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32 清州にて

 その日、清州城へ息せき切ってやって来た明智十兵衛は、飲まず食わずで来たせいか、口をぱくぱくとさせて、何も言えない状態だった。

 たまたま居合わせた森可成(もりよしなり)が十兵衛を抱きかかえて城中に入れ、木綿藤吉が碗に水を入れて持って来る。

 十兵衛は、碗から口を離してすぐに叫んだ。


「す、すぐに織田の殿サンに。さなくば、お(ひい)さまを!」


「ここにおります。十兵衛、何ごとですか」


 帰蝶は清州の城の留守を預かる身である。常に、何か変事があればすぐに駆けつける態勢を維持していた。

 帰蝶は十兵衛の背をさすって、その呼吸を助けながら、彼の言葉を待った。


「え……えらいこっちゃ。よ、義龍の殿サンが……孫四郎どのと喜平次どのを……(しい)し奉ったんや」


「何ですって!」


 来るべきものがついに来たか、という観はあったが、それでもやはり、自身の兄弟が相剋の悲劇を演じ合うとなると、帰蝶の心は平静ではいられなかった。


「……詳しく聞かせてもらおうか、十兵衛どの」


「信長さま!」


「あっ、織田の殿サン!」


 信長は、いつの間にか伝えに走った木綿から十兵衛の急な(おとな)いを聞き、取るものもとりあえずやって来たところである。

 十兵衛は「もう大丈夫や」と言って、帰蝶に上座に戻るように促し、そしてうやうやしく一礼した。


「こたび、斎藤利政道三入道さいとうとしまさどうさんにゅうどうどの、嫡子であった斎藤義龍により、正室・小見の方さまとのお子、孫四郎どの及び喜平次どのを殺害されました。これを受け、道三入道どのは大桑城(おおがじょう)へと遁走」


「大桑城」


 帰蝶としては、前夫である土岐頼純(ときよりずみ)が城主をしていた城であり、嫁ぎ先である。


「今は兵を(つの)っておる次第。しかし、芳しくなく……」


寡兵(かへい)ということか。まずいな」


 これは信長である。

 寡兵とは、少ない兵力を意味し、いかに()()()上手の道三とはいえ、兵数の差はいかんともしがたい。

 帰蝶は大桑城がかつての美濃国主の居城だったことに着目し、籠城すればあるいはと言う。


「……いや、それも無理だ」


「せや、アカンで、お(ひい)さま」


 信長と十兵衛がそろって否定してくるが、帰蝶としては信長が援軍に行くのならば、悪くない選択肢と思える。


「お(かた)さま」


 ここで意外な人物が発言した。

 木綿である。

 木綿は信長に向かって一礼した。

 信長は「許す」と答えた。


「お方さま、たとえば道三さまが籠城したとしましょう。けれども、道三さまにお味方する国人のお城へ、その義龍が攻め入ったとしたら、道三さまはいかがいたしましょう?」


「それは……救援に……あっ」


 ここで、()()()()()()として言えない木綿のために、信長が補足する。


「そうだ、帰蝶。その時、籠城という策は破れ、()()()()と出て来た義父上(ちちうえ)を、義龍が狙うだろう」


「そんな……」


 道三を心配する帰蝶だが、一方で勘づくものがあった。


「……では、なにゆえ父上は()()()を」


「なにゆえ、とは」


 木綿は帰蝶を気づかうように聞く。


「いえ……そこまで兄上、というか義龍に()()()()()()まで、父上は()()()をするのですか?」


「それは……」


 ここで武士の意地とかそういうことを言ったところで、帰蝶は納得すまい。

 どころか、農民の家に生まれた木綿からして、そのようなものを疑問視してしまう。


「いや待て、濃よ」


 濃とは、帰蝶のことを美濃から来た濃姫と呼ぶ、信長の帰蝶への愛称である。

 ここで信長は木綿への謝意と、そして話を引き継ぐことを示した。


「濃よ……何も義父上はさような『武士の意地』とやらで()()()に挑むわけではないぞ……十兵衛どの」


「何でっしゃろ、殿サン」


「義父上……道三どのは、賭け事が好きか?」


「そらあ……()るか()るかの緊張感がたまらんとか言うて……」


 そこで十兵衛は何事かに気づいたかのように「あっ」と叫んだ。


「で、あるか……許せ、濃。今、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ゆえにの、十兵衛どのへの問いよ」


「か、賭け事が好きというのなら、わたしとて知ってます。なぜに……なぜゆえに、賭け事が好きなことが、このたびの()()()に」


「お方さま」


 今度は森可成の発言である。彼は美濃出身であるが、土岐家に仕えていたということもあり、発言を控えていたが、今ここは、()()()の経験が長い自分が発言すべきだろうと思い、敢えて口を開いたのだ。


「恐れながら申し上げます……道三さまが、義龍に勝てる手段が、ひとつだけ残っております」


「そ、それは」


「義龍を討つ。それに尽きます」


「……なっ」


 何を言うのかと思ったら、と帰蝶が言おうとすると、そこで一同が(しん)としていることに気づいた。

 全員、それが正しいと認めているのだ。

 織田信長、明智十兵衛、木綿藤吉、森可成といった面々の全員が。


「……で、でも、義龍の兄上、否、義龍を討つとして、どうするというのですか? それは義龍とて承知でしょうし、そもそも大将というのは本陣に()()と構えて……」


「濃」


 信長は、帰蝶の手を握った。

 これでは逆だ。

 あの日、織田信秀の葬式の日と逆だ。

 だが、帰蝶はそれを心地よいものとして受け入れた。

 これから聞かされるであろうことを、聞く覚悟ができた。


「……お聞かせください、信長さま。判っているのでしょう? 父上は、どうやって義龍を討つのです?」


 信長は一瞬ためらったが、それでも彼は答えた。


「……今、義龍が一番欲しいものがひとつある。それは何だ?」


「欲しいもの……」


 帰蝶の思考が一瞬でめぐる。

 肩が、手が、わなわなと震える。


「……ま、まさか」


「そうよ」


 信長の手が強く握って来る。


「斎藤道三入道の首、それひとつよ」


 十兵衛がうつむく。

 木綿は肩を落とす。

 可成は黙りこくっている。


「……義父上は、おそらく、一騎打ちに持ち込むつもりなのだ」


 悄然とする信長に、だが帰蝶は決然として言った。


「信長さま」


「何だ」


「お願いがあります」


「許す」


「……まだ、何も言ってませんよ?」


「……知っている」


 帰蝶が何を願うか、信長は知っている。

 帰蝶はうなずいた。

 信長もうなずいた。

 そこで信長が手をひとつ叩くと、吉野(きつの)が足早にやって来た。


「お呼びでしょうか」


「これより、濃が美濃へ出陣いたす。予も出陣するが、濃は先駆けで征く。濃に甲冑を。仕度を」


「かしこまりました」


 吉野は場の雰囲気で事の重大さを察し、帰蝶に「こちらへ」と促し、やはり足早に、奥へと去って行った。


「なお」


 信長は、場に残った十兵衛、木綿、可成を見た。

 彼らも言われずとも判っていた。


「……元より承知や。大殿に復命せなアカンしな。お(ひい)さまと共に征くで」


「この木綿、蜂須賀小六どのとの縁があります。小六どのとのつなぎに、ぜひそれがしを」


「拙者、この命に代えましても、お方さまをお守り申す。彼奴(きゃつ)らを十文字槍の錆にしてくれましょう」


「……頼む。予も兵を整え次第、すぐに征く」


 ……こうして、帰蝶、十兵衛、木綿、可成は織田家の先発隊として、一路、美濃へ向かった。

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