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55 上洛へ 前編

 浮野の戦いを制した織田信長は、翌年には岩倉城を囲み、ついに岩倉織田家を降した。

 海西郡の服部友貞という例外はあるものの、ここに、信長による尾張統一は達成された。

 だが失うものもあった。

 信長は橋本一巴(はしもといっぱ)という鉄砲の名人にして、鉄砲術の師を失ってしまう。

 実はそれこそが、津々木蔵人の策であった。

 信長を討てなければ、一巴を。

 まさに信長の自(・)慢(・)である鉄砲を象徴する人物を。

 「弓」という遠距離での殺傷手段を採る以上、信長も、否、一巴もまた「鉄砲」という殺傷手段を採らざるを得ない。

 でも、「弓」の方が先手を取れば。

 信長を狙うという、「王手」をかけておけば。


 ……そういう意味では、蔵人の策は当(・)た(・)っ(・)た(・)。

 ただし蔵人自身は戦場から恐怖のゆえ、逃げ出してしまうことになったが。


*

 

 信長は意気消沈していた。


「一巴……」


 脇腹を射られた橋本一巴の血は止まらず、そのまま絶命してしまう。

 一巴はもう話すことはできなかったが、それでも最後に残った二つ玉を信長に託し、そして目を閉じた。


「一巴……」


 何かあったら使えということか。

 信長は懐中の二つ玉をもてあそびながら、一巴のその想いを胸に、悲しみを振り切って、清州城の城主の間に入った。

 並みいる家中の者たち。


「殿のお成りである」


 前田利家が高らかに言う。

 家臣たちは一斉に礼を施す。


「大儀」


 信長は甲高い声でそれだけ言って、本題に入った。


「国譲り状についてだが」


 故・斎藤道三の国譲り状。

 かつて、長良川の戦いという、道三とその息子・一(・)色(・)義龍の決戦の前に。

 道三は信長に書状を遺(のこ)した。

 それが国譲り状であり、その内容は、美濃を信長に譲ると記されていた。

 このことは、限られた者しか知られていないことだったが、信長は敢えて、この場に集まった家臣たちに知らせることにした。

 そうしないと、これからの今川義元の「策」に耐えられない者も出てくるだろうから。


「濃」


「はい」


 城主の間に、濃と呼ばれた帰蝶――道三の娘にして、信長の妻が現れる。

 彼女の背後には、木綿藤吉がその国譲り状を捧げ持っていた。


「今、お前たちにこの国譲り状を見せるのは、たしかに有る、ということを示すためじゃ」


 木綿が一礼してから、書状を開き、横に広げた。

 おお、という一同のどよめき。

 これで美濃攻めの大義名分ができたのではないか、とか。

 一色義龍めにこれを見せつけてやりましょう、とか。

 そう言った声が聞こえた。


「……そ(・)う(・)い(・)っ(・)た(・)こ(・)と(・)は、おそらく意味が無いでしょう」


 帰蝶の声は信長ほど甲高くはないが、よく響いた。

 彼女は木綿が折りたたんだ国譲り状を受け取りながら、話をつづける。


「かような真似を父上がしたことには、わけがあります」


 横の信長も、無言でうなずいている。


「……大義名分なり、一色義龍に見せつけるなり、それだけでは何の意味もない。では、父上はなぜ、かような真似をしたのか」


 その帰蝶の問いに答えられる者はおらず、一同はただ、黙りこくっている。

 知(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)木綿と蜂須賀小六も、やはり黙っている。

 帰蝶の問いが、皆の心の中に浸透したあたりで、信長が口を開いた。


「……河越じゃ」


「河越?」


 森可成(もりよしなり)が首を傾げる。

 いきなりの地名である。しかも、濃尾ではなくて関東の。

 河越とは何なのか。

 河越といえば。


「河越夜戦」


「……あッ」


 その頓狂な声は、前田利家である。

 彼は、浮野の戦いで、犬山城・織田信清とともに、信長と交戦中の岩倉織田家を挟(・)み(・)撃(・)ち(・)にして撃破している。


「そう」


 信長はうなずく。

 河越夜戦……それは、河越城を山内上杉憲政が、駿河・河東を今(・)川(・)義(・)元(・)が攻め、南北から北条家の北条氏康を挟(・)み(・)撃(・)ち(・)にするという、壮大な作戦の最終決戦である。

 それを今、尾張の織田信長に対して実施するとしたら、どうするか。


「まさか」


「そう。そのまさかです。駿河・遠江・三河……つまり海道からは今川義元が。美濃からは一色義龍が。挟(・)み(・)撃(・)ち(・)にして尾張を攻める……父、斎藤道三はそれを見破りました。そ(・)れ(・)ゆ(・)え(・)の(・)、国譲り状です」


