9 宮が女六の宮母娘を都へ住まわせること
食事が終わると、春成は楊泉宮を残して奥へ去り、入れ違いに露君が出てきた。
「立ち入ったことになるが、三位の中将が空手で帰ったというのは本当かな」
食膳が下げられ、他に聞く耳がないのを確かめてから、宮は尋ねた。露君はたちまち顔を赤くし、うつむいてしまった。山奥のこととて、人慣れしない上に、男女のことを直接話題にされたので、弱ってしまったものとみえる。
姫君のことなどどうでもよいのであるが、露君の弱り切った様子が存外可愛らしいので、宮は露君が顔を上げるまでじっと見守っていた。しばらくしてゆっくりと顔を上げた露君は、宮の目に合ってまた顔を赤くし、うつむいてしまった。同じことを何度か繰り返しているうちに、根負けしたのか、蚊の鳴くような小さな声が宮の耳に届いた。
「本当でございます」
涙声であった。
「わかった。言いにくいことを聞いて悪かった」
露君はうつむいたままであった。そこへ春成に支えられながら、女六の宮が入ってきた。気配で察した露君は、これ幸いと楊泉宮の側を離れ、女六の宮の側へ行った。
春成が交代して御簾の外へ出てくる。涙ぐんでいる露君を見て、疑わしげな表情で楊泉宮へ目を移したが、宮は知らぬ顔をしていた。露君が女六の宮の言葉を伝える。
「さきほど伺いました、私どもを都へお迎え下さるというお話、今でもお気持ちはお変わりありませんか」
「はい。皆様ご一緒にお引き取りいたします」
どうやら、春成の話を聞いて風向きが変わったようである。女六の宮腹の子ではなくとも、春成ほどの美童であれば、可愛くもあろう。楊泉宮は内心の期待が膨らむのを感じながら、表面は落ち着いて答えた。
「お志はありがたく、ご面倒をおかけする身で厚かましいとは存じますが、一つお願いがございます。都の人々に、私どもであるということを知られないように移ることことはできないでしょうか」
楊泉宮はしばし考えた。春成だけならば、このまま一緒に連れ帰れば済むが、女六の宮母娘を動かすとなると、それなりに人手もかかる。屋敷も手入れをする必要がある。
葵祭の時期に、宮が軽々しく振る舞うのは人目に立ち過ぎる。むしろ宮が都に残り、信頼できる人を使い、祭りに事寄せて屋敷を飾り立て、夜闇に紛れて母娘一行を連れてこさせれば、女六の宮が言うようにどこの誰ともわからずに屋敷へ入れることは可能であろう。宮は承諾した。
女六の宮は明らかにほっとした様子であった。
「それでは、近いうちに迎えをよこしましょう」
楊泉宮は、伊惟を残し、威麿や春成と移動にかかる準備の相談をさせることにして、先に都へ戻った。
都へ戻ると、楊泉宮は大急ぎで、しかも密かに屋敷の改築を始めた。
もともと都のうちとはいえ、にぎやかな場所からは離れた位置に屋敷を構えていたため、大工が仕事を始めたところで、通りすがりの人が見とがめる心配はなかった。
ただ葵祭の時期と重なったため、何をするにも人手が足りないのは否めなかった。
女六の宮一行のためには西の対をまるごとあてることにして、屋敷を取り囲む築地をいっそう高く盛り上げた。内側には背が高く、よく繁った常緑樹を植え、外から覗き込めないようにした。
そのほか、庭には春秋の草花を新しく植え直して面白く手を入れた。
建物の造作はさして大掛かりにする必要はなかった。ただ女性が住むことを念頭に入れずに建てたものであるから、多少の改築を施したのである。
むしろ、調度品を用意する方が大変な仕事であった。女六の宮は仏道を志しているから質素なものでよい、と言ってはいたものの、迎える楊泉宮としては、言葉どおり捉えるなどもってのほかである。
もちろん、仏道を志しているのだから、あまりきらきらしい住まいに仕立てることはできない。
楊泉宮は、女六の宮の身の回りの品を、白銀や螺鈿、絹綾や銀糸を使って作らせた。
例えば、写経に欠かせない文箱には、枝振りのよい松が生える白浜に鶴亀が遊ぶという螺鈿細工が施してあった。硯や墨は唐国から伝わった上等で稀少な品を用意した。几帳の花鳥の模様にも銀糸を入れた。着物も法衣から表着まで家の者にいいつけるだけでは足りず、祭りのためあるいは寺に寄進するからなどと言い繕って、あちこちに目立たぬよう分けて用意した。
姫君のためにも、楊泉宮は心をこめて調度品を取り揃えた。
女六の宮と異なり、仏弟子ではない若い姫には、少し華やかな装飾を施すように、宮は気を遣った。
屋敷にいる者の縁者で、見目のよいしっかりした者を選んで女房に取り立てた。
極彩色の蒔絵を施した貝遊びや絵巻物、物語などもつてを頼って取り寄せた。これは木の枝に止まる鳥の細工がついた香炉や海辺の風景をあしらった風流な置物を集めるよりも、難しい仕事であった。
楊泉宮には女性の気配がまるでないから、誰か通う相手でもできたのではないか、その女性に贈るために急にあれこれ女性に喜ばれそうなものを集め始めたのではないか、と噂になりかねなかった。
仕方がないので、楊泉宮は橘典侍に多くをゆだねた。典侍も大方不審に思ったに違いないものの、時期が来たら話しますから、との宮の言葉に、訳を問わずにさまざまな品を用意してくれた。
春成のためには、楊泉宮はもっとも力を入れて調度品をそろえた。
ほかの二人に比べると、若い男の子が必要とする、そして喜ぶような品物を用意するのはたやすいことであった。
金糸銀糸をふんだんに織り込んだ立派な綾の袋に入った琵琶や笛、琴といった楽器のほかに、蹴鞠や舞の衣装までそろえた。春成の部屋は東の対に近く、女六の宮や姫君と離れた場所にしつらえた。
気兼ねなく、楊泉宮と行き来できるようにという配慮である。
一緒に住むようになったら、四書五経を講義して、その合間に楽や歌も教えて、人前に出せるようになったら帝にお願いして宮仕えを始めようか、と楊泉宮はあれこれ先のことを楽しみに考えるのであった。