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XIII 黒いノート

 子供の頃、暗い場所が怖かった。夜や闇。自分の家の中でも暗い部屋にはひとりで入れなかったので、夜中にトイレに行きたくなった時は朝まで我慢した。どうしても我慢できなくなったら、母や姉を起こして付いてきてもらった。


 暗いところには何かが潜んでいる。何か分からないけれど、長い鉤爪が生えていて鋭い牙があって、とても恐ろしい姿をしたものだ。通りかかった人間を暗闇に引きずり込んでバラバラに引き裂いてしまう。そう信じていた。


 家から小学校へ行く道の途中に森があった。東西南北をぐるりと道路に囲まれた四角形で、森の中は木が生い茂っていて、そんなに広くないのに昼間でも暗かった。


 森には普通こういう場所を好むはずの鳥もいなかった。すべての生命が死んでしまったかのようにシーンと静まり返った森。でも夏だけは違った。


 子供たちが夏休みに入る頃になると、まるで待っていたように、うるさいほどの大量の蝉が鳴いた。


 森の中には細い道が通っていた。入り口から覗くと道の先は暗い森の奥に消えている。


 この森に入って行く人を見たことがない。子どもたちもこの森で遊んだりしなかった。


 暗くて薄気味悪いという理由もあるが、近所の大人たちに、入ってはいけないと言われていたからだ。


 母に、どうして森に入ってはいけないのかと聞いたことがある。


「どうしてって…麻里恵(マリエ)ちゃん。昔からそう言われてるからよ。わたしが子供の頃からそう言われていたの」そう言って母は困った顔をした。


 森には誰も入ったことがないのかと聞くと、そんなことはないと言う。


 森の中心には祠があって、何かの神様が祀られている。

掃除や供物をする為に、町内会で当番を決めて定期的に人が入っていると言った。


 誰も入ってはいけない禁断の場所だと思いこんでいたわたしは拍子抜けした。


「当番の人以外は誰も森に入らない」母は何かを思い出すかのように言った。そしてポツリとこう付け加えた。


「あの森は帰ってくる場所だから」



 学校が夏休みに入って一週間が過ぎた。次の日が自分の誕生日という、とても暑い日の午後。わたしは仲の良い友だちと一緒に遊んでいた。自分を入れて五人ぐらいだったと思う。


 遊びに飽きた頃、誰が言い出したのか覚えていないが、森で肝試しをしないかという声が上がった。夜ではなくて昼間に肝試しなんて変な気もしたけれど、多分、やろうと提案した子も森が怖かったのだ。


 わたしは気が進まなかった。母から森に入ってはいけないと言われており、昼でも薄暗い森が怖かった。しかし自分ひとりだけではないし、友だちが一緒ということもあって、嫌々ながらもみんなに流されて肝試しをすることになった。


 肝試しと言っても、森の中心にあるという祠に、願いごとを書いた紙を置いて来るだけという、他愛のないものだ。


 ジャンケンで順番を決める。わたしは負けて最後になった。


 ひとりづつ森に入ってしばらくすると帰って来る。特に何も起きない。順番を待っている間、ぜんぜん面白くないと思ったのを覚えている。


 わたしの番が来た。それまでに二人の友だちが飽きて帰ってしまったので三人になっていた。もうやめないかと言ったら、怖いんだろうと笑われて、仕方なく森に入る。


 森に入ったとたんうるさいほどの蝉の声に包まれた。まだ夕方には時間があるというのに、カナカナというヒグラシの鳴き声が反響している。


 森は不気味だった。誰かに見られている気がする。サッと振り返ると、何かイヤなものが木の陰に隠れる気配がした。まるでかくれんぼをしているみたいに。


 気のせいよと自分に言い聞かせながら、一度も見たことのない森の中心を目指す。と、急に少し開けた場所に出てあっけないほど簡単に祠に着いた。


 祠は見るからに古い物だった。母が言っていたように、近所の大人たちによって手入れをされているおかげでキチンと清掃されていた。何の神様を祀っているのか分からない。どこにも何も書いてないし、祠の扉は固く閉ざされている。


