(2)
今日から聖が入社することが決まっている魔法陣紋捜査研究所とは今から百三十年前に創設された国際機関だ。
百五十年前まで魔術師はファンタジーの中だけだと思われていた存在だった。だがその存在が明らかになるやいなや世界中の生物学者たちが競って突如現れ始めた魔術師の研究に明け暮れた。魔術師とは超能力者のようなものだろうと言われたが、科学では説明しきれない存在が次々と現れたことにより、世界は混乱した。脳の一部が異様に発達したのだと説明され、論文やら検査結果やらにより魔術についての結果が詳細になっていくにつれ、それに比例するように魔術による犯罪が増えていった。それを抑制するために魔術についての研究に世界が力を入れることとなった。
その結果、魔術を使うには魔力の循環を表す方式である魔法陣を必要とすることが分かった。そして魔術師は魔術を発動させるときに二種類の魔法陣を使用する。その一つに【基礎魔法陣】というものがあった。
基礎魔法陣は魔術師が魔力を操るために必要なものだ。いくら魔力を持っていても、自らの基礎魔法陣が分からなければ魔術は使えない。その基礎魔法陣と、【発動魔法陣】と呼ばれる魔術を使用するための魔法陣を組み合わせることで魔術を使うことができる。
そしてその基礎魔法陣にある個々人で異なる特徴を【陣紋】と呼ぶ。魔力は魔術師によって特徴が違うため、それを操るための基礎魔法陣にある陣紋も一人として同じ者はいないのだ。
やがて魔法陣の解析など魔術に関わる研究を行う機関が作られた。それが魔法陣紋捜査研究所だ。魔術師の中でも優秀な者だけが配属を許されるため、皆一様に魔研からの推薦なくして魔研に務めることはできない。今では世界各地に点在する魔研は魔術犯罪から人々を護っている。
聖は魔研の中でも日本の総本部である東京支所に今日から配属されることになっていた。魔研は警察と協力して捜査をするため、研究所は警察署の隣に建てられていることが多い。警察署は聖の自宅から三駅先だ。元々兄が刑事であったおかげもあって、そう遠くない場所に家が建てられていたことは幸いだった。
そうだと言うのに。
(遅刻だ!)
初日早々遅刻をするなんて、誰が想像しただろう。
聖は駅に向かって走る。自転車は一昨日、誰かにの手によってパンクさせられていた。魔術で直そう直そうと思って、面倒臭がった結果がこれだ。
スーツの襟に着けたピンバッチが虚しく輝く。選ばれた者しか着けることが許されない、魔研の職員であることを示す青のピンバッチ。そこに書かれた魔法陣の形は人の命を示し、すなわち人々の暮らしを護ることへの誓いである。
風の力を操れば職場まで直ぐだ、とそんな甘えが聖の中で生まれる。学校で習った、むやみやたらに魔術を使ってはいけません、という教師の言葉が遠ざかり始めた時になって気付いた。
目の前の商店街。その中央に人だかりが出来ていた。出勤途中の社会人や近所の人たちが集まり、何やらがやがやと話している。何か事件だろうか。聖は人だかりに近寄ると、その場に立ち止っていたサラリーマンに声をかけた。
「何の騒ぎですか?」
「窃盗だってさ」
「窃盗?」
「ああ、魔術師の仕業らしい」
魔術師の犯罪。別段珍しいことでもなかったが、この町では今までそのような事件が起こった記憶はなかった。
聖は人々で隠された輪の中心を見ようとしながら、首を傾げる。
「魔術の種類は何ですかね?」
「さあなあ。犯人の姿は見えなかったらしいから、科学魔術か創造魔術だろうってさっきからみんなが話してるぜ」
「召喚魔術の可能性は?」
「鞄の中にあるもんが消えたんだ。どうやって予め鞄の中に魔法陣を描いておけるってんだ」
