第六話 セキュリティホール(中編)
>つばの広い帽子を被り、小首を傾げている女性のシルエット。右下に『パンツイッチョマン』のロゴ。さあ、後半戦の始まりだ。
>ゴツゴウ・ユニバースの日本も、順法精神の高い国民性がある、と見なされている。この日本人の「罪を犯さない」という表面的事情の奥には、「悪いことはしてはいけない」という考えが根付いているのが、おそらく一般的なのであろう。しかし、この基本理念が違っても、表面上「罪を犯さない」という行動に集約される結果はありうる。例えば、「犯罪行為がバレたら刑罰を受ける」から、犯罪行為をしない者も、日本人の中にはいる。そう言う人たちは、「悪いからやってはいけない」と思っていない。もちろん、一つの理念だけで行動が決まるわけではなく、多くの人は複合的な理由から行動が決まる。だが、法を犯さない者の中に、倫理観が欠如して、ただ損得の計算から、「今は法を守る」という態度の者は存在する。
>翠丘大舎は、犯罪履歴は真っ新だったが、罪に対しての倫理観が欠けている「表面上小市民の小悪党」だった。拾得物の着服、置き引き、万引きなど、数え切れないほどの悪事をしていたが、慎重な性格だったので、いずれも見つかった事がなかった。翠丘にとっての犯罪は、摘発されて初めて生じるものだった。だから、もし嘘発見器に繋がれて、「これまで犯罪に手を染めましたか?」と訊かれても、表情を変えず「はい」と答え、ちっとも動揺しなかっただろう。翠丘が行った犯罪的行為の中で胸が悪くなるものの一つが、中学時代、好きな女子同級生の縦笛を舐(な
)め回した行為だ。音楽の授業の前に、どのようにしてそんな行為を成し遂げられたのかは、模倣を防ぐために公開できないが、これもバレない完全犯罪だった。ただし、対象の女性は、やや潔癖症の傾向があり、自分の唾液がついた笛をそのまま使うのも躊躇うほどだったので、毎回授業の前に、笛を洗う習慣があり、さらに言うなら、使い終わった後にも水洗いをしていた。それゆえ、翠丘の悪行に気付かなくとも、年頃の男女が気にしがちな間接キッス問題は回避できていた。
>女性視聴者の方は特に、日常にこういった異常行為が潜んでいると想像するとゾッとするでしょう? ちょっと目を離した隙に、気持ち悪い男の体液が、飲食物に混入されられていたら……。気付かないから平気でいられるだけで、過去に似たような干渉を受けていたら、と考え始めると、貴女の信じる日常と平和は崩壊しかねません。それが、社会的には「大した事ないじゃん」と思われがちな事も恐ろしいですね。そりゃあネットに「こんな被害を受けました」と報告すれば、炎上レベルの同情と、犯人への非難は集まるでしょうが、その罪が、例えば窃盗と比べて重いのか、と考えると、被害者の感覚と法律では乖離があるかもしれません。
>まあ、それはそれとして――すぐに脱線から戻れる、便利な表現ですね――この完全犯罪者である翠丘は、現在二十代後半で公務員として勤務していた。キモイ奴だからモテないだろう、と思う人もいるかもしれませんが、大人になると滲み出るキモさ以外に考慮すべき要素が重くなり―――まあ、ぶっちゃけると経済力です――翠丘の方もキモさの隠匿に長けてくるので、結婚を前提にお付き合いしている女性もいた。きっとこのカノジョは、中学時代の縦笛ナメナメ事件について聞いても、「キモいけど、子供の頃の話だからね」と許しただろう。しかし、翠丘の性根はその頃から変わっていなかった。だから、地下系掲示板サイトで、日時指定で「祭りやりま~す」と声が上がった時に、ビビっときた。もちろん、「何の祭りだよ」と聞く声があり、「潰されないためにも詳しく言えないけど、かつてない騒がしい祭りになるはず。花火大会並み? ……いや、以上かも(笑)」(※注釈: (笑)の部分は顔文字でしたが、閲覧環境によっては正常に表示されないかもしれないので、文字変換しました)と答えがあり、その後にもせっつかれて、「ここ、実験場」として、火災警報器の同時故障事件があったマンション写真が示された。これで、翠丘は確信した。業務上、この事件の情報を知っていたのだ。途端に、普段押さえていた欲望がムラムラと湧いてきた。犯行予告日時まであまり時間的猶予は無かったが、翠丘にある程度の備えはあった。町中にある監視カメラの位置だけでなく、角度にまで、日常から意識していたからだ。監視カメラに不審者の姿がほとんど映っていない完全犯罪。その下ごしらえを翠丘は済ませていたのだった。
翠丘: 「せっかくの祭りなんだから、盛り上げないとね」
>深夜にパソコンの画面を眼鏡に反射させながら、翠丘は不気味な笑みを浮かべた。