 祠の前に、先にここまで来た友だちの紙切れが置かれていた。わたしも自分のをそっと置く。わたしの願い事は、家族が元気でありますようにとか平凡なことを書いた気がするけれど、忘れた。


 さあ帰ろう。みんなが待ってるから。


 早足で来た道を戻る。しかし来た時はすぐに着いたのに、なかなか出口に着かない。と言うか歩いても歩いても森が続くばかりで、いつまで経っても出口が見えない。


 変だと思った。こんなに広い森じゃないはずなのに。


 立ち止まって、パッと振り返ってみる。


 スウッと、何かが木の後ろに隠れた…気がした。


 ゾッとして全力で走って逃げたが出口が見えない。そのうちだんだん暗くなってきた。


 わたしは森から出られなくなった。


 後ろから何かが追いかけてくる気配がした。もう立ち止まる勇気はなかった。わたしは泣きながらひたすら走った。しかし道に突き出ていた木の根に躓いて転んでしまった。


 早く起き上がらないと恐ろしモノに追いつかれてしまう…その時。


「どうしたの?」急に女の人の声で後ろから呼びかけられ、口から心臓が飛び出しそうなほど驚いた。


 恐る恐る振り返ると、花柄のワンピースを着た綺麗な女の人が立っていた。でもその格好は、暗い荒れた森の中で、まるで真っ白なノートに留まった毒蛾のようにひどく場違いだった。わたしに優しく笑いかけるその顔も、見てると何故かゾゾっと鳥肌が立った。


 この人はどこから来たんだろう、と思った。


 森の入口は一箇所だけ。藪を突き抜けて出入りできなくはないが、そんなことをしたら服が引っ掛かって、痛んだり汚れたりする。女の人が着ているワンピースは、見たところ新品のように綺麗だった。


 わたしのあとから入ったのかな。そうかもしれない。あとから森に入って迷ったわたしの先回りをしていた。でも何の為に?それに夕暮れのこの時間に、こんな森に何の用があるというの?


 あとから入ったのでなければ、この人の方が先に入ったとしか考えられない。しかし森の入口ではわたしたちが昼頃からずっと遊んでいたのだ。


 誰か森に入ったのなら気付かないはずがない。ましてこんな目立つ服を着た、この辺で見かけたことのないような綺麗な女の人なら尚さらである。


 残る可能性は物凄く嫌なものだった。わたしの頭に暗い森の中でじっと佇む女の人の姿が浮かんだ。ずっと森にいて…例えば地面の下深くで眠っていて、夏になると蝉の声で起きる。そして地面から這い出して…


「会いに行くの」

「えっ?」

「大切な人にね。会いに行くのよ」

「…」


 まるでわたしの考えていることを読んでいるような言い方にゾッとして思わず後ずさってしまった。


「さあ森を出ましょう。もう暗くなってしまったわ」


 女の人の言葉にハッと辺りを見回すと、いつの間にか夕暮れを過ぎて闇が押し寄せていた。私が苦手な暗闇が。さっき感じた得体の知れないものが暗闇に紛れて襲ってくるかもしれない。わたしは怖くなって震え出した。


「大丈夫よ。私が付いていてあげるから」女の人がわたしの手を握った。振り払おうとしたが強い力で掴まれて逃げられなかった。


「怖がらないで。あなたには何もしないから。それに…」後ろを振り返ってから真剣な口調で言う。「ひとりでは危ない。私が出口まで連れて行ってあげる」


 女の人が振り返った方向を見ると、何かが木の陰に隠れた。さっきまでの女の人に対する嫌悪感も忘れて、わたしは女の人の腕にしがみついた。


 甘い香りが鼻をくすぐる。香水の匂いと言うより熟した熱帯果物のような濃厚な香りが女の人の身体から漂う。


 わたしを抱きかかえるようにして歩き出した女の人が立ち止まった。それと同時にどこかで叫び声がした。さっき私たちが立っていた場所の近くで「ぎゃあ」という恐ろしい叫び声がしてすぐに止んだ。そして胸が悪くなるような笑い声がしてシーンと静まり返った。