【科学魔術】とは元々この世界に存在しているものを操ったり形を変形させたりして使う魔術のことだ。風を操ったり、材料さえあれば料理を瞬時に完成させたりできる。それに対して【創造魔術】は別名『幻術』や『魔法』とも呼ばれる。姿を変えたり見えるはずのものを見えなくしたりする。そして【召喚魔術】とは魔法陣と魔法陣を結び、物や人等を瞬間移動させる魔術。他にもそれらを組み合わせて使用する【混合魔術】や時間の流れを止めたり、人に化けたり、生き返らせたりなどの人の道徳に反することをする【呪術魔術】と呼ばれるものもあるが、この二つは大変高度なために殆どの者が使用できない。第一、呪術魔術は法律で禁止され、使用した者には三十年以上の実刑が科されることになっている。
聖はサラリーマンに礼を言うと、人々の間を縫うようにして騒ぎの中心へと進んでいく。途中、誰かのひじ打ちを鼻に食らったが骨は折れなかったようだ。赤くなった鼻を抑えながら、どうにか騒ぎの中心へ辿り着く。現場には顔を手で覆っている女性と三十代半ばの男性がいるのが見えた。無精ひげを生やしたその男性は被害者らしい女性から事情を聴いているようだ。スーツではなく、ジーパンにTシャツの上にジャケットを羽織り、しかも革靴ではなく黒のスニーカーを履くというラフな私服姿だった。警察だろうか。
その二人から目を離すと、聖は辺りに見渡す。
「科学魔術なら、風、を操ったのか……創造魔術なら自らの姿を消したのか……」
だが創造魔術なら魔法陣を見付けることも難しい。まず魔研の職員をここへ派遣する必要がある。これは時間がかかりそうだ――そう聖が考えていると。
「おい」
不意に声を掛けられた。驚いて前に顔を向ける。目前に先ほどまで被害女性と話をしていた無精ひげの男性の姿があった。
彼は気怠さを隠さず、右手の人差し指で聖の襟についたピンバッチを指差す。その黒く塗られた爪が長いことから、彼が右利きであることが分かった。同時に彼が魔術師であることも判明する。
魔術師は皆一様に、聞き手の人差し指の爪が長い。そのネイルベッドに基礎魔法陣が描かれているためだ。ほとんどの魔術師がその指先で発動魔法陣を描くため、細かい魔法陣の模様まで描けるように爪を伸ばしている。そうして基礎魔法陣は自分の魔力の強さを表す。その弱さとも言えるものを晒さないために色を塗って隠すのだ。
だから無精ひげの男性と同様に、魔術師である聖の右手の人差し指の爪も長い。
「お前、魔研の人間か?」
無精ひげの男性の問いに聖は戸惑いながらも頷く。
「あ、はい。今日から東京支所に配属される予定の城戸聖です」
「ああ、お前が今日から入る新人か」
どうやら彼も魔研の人間のようだった。彼がポケットから携帯電話を取り出す。そのストラップに無造作に魔研の証であるピンバッチが付けられていた。
「俺は纓田。早速で悪いが、事件だ。協力してくれ」
「はい」
聖の返事を聞くと、纓田は被害女性にその場で待機をしていように告げる。そして聖を連れて歩き出した。
「被害者は二十六歳、女性。名前は佐々木千恵。鞄からピンク色の財布が盗まれたらしい。中にはさっき下ろしてきたばかりの二十万が入っていたと話している」
「二十万?」
「会社帰りにブランドの鞄を買おうと思っていたらしい」
そんな日によりによって魔術師に財布を盗まれるなんて、何とついていないのだろう。
「魔法陣の在処は、今さっき発見した。こっちだ」
「纓田さんが発見されたんですか?」
「ああ。昨日、探査機を返すのを忘れててな。たまたま持ってたんだ」
そう言った纓田はポケットから懐中時計のように見える小型の機械を取り出した。
「初めて見ると思うが、これが魔法陣探索専用の探査機だ」
