あの星を守れ(1)
F-3の開発は日米英による共同開発、それも日本主導で進むはずだったが、途中の政権交代ではしごを外されてしまい、主導権はそのままアメリカに握られた。それでもF-3には日本のデザインが多く使われたが、それは日本人の自己満足のためだということは、開発の現場にいた日本の技術者が一番よく思い知らされていた。
そしてその次のF-4の開発について、日本の設計者と彼らの開発の仕様を決める航空自衛隊は立ち直れないほどに自信喪失していた。しかしその自信喪失が良かったのか、慎重な設計、特に現場ニーズの把握について入念な検討が行われた。
日本の戦闘機開発、兵器開発は常に実戦環境でのニーズ対応に疑問が持たれてきた。事実戦訓の蓄積不足での巧緻にすぎる部分があったのだが、F-3はこの列島分断事態において続いている緩慢で散発的な航空戦環境にさらされることで運用でも整備でも経験値を積んでいたため、F-3は日米英共通のFI(制空戦闘機)として採用され、その優秀さを世界に示すことになった。
もともと航空自衛隊でのF-15のリプレースはその前のF-4EJ、さらにはもっと前にF-104Jのリプレースの遅れをパイロットの練度でカバーしようとしていたのだった。しかし練度では圧倒的な戦闘機の世代差は埋められない。だが空自は訓練の燃料費と機材の導入費とパイロットの人件費のバランスをとることで苦心を要求されるなか、機材導入を遅らせるかわりにパイロットの人件費とその練度維持のための燃料費を捻出するようにしていた。そしてギリギリまでの我慢の結果、F-35の大量導入に踏み切ることにした。
F-35は非情に野心的な設計が優れていた。操縦や操作容易でなおかつ将来の拡張性の余裕が大きいF-35は度重なるアップデートでも時代遅れになっていたF-15やF-4のパイロットが機種転換するのが容易であった。しかも固定翼のF-35Aだけではなく空母搭載のVTOL型F-35Bもまた空自パイロットにとっては扱いやすい機体だった。練度の高い搭乗員の育成には機材の開発よりも時間がかかるという判断はそこで正解だった。大型航空護衛艦すなわち実質的な空母だった〈いずも〉〈かが〉へのF-35B搭載にあたっての改修もそのために容易であった。
もともとVTOL戦闘機としては唯一の実用例であったハリアーと並べてフォークランド紛争の戦訓を持ち出して日本の島嶼防衛にF-35Bと母艦は役に立たないという言説も一分にあった。だが、フォークランド時に運用された英海軍ハリアーはまともなレーダーもなかったし、早期警戒機もなかった。それゆえ低空から侵入するアルゼンチン軍機の対艦肉薄爆撃を許してしまった。それでも空戦ではハリアーは大いに活躍した。もちろん英本土から離れたフォークランド島奪回を日本の周辺事態にそのまま適用はできない。しかし日本の本土基地が常に健在というのは楽観にすぎるし、しかもF-35Bはハリアーと格段にちがう運用能力を持った本当のVTOL戦闘機であることは考慮に入れるべきだ。そしてまた日本の実質空母が日本だけを守るものではなくなることも検討されるべきなのだ。自衛隊に要求される能力は地上配備のAWACSの警戒圏内での作戦ばかりではなくなるのが目に見えていた。
しかしそういった生半可な言説を持ち出す人々の中には〈いずも〉には将来的にも戦闘機運用能力はないと断定するものもいたのでその程度はお察しである。船舶は改造によって船体を延長する工事をおこなうこともあるし、何よりも帝国海軍時代には戦艦を途中で空母に改装したり戦艦の半分を空母にした航空戦艦を作ったりといういわゆる魔改造をさんざんやったのである。それが成果に結びつかなかったのは残念であったが、戦局が変化する中で日本の造艦技術陣はめいいっぱいできるだけのことをした。しかし刀折れ矢尽き、結果帝国海軍は呉軍港空襲、本土への艦砲射撃、そして米潜水艦の日本海侵入を許してしまったのだ。
それも戦いのはじめに何を目標とするか、勝利条件をどうするか、終戦交渉にそれをどう結びつけるかについての戦略が著しく欠けていた日本ではどうにもならないことであった。大昔のPCの戦略ゲームのように相手の首都を占領すれば自動的に終戦にはならないのだ。戦争は始めるよりも終わらせるほうが遥かに難しい。その点で山本五十六が開戦して「暴れてみせます」といったのは無責任ではある。始めるべきではなかった戦争をはじめてしまったのは彼の判断である。しかしその前に彼は海軍軍縮条約の扱いで身の丈に合わない建艦計画に疑問を呈したことで米内光政や井上成美とともに多くの礫を民衆から浴び、家族を危うくされたことも考えなくてはならない。