「目をつぶりなさい。見ちゃダメよ。私がいいと言うまで目を開けないこと。分かった?」


 女の人の言葉にわたしは目を閉じて夢中で頷いた。


 出口まで長かった。この森がそんなに広い筈がない。十分も歩けば森の端に着く筈なのに一時間以上は歩いている気がした。


 歩いているあいだ、わたしたちの周りで何かが走り回る気配がした。目を固く閉じていたわたしはその何かの姿は見なかったが、嫌らしい笑い声を上げるそれを見たくなかった。


 後ろから腕を掴まれて引き倒されそうになった。強い力で掴まれた肩に激痛が走り叫び声を上げる。閉じていた目を瞼を開けそうになり「目を開けちゃダメよ!」と怒られた。


 びちっ、ぐちゃ、と湿ったものが千切れて潰れる気持ちの悪い音がしたと思ったら、肩を掴んでいた手がいなくなった。顔にぬるぬるした液が掛かって目を閉じたまま拭う。


 周りで何が起きているのか分からない。ひたすら恐ろしかった。襲いかかってくる何かも怖いが、わたしを守ってくれていると思われる女の人の落ち着いた態度が怖かったのだ。


 この綺麗な女の人が森に棲むバケモノと戦っているの?いったいどうやって?


 目を閉じたわたしの脳裏に、長い鉤爪を生えた手を振るって襲いかかってくるバケモノをバラバラにして、あるいは引きちぎっている、牙の生えた女の人の(おぞ)ましい姿が浮かんだ。


 もちろんさっき見た女の人には鉤爪も牙もなかった。あくまでもわたしの想像にすぎない。でもその想像は生々しい現実感を持っていた。


 周囲で、ぐちゃっと何かが木にぶつかって気味の悪い叫び声が上がり、びちゃっと何かが地面に叩きつけられる音がした。その度に、とても人のものとは思えない恐ろしい叫び声が起きる。


 そんなことが何回も繰り返され、恐怖のあまり感覚が麻痺して意識が薄れてきた頃「目を開けていいわよ」と言う女の人の声を聞いた。


 気を失いかけていたわたしはその言葉で我に返った。目を開けると同時に腕を掴まれてびっくりして泣き叫ぶ。


 腕を掴んでいるのは心配そうな顔をした友人だった。わたしは森の外に立っていた。辺りは日が暮れて薄暗くなっていた。


「マリエ、お姉ちゃんは?一緒に帰ってきたんじゃないの?」友だちにそう聞かれて、どういうことか問いただすと、友だちのひとりがわたしの家まで行って姉を呼んで来たと言う。


 彼らは、戻ってこないわたしを探して森の中を走り回ったらしい。でも見つからなかった。呼ばれて来た姉は、わたしを探すために、躊躇せず、ひとりで森に入ったらしい。


 姉はまだ森にいるんだ。たったひとりで取り残されて。早く助けないと。


 さっきまでの恐怖を忘れ、せっかく抜け出した森の入口に引き返そうとした時、それまで黙って立っていた女の人に身体を押さえつけられ「戻ってはいけない」と低い声で言われた。そのとたんに体が動かなくなった。


 女の人の顔が近づいてくる。怖くなって助けを呼ぼうとしたら声が出なかった。そして耳元でこう言われた。まるで腐りかけた果実のようなその甘ったるい吐息は、今でも忘れられない。


「お姉ちゃんのことは忘れなさい。覚えていてはいけない。会いたいと思ってはいけない。さもないと帰って来てしまうから。わたしのように還って来てしまうの」


 帰って来てしまう?