「これが……?」
聖が腕に付けている腕時計の時計盤と同じくらいの大きさだ。想像していた大きさよりも小型のそれに聖は驚く。
「小さいですね」
「ああ。魔法陣は発動されると空中や地面にその魔力の痕跡が残るだろ? それをこれから放たれる特殊な周波で探してくれる。魔術使えばできないこともねえが、こっちの方が早いからな」
発動された魔法陣には魔力の痕跡が残るのだ。この機械で事件現場に残る魔力と近い周波の魔法陣を探すところから、魔術が絡んだ事件の場合は犯人の捜索が始まる。
そして発動された魔法陣は基礎魔法陣と発動魔法陣が重なり合った状態で魔力がその場から消えない限り残り続ける。その魔法陣をコンピュータに取り込むと、データベース上で陣紋から犯人が特定されるというものだ。
纓田は淡々とした物言いをする男だ。きっとこういう現場に慣れているのだろう。彼について歩いていくと、八百屋と肉屋の間の薄暗い細い路地に到着した。
「ここで魔術を使ったんだろうな。被害者の鞄にあった魔力の痕跡と一致する」
言われて、聖は右手を上げた。そして纓田が指差した場所に向けて人差し指をくいっと動かす。途端に紫色に輝く魔法陣が出現した。この残された魔法陣をコンピュータに取り込まなくてはならない。
「俺は魔研の奴らを連れてくるから、お前はここで現場保持して待ってろよ」
纓田はそう告げると携帯電話を手にこの場所を離れていこうとする。その背に聖は尋ねる。
「解析は?」
「できるならやっといてくれ」
「混合魔術の可能性は?」
「さあな。それもこれからやるところ。有り得ないことじゃねぇがな」
聖は遠ざかっていく纓田の背から再び目前の魔法陣へと視線を戻した。
紫に輝く魔法陣。今の段階では何の魔術を使用したのかは分からない。だが魔力を駆使して行う解析魔術を使えばコンピュータなしでもある程度なら犯人の特定が可能だ。だが解析法はいくつもあり、適切なものを考えるだけでも時間がかかる。
(何の解析法で調べれば分かるんだ……)
解析法は何が適切なのか。今まで習ったいくつもの解析法が頭に浮かぶ。それを考えあぐねていると、ぬっと右隣に黒い影が伸びてきた。初めに目に入ったのは、相手の胸だった。着られたニットの胸元が無残なほどに膨らんでいる。
「これはイアン法で調べるのが早いですね」
「――え?」
その胸のふくよかさに目を奪われていた聖の耳に突如届いた解析法。それに聖は目を剥く。
さらに一歩、聖よりも顔を魔法陣に近付けたその女性。年は二十歳くらいだろうか、否それよりも少し幼いかもしれない。くすんだ茶髪の彼女は左手を顎に当てている。その左手の人差し指の爪が長く、赤くジェルが塗られている。――つまり、この女性も魔術師なのだろう。
彼女は眼鏡の奥の焦げ茶色の瞳を細めて、左手をすっと上げた。その指で迷うことなく空中に赤色の魔法陣を描く。描き終えた魔法陣に、左手の人差し指で触れる。途端に、発動された魔術によって犯人の魔法陣が弾けた。次の瞬間にはその場に二つの魔法陣が光を帯びて浮かび上がる。基礎魔法陣と発動魔法陣だ。その片方である発動魔法陣を見た女性が告げる。
「やはり科学魔術ですね。犯行現場からこの距離です。そう強い魔術が使えない者の犯行でしょうね」
ゆっくりとした喋り方だ。眼鏡の奥の瞳が眠そうに垂れている。その彼女の瞳が基礎魔法陣に移った。そしてその唇がすらすらと解析した情報を告げていく。
「年齢は十四、五。男性ですね。これから人の財布を盗むというのに発動魔法陣に歪みがない。魔術を使った犯罪が初めてでも、盗み自体は何度も繰り返している可能性があります」
