6「金色の提案」
ぱっと見には女性のように柔らかい輪郭だけれど、ひとつの乱れもなく着こなした服装や、ぴたりと据わって揺らぎのない立ち姿から、どこか近づき難い気配を纏っている。
「ルシアン様、でしたよね?」
アシュレイ様の付き人をされている方だ。
思わず扉の向こうまで視線を送ってしまった。
「今日は私だけです。アシュレイ様の知らぬ私用、というもので」
「あ、そう、なんですね」
言葉は投げて、投げ返して、互いに意思を伝え合うための行為で。その息が合わない場合は、会話というのはどこか息が詰まってうまくいかない。
ルシアン様の慇懃さは、貴族の方を相手にするときのように格式が高いものだ。身分のある方々にとってはそれが普通というものだろうけれど、街の片隅でせかせかとした平民をやっている私にとっては、気圧されてしまう。
「……あの、ええと。では、どういったご用件、でしょうか?」
「不要な前置きや腹の探り合いは無しにさせていただきます」
言って、ルシアン様は懐から黒い絹の小袋を取り出した。
それをカウンターに置いたとき、じゃら、と硬質な音が重なって鳴る。その音だけで、中身の予想がついてしまった。
「本日はアシュレイ様のご意向ではありません。フォン・ラヴァン伯爵家からの使いです。あなたがアシュレイ様のためにご用意された香水––––その香りを買い取りたい、と」
「––––”処方箋”をお求め、ということですか」
「もちろん、それが礼を欠いた申し出だということは重々承知しております」
ルシアン様は目を伏せるように会釈をした。
「香りの隆盛を迎えたこの時代において、処方箋とは単なる香りの配合などではございません。それはまさしく、薬師が命を預けて記す調合書のごときもの――秘伝と技術、そして、幾多の試行を経てなお余白を残す、ひとつの叡智の結晶にございます。ゆえに、対価もまたそれに相応しいだけを用意しております」
ルシアン様がカウンターに置いた小袋をそっとこちらに押しやった。
「金貨にして二百枚ございます」
「……はい?」
私は金額を聞いて驚くとか喜ぶとかではなくて、ちょっと引いてしまった。
いや、正直言ってドン引きだった。
「き、金貨二百枚ですか!? にひゃく!?」
「はい」
「あの金貨ですよね!? 丸くて重くてキラキラしていて、滅多に見ることができないあの!」
「その認識で間違っておりません」
「それが二百枚も集まってるってことですか!?」
「ですからそう言っています」
「そんな大金を懐に入れて歩いてきたんですか!? 何を考えてるんですか!?」
「本日は当家の馬車で参りました。ご心配いただき恐縮です」
ルシアン様がどこか呆れた様子を隠しきれずに小さくため息をついたのが分かった。
呆れたいのはこっちだよ、と叫びたい気持ちをぐっと堪える。
街で暮らす職人の一般的な年収は、ほとんどが金貨で十枚から二十枚のあいだで収まる。ぽんと置かれたこの袋の中身は、職人が十年、もしかすると二十年かかってようやく手に入れることができる金額なのだ。
それを軽々と、日々の買い物のひとつのような感覚で差し出されている状況で冷静でいられるわけもない。
今までどこか実感の薄かった、貴族という本物の特権階級の人たちの感覚と、その財布の大きさに、圧倒されながらも、恐ろしさすらを感じる。
「し、しかしですね、いきなりそんなことを言われても、私もすぐにわかりましたと頷くわけにはいきませんから」
私は本能的に身を引いた。
「お言葉とは裏腹に手が伸びておりますが」
「––––はっ!」
な、何て恐ろしいんだろう!
金貨にそんな魔力が備わっていたなんて!
私は自分の意思と無関係に勝手に動いていた左手を右手で引っ張り戻した。
だって今後の生涯で見ることもできないような大金がそこにあって、しかもそれをくれるというのだから、本能が吸い寄せられたって仕方ないのだ。
とはいえ、そんな大商人の取引に裏がないわけがない、と判断するだけの小心を持ち合わせているのが私だ。
「……失礼しました。ちょっと動揺してしまって。あの、これほどの大金を提示された理由はなんでしょうか。それに、ルシアン様の先ほどの口ぶりからすると、これはアシュレイ様のご指示、ではないのですよね?」
「はい。アシュレイ様は今回の件を認知されておりません」
「ですが、先日、アシュレイ様から契約書を預かったのですが。専属の調香師として雇っていただける、というお話で。あ、もちろんまだ、お返事はしていないのですが」
ルシアン様はひとつ頷き、目線を伏せるように言葉を続けた。
「まず誤解しないでいただきたい。あなたにこの提案を持ちかけた方は、あなたに大変感謝をしていらっしゃいます。あの香水を手に入れてから、アシュレイ様は本当に心を安らかに過ごされている。あれほど柔らかい表情を浮かべるアシュレイ様は、私も初めて目にしました」
そっと、ルシアン様の口元に笑みが浮かんだ。
「故にアシュレイ様があなたを専属として雇いたいと提案されたことも当然です。しかし––––あの”特別な”香りと貴女の存在が、アシュレイ様の心を乱すのではないかという懸念が生じてしまうのです」
「……はい?」
「あなたが年若い女性の調香師である、ということが問題となっています。これまで頑なに女性を遠ざけていたアシュレイ様が、女性の調香師を雇い入れるために自ら動いた。これは真実がどうかではなく、周囲から見てどう受け取られるかという問題です。そしてなにより、アシュレイ様にとって人生を変えうるほどに重要な効能を持つ香水の”処方箋”を、個人しか知り得ていないこと。これにも問題がある。あなたの気持ちひとつで、あるいはあなた自身に何かが起きれば、アシュレイ様は再びあの日々に戻るしかない。これは容認できません」
それはたしかに、理がある説明だった。
貴族の人々の衆目への対策や、私が女だから問題だなんてことを言われたって、こっちは知らない、と突っぱねたい問題だけれど。それが貴族の規範であるというなら、その専属調香師という職分にも守るべき規範は適応される。
そしてアシュレイ様にとって重要な香水が、いわば私という個人に独占されていること。それは間違いなく、アシュレイ様や、その家族にとっては心安らかではない。事実として、私に何か不幸が起きれば、あの香水を再現することは難しいのだから。
「そこで、まず”処方箋”そのものを買い取らせていただきたいのです。アシュレイ様のためにこれは必要なこと。故にこその金額であるとご理解いただければ。こちらが受領の証書です。署名をいただければ、この金貨をお渡しする形になります」
ルシアン様が懐から折り畳まれた一通の書状をカウンターに置く。
「……お話はわかりました。まず、ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「何についての礼でしょうか」
「内情を丁寧に打ち明けていただけたことについて、です。今のお話を聞けば、私が価格を釣り上げたり、条件を足して優位に交渉を進めたりすることもあり得たのに」
「それも含めて、当家の誠意だと受け取っていただければ幸いです」
「はい。では、それらを織り込んでのお返事をさせていただきます」
私は息を吸った。
これでいいのか、という気持ちはない。
答えは最初から決まっているし、変わることもない。
ただ、勇気が必要なだけで。
「”処方箋”はお売りできません」




