母のまだ若いころの写真が飾られている。若いと言っても今の私よりも年上で––––二十歳も半ばを過ぎたくらい。ちょうどそのころだろうか、ドミニクさんの仕事を請け負ったのは。
「おばあちゃん、私に仕事を教えるつもりだったの?」
小さな問いかけ。
決して返事が返ってくることはないけれど。
祖母は、母に仕事を教えたのだろうか?
その母は、どこに行ったのだろう。
私の記憶には存在しない両親。祖母に訊ねても、それを教えてくれることはなかった。いつも困ったように、どこか苦しげな表情を浮かべるだけで、いつしか私はそれを知ろうとしない方がいいのだと思って、訊ねることもなくなってしまったけれど。
今となっては、ちゃんと訊いておくべきだったのかもしれない。もし母がどこかに生きていれば、きっと助けになってくれたのに。
「断ったほうがいいと思うぜ。精霊を相手にするときの鉄則は、静かなものは動かすな、だ。やり方も分からんのに盟約を結んだ精霊にちょっかいをかけちゃ、どうなるか分からん」
「……フムルが言うなら説得力は抜群だ。そうだよね、どうすればいいのか、正直、私も分かんない」
けれど、これは縁だ、と思う気持ちがある。
祖母が若いころに仕上げた仕事を、いま、私が引き継ぐ。それは大きな輪の循環の一部のようで、この機会にその話が巡ってきたことには、何か意味があるのではないかと思えて。
分からないからできませんとは、答えたくなかったのだ。
祖母の仕事の、言わば最後の仕上げを、曖昧に誤魔化して終わらせてしまうのは嫌だった。そこに残った祖母の意思を受け継ぎたかった。
けれど、気持ちだけではどうにもならないこともある。やりたいという意思があったって、それをどう形にするかはどうやったって分からないのだから。
「せめて香りがわかれば手がかりになったんだろうけど……」
「”処方箋”は残ってねえのか?」
とフムルが何気なく言った。
「コレットの婆さんだって、もともとは引き継がせるつもりだったんだろ? だったら普通は仕事の内容を残すもんだ。よほど雑な人間だったら知らねえけどな」
「おばあちゃんはきっちりしてる人だった。たしかに、そんなに大事な仕事なら、絶対に処方箋を残してるはず。待って、お婆ちゃんの残してくれた調合書があるんだ」
私は小走りで仕事部屋に飛び込み、調香机の一番下の引き出しから、革張りの分厚い本を引っ張り出した。祖母が今まで研究してきた香水の調合書であり、言わば私の知識の基礎だ。薬草や香料の香りの抽出法や、その香りの特徴などが記されてきた手作りの事典とも言える。
「ほう、こりゃ調香師にとっての秘伝の書ってとこだな」
「火事が起きたら何を置いてでもこれを持ち出すつもり」
「おい、オレサマのことも頼むぞ」
「片手が空いてたらね」
作業台の上のものを端に寄せて、調合書を置いた。
何度も何度も繰り返してめくったページは破れかけているところもあって、私は慎重にページを重ねていく。
「……でも、精霊とか、火返しの儀とか、そんなことを書いてあったかな。香料の粉末は小さじで何杯とか、精油を滴羽管で二滴とか、そういう細かい数字が書かれてるばっかり」
私は隅々までページに目を通していく。
フムルも対面から覗き込んで探してくれるけれど、どれほど探しても、精霊なんて言葉のひと言もなかった。
半分ほどを過ぎて、私は手を止めた。
「もしかして、ここには書いてない?」
「これだけページをめくっても手がかりひとつないんじゃな。婆さんがしっかり者で、よほど魔法について秘匿する意識があれば、それに関わるものの管理は厳重にするだろう」
「じゃあ”処方箋”も残ってないってこと?」
「あるとしても、すぐにそうと分かる形で残してはいないか、口伝か。少なくとも、この調合書は一般的な調香についてしか書いてねえみたいだ」
「……どうしよ」
「心当たりはねえのか? 日ごろから大事にしてた手帳だとか、金庫だとかよ。人間ってのは大事なものほどわかりやすく扱うもんだろ」
記憶に残る祖母の姿に、そんな秘密を守る様子の覚えはなかった。
魔法を使った調香についても、魔力を込めることで特別な効能が宿せる、という程度の説明で。
日々の暮らしを共にしていても、私は祖母について知らないことの方が遥かに多かったと思い知らされた気分で。
「––––だめだ、ぜんぜん思い当たらない」
「それじゃお前、どうしようもねえだろ」
「そう言われたって仕方ないでしょ。ないものはないんだから」
「これだから人間ってのは」
フムルがやれやれと、やけに人間臭く首を振った。
「あとは家中を引っ掻き回して手当たり次第に探すしかねえな」
「それでも見つからなかったら?」
「そのとき考えるんだよ」
「期待に胸が膨らむ返事をありがとう」
このままベッドに潜り込んで布団を引っかぶりたくなったけれど、明日になれば解決している問題じゃない。
仕方ないと腰を上げたとき、ベルが軽やかに鳴る音がここまで響いた。