彼女の口からは通常の魔術師が解析しただけでは導き出せない特徴まで飛び出してくる。きっと同じ解析法を使っても、聖にはそこまでの情報を見抜くことができないだろう。
この女性は何者なのだろうか。もしや魔研の職員かもしれない。聖はそう思ったが、彼女の身体のどこにも青いピンバッチは見受けられなかった。
「貴女は――」
「そういえば、さっきそれっぽい少年とコンビニで擦れ違ったような……そういえば、女物のピンクの財布を持っていたような?」
「そうじゃなくて……え!」
彼女から与えられた情報に聖が呆気に取られる。その彼の目前で彼女は指を立てて、記憶を辿るようにして呟く。
「すごい勢いでエロ本買ってましたよ。あの子、五千円は使ってたな……」
「え、エロ本?」
盗んだ金で何て物を購入するのだろう。否、それよりも彼女の素性が気になる。だが魔研としては犯人を捕らえる方を最優先しなければならない。
その気持ちの間で右往左往していると、後ろからタンタンと響く足音が近付いてきた。思わず振り向くと、そこには闇のように艶やかな黒髪黒目をした青年が立っていた。聖よりもいくつか年上だろうか。二十歳ほどの年齢に見えるその青年は女性を見ると呆れたような吐息を一つ落とす。
「小町さん、やっと見付けましたよ。ここにいましたね」
「夏樹くん?」
小町と呼ばれた女性は背後から現れた青年に目をぱちくりしている。その彼女に自分の腰に手を当てて立ち止まった青年が告げた。
「何しているんですか。これから依頼人のところに行くって話したでしょう?」
「いけない! 忘れてましたあ!」
「あ、ちょっと!」
青年の言葉を聞いた女性が駅の方へ向かって走り出す。その彼女に聖は声を掛けるが、見事に無視された。
「うわあああん、また依頼無効にされたらご飯抜きになっちゃうううう!」
「小町さん、そちらじゃありませんよ。依頼人の自宅はこちらです」
「もう少し早くに言ってくださいよおおおお!」
冷静に駅とは反対方向を指差した青年に文句を垂れながら、方向転換した彼女は涙声で叫んだ。勢いを落とすことなく、彼女は突風の如く聖の視界から消えていく。その背を青年がゆったりとした足取りで追っていくのを聖はただ眺めていることしかできなかった。
「……何だ、あの人」
青年の姿も見えなくなった頃、そんな呟きが聖の口から零れた。
だが彼女の解析は間違っていないのだろう。解析された魔法陣を眺めながら聖は思う。彼女の解析法は正確で、寧ろ細かいところまで明確化されていた。これは基本解析魔術であるイアン法を通り越している。それは様々な解析法を組み合わせた混合解析にも似ていた。
(でも混合解析ができる者は世界に十人もいないんだよなあ)
もし彼女がそれほどの魔術師なら、やはり魔研の者だったのだろうか。そう思いながら聖が感心していると、纓田が戻ってきた。
「悪い悪い、待たせたな」
「纓田さん……」
現れた纓田の後ろには男女が立っている。スーツを身に付けた彼らの襟に魔研のピンバッチがついていた。
纓田は解析し終えている魔法陣を見ると、そこでようやくそれまで気怠そうだった表情を正した。感心したように目を開いて、彼は魔法陣を見上げている。
「何だ、お前。もう解析したのか?」
「いや、それは……あ!」
「ん?」
突如声を上げた聖に纓田を含めた魔研の職員が首を傾げた。その彼らに聖は先ほど女性から聞いた情報を慌てて伝える。
「犯人が分かりました。十四、五歳の少年です。さっきコンビニで五千円分のエロ本を買っていたそうです!」
「……は?」
纓田がこれでもかというくらいに表情を間抜けに崩す。
その表情を見た聖は、やってしまった、と気付いたが。
それはもう遅いのだと、聖は瞬時に悟った。