 何を言っているのか意味がわからなかった。わからなかったが、なぜかとても恐ろしかった。恐ろしく耐えきれず、わたしはそこで意識を失った。


 森から出てきた時のわたしは血まみれだったらしい。友人や駆けつけた大人たちは、大怪我をしていると思ったようだ。しかし体のどこにも傷ひとつなかった。


 そして…姉はいなくなってしまった。


 半狂乱になったわたしの母が、周囲の制止も聞かず森に入って探し回ったが見つからなかった。


 通報を受けた地元の警察が大掛かりな捜索をしたが結果は同じ。何の手掛かりも残されておらず、大して広くもないはずの森で姉は行方不明になった。


 意識を取り戻したわたしは、どうして森に入ったのかと、泣き叫ぶ母に身体を揺さぶられて殴られた。


 わたしを森から連れ出してくれた綺麗な女の人はいなくなっていた。不思議なことに誰もその女の人のことを覚えていなかった。


 友だちみんなは、わたしたちが森から出て来たところに居合わせていたのに、そんな女の人はいなくて、森から出て来たのはわたしひとりだけだったと言った。


 あの女の人と一緒に森の中にいた時。すぐそばで恐ろしい叫び声がしたけれど、あれは姉のものだったのではないだろうか。森に潜んでいた恐ろしい何かに襲われた姉の断末魔の叫び声。


 母は頭がおかしくなって精神病院に入院した。訳の分からないことを口走りながら暴れたので、拘束衣を着せられて鍵のかかる病室に隔離されてしまった。


 ひとりになってしまったわたしは親戚の家に預けられた。母にはそれっきり会うことはなかった。そして去年。わたしが十九歳になる日の前日に、母はいなくなった。病室の入り口は鍵が掛かったままだったらしい。


 脱走したのか?そうかもしれない。


 でも狂った母が、窓には太い格子があり唯一の出入り口のドアは鍵は掛かっている部屋からどうやって逃げ出したのだろう。部屋から逃げても病棟自体が厳重に隔離されて防犯カメラで監視されていた。


 いったいどうやって?防犯カメラにも映らず外にどうやったら逃げられると言うのか。


 母はとうとう見つからなかった。


 その騒ぎのあとに不思議な話を聞いた。母が入院してから一年後に病室の近くで小学生ぐらいの女の子が目撃されたらしい。


 さっきも言ったけど、そこは部外者は誰も入れないはずだった。


 女の子は近づくと逃げてしまう。探しても見つからない。それから毎年、同じ日に女の子は現れた。母がいなくなるまで。人から聞いたその女の子の特徴は、あの日、あの森でいなくなった姉によく似ていた。


 母が失踪したのはわたしの誕生日の前日。十年前、あの蝉の鳴く森で姉がいなくなった日だ。


 狂ってしまった母は、いつも同じことを口走っていたという。「かえるかえるかえってくるかえってくるぅ!!!」と。


 帰る。帰ってくる。誰が帰ってくると言うの?


 やっぱり。謎の女の子はわたしの姉なのかもしれない。


 あの日、わたしを蝉の鳴く森から連れ出してくれた女の人は、わたしにこう言った。


 "姉のことは忘れろ。考えるな。さもないと帰ってきてしまう"


 母はわたしより頭が良くて器量も良かった姉を溺愛していた。だからいつも姉のことを考えていたのではないか。母に呼ばれた姉が森からやってきて、最終的には母を連れて行ったのではないだろうか。


 何処へ?多分、あの、蝉の鳴く森へ。


 母がいなくなってから、姉と母のことばかり考えている。


 一週間後はわたしの二十歳の誕生日だ。だから、多分、わたしのところへ姉と母がやって来る。どこかへ逃げても無駄だろう。姉と母はわたしを連れてゆく。あの森へ。


 不思議と怖くなかった。だって、わたしたちは家族だったし、わたしは姉も母も愛していたから。


 それにわたしは姉に会いたかった。あの日、姉を森に置きざりにして自分だけ逃げてしまったことを謝りたい。


 姉さんはわたしを許してくれるかな。



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