>「一両日」という意味を後輩刑事から教えてもらったノーパン刑事は、できる限りの準備を整えて、二日目の警戒に突入していた。後輩刑事には、パンツイッチョマンについて知らせていなかった。実際目にしないと笑い飛ばしてしまう存在だから、という理由もあったが、パンツイッチョマンの情報に従っていると思われたくなかったのが主な理由だった。パンツイッチョマンが「火災と絞れれば対応できる」と謎の自信を見せたように、ノーパン刑事には「今日か明日かと言われれば、明日だ」という根拠のない確信があった。自身はそれを刑事の勘として認識していた。しかし、後輩刑事の方は、時間的猶予のないノーパン刑事の要求に、幾らか困惑していた。後輩刑事自身は、ノーパン刑事を信じていた。これまでも「刑事の勘だ」とノーパン刑事が主張した事は、大半がそのとおり……いや、それは言い過ぎた。うーんと、半々?……いや、そこまでは低くないか。だったら、三分の二くらい、かな? ……うん、たぶん、それくらいの頻度で当たっているので、後輩刑事もそれくらいの信用度で、話を聞いていた。
>ちなみに、ノーパン刑事の方は、「刑事の勘」という表現を、色々な手応えで使っており、ほぼ間違いない確信がある時も、五分五分の賭けの時も、混ぜて使っていた。だから、外から見ると確率は余り高くないように思えるが、「これはっ!」と手応えを得た時には、ほぼその通りになっていた。今回の事件においての手応えはそのレベルだった。事件が起きる日だけでなく、時刻についての目星もついており、見立てでは夕刻以降だった。だから、その日の午前から昼下がりまでは、専ら署内でミーティングや書類仕事を片付けていた。ノーパン刑事のような、アウトローな刑事でも、抱えている仕事は多かった。刑事とはそれほど忙しい職業なのだ。
>事件は、ノーパン刑事の読みどおり、夕刻午後六時を過ぎた頃に発生した。影響範囲内にいた人は、まず発生した警報に驚いた。そして、すぐに「イタズラかな? 故障かな?」と考えた。その直後、近くで別の警報が鳴る。さらに驚いて思考停止になっている間に、また別の警報が鳴り響く。態度としては少し問題があると言えるのだが、単発の警報であれば、即避難しようと考える人は皆無だった。しかし、こうも周囲が一斉に吠え立てると、ただ事でないと腰を浮かす。それでも、持てるだけの貴重品を持って、屋外に避難する人は、警報を聞いた人の半分に満たなかった。現代人の火災警報に対する危機意識は、あいにくこの程度なのだ。避難の代わりに、消防署へ連絡する者が一定数いた。しかし、一万人以上の人が活動する範囲内での一斉に警報だったので、通報した者がごく一部だとしても、消防署の受信許容量をたちまち超えた。消防活動ではなく、まずは火災発生の確認の段階なので、やがて警察や市役所などへの応援が求められるのだが、こちらも通常勤務時間を過ぎたタイミングだったので、回りきらなかった。公共性が高い電気会社やガス会社にも騒動は飛び火した。跳ね上がる通話件数に電話回線もパンクする。実際のところ、火災の実態がない誤報だったが、それに対する社会の免疫反応で、社会全体が機能不全に陥った。この混乱はまさしくテロだった。
NPD: ゲンさん! どうでしたか?
>警報が鳴り始めてすぐ、ノーパン刑事は、素早く携帯電話をコールしていた。掛けた先は、今回の事件に協力してくれた元巡査だ。定年退職した後だったので、業務に縛られず、気軽に協力してくれたのだ。
ゲン: いやぁ、ショウちゃんの言うとおり、あちこちで警報が鳴り出したぞ。こりゃあ、一体何が起きてるんだ?
>心から信じていなかったにせよ、予め何が起きるか知らされていた者でもこの動揺だ。そうでない人たちがパニックになるのも仕方ない。が、ノーパン刑事には、相手の心情を落ち着かせる余裕すらなかった。
NPD: 方角は?
>さすがは元巡査。その一言で、すぐに答えを返す。
ゲン: 北東だ。 北東から始まった。
NPD: 場所は変わってないですね?
ゲン: ああ。指示された……り、…だ。
>通話にノイズが入り始めた。一部が聞き取りづらい。
NPD: ありがとうございました。
>こちらからの声も届いているか不明だったが、お礼を言い、通話を切る。続いて、後輩刑事に通話を試みるが、これは繫がらない。ノーパン刑事は自分のスマホを確認するが、アンテナは未だ立っていた。おそらく、向こうが既に死んでいるのだ。間もなくこちらのアンテナも不安定になるだろう。
NPD: ちっ、どいつもこいつも、ケータイに依存しやがって。
>ノーパン刑事は毒づきながら、近くに停めていた愛車の軽自動車に駆け寄る。電話回線がパンクする速度は、予測を超えていた。それは、それほど素早く市民が通話できる状態にいたということだ。ケータイを肌身離さず持ち歩いている人ばかり、という現実の反映だった。だが、通話ができない事態も想定していた。ノーパン刑事は、車内に入ると、置いていた地図に矢印を入れる。ゲンさんの現在位置を示す点に、北東向きの矢印だ。そして、自分の位置を示す点にも、矢印を入れる。最初に警報が聞こえた方角の矢印だ。それから、直ちに車のキーを回す。間もなく緊急車両がそこら中を駆け回るため、車はすぐに使い物にならなくなる。それまでに、連絡がつかなかった時の為に設定していた合流地点に、なるべく近づいておきたかった。
NPD: わかってはいたが、これはやっぱりテロだぜ。
>ノーパン刑事は吐き捨てるように言うと、車を急発進させた。
>合流地点は、ホームセンターの駐車場だった。後輩刑事は、単車で先にやって来ていた。警報はホームセンターでも