*


 帰蝶は凛とした声で一同に告げる。


「いつ頃から、今川義元がそれを思いついたのか? それは分かりません。あるいは、故・太原雪斎の策か……」


 おそらく、村木砦の戦いの前くらいが転換点だったのであろう。

 あのあたりから、今川の策略が凄みを増した。

 それまでは、ただ尾張国内にち(・)ょ(・)っ(・)か(・)い(・)をかけて、かき乱しているという印象があった。

 おそらく、「かき混ぜた」尾張を美味しくいただこうという腹である。

 だからこそ、そのもっとも障害となる平手政秀を始末したのだ。


「…………」


 城主の間が沈黙に包まれる。

 この場にいる誰しもが、何らかの形で平手政秀と関わっている。

 今さらながら、政秀の存在の大きさに思いを致している、という感じである。


「さて」


 ここで信長が口を開いた。


「いずれにせよ、今川義元は尾張を、否、予、織田信長を、本(・)腰(・)を(・)入(・)れ(・)て(・)狙いに定めた」


 的にした以上は、最善を尽くす。

 義元はまず、信長にとって最大の利点は何かと考えた。

 そしてふたつ思いついた。

 そのうちのひとつが鉄砲であり、そして美濃の斎藤道三である。


「……同時に、美濃を今川に引きずり込むことができれば、それはまた……大いなる双頭の蛇となりて、この信長を食らうことができる」


 兵法書「孫子」にこんな言葉がある。

 すなわち、善(よ)く兵を用いる者は、譬(たと)えば卒然のごとし――と。

 この卒然とは、中国の常山にいる伝説上の蛇で、頭が二つあるという。

 つまり「孫子」では、この卒然という双頭の蛇のように――二つの頭と胴体を使って襲いかかるように――い(・)く(・)さ(・)をすることこそが、用兵として善であると説(と)かれている。


「双頭の、蛇……」


「そうです。海道の今川義元をひとつの頭、美濃の一色義龍をもうひとつの頭とする……それこそが、今川義元の尾張乱入の策です」


「ちょ、ちょっと待って下され」


 ここで国譲り状を持っていた木綿が発言を求めた。

 木綿は「孫子」を知らない。この時点では。

 だからこそ、双頭の蛇の話を初めて知った。

 知ったからこそ、疑問が生じた。


「その……蛇の胴(・)体(・)の(・)部(・)分(・)はどうなるのでしょうか? それがしにはそれが……」


「木綿、よくぞ気づいた」


 信長はすかさず木綿を褒めた。

 木綿はまだ小者の身分のゆえに、周囲から軽侮されるき(・)ら(・)い(・)がある。

 それゆえに、その発言を「生意気だ」と曇らされないよう、信長は配慮したのだ。


「その言や善(よ)し……で、その胴(・)体(・)についてだが、これはこの前の弟(織田信行)の叛乱……というか、守護の斯波義銀(しばよしかね)さまの企(くわだ)てで、それがわかる」


「ふむ」


 河尻秀隆が首をかしげる。

 彼は、織田信行の叛乱に際して、ひと役買った。

 その経緯から、織田信行を巻き込んだ、斯波義銀の企(くわだ)ての詳細を知っていた。

 その秀隆が、脳裏にあの時のこと――信長包囲網のことを思い描く。

 信長包囲網、すなわち守護・斯波義銀、織田信行、一色義龍、そして……。


「よもや」


 秀隆が目を見開く。

 信長はこめかみを指で叩いた。


「そう。秀隆、気づいたようだな。そ(・)れ(・)こそが、双頭の蛇の胴体よ」


 守護・斯波義銀(実際は今川義元)による信長包囲網は、ひとつだけ特異な点(・)があった。

 海西郡の服部党、服部友貞である。

 その特異の理由はひとつ。


「……海路」


 うめくように柴田勝家が洩(も)らした。

 彼は、織田信行の家臣であったが、ゆえあって、織田信行の「叛乱」に際して、信行を裏切った。

 思えばその時、信行の寵臣・津々木蔵人がそのようなことを言っていたような気がする。

 信長包囲網自体、現実性のない代物だと思って、聞き流していたが。


「美濃と海道で尾張を挟み、一方でまた、海路、尾張に乱入する……そ(・)れ(・)こそが、双頭の蛇の胴(・)体(・)である」


 ……場にいる一同、言葉もなかった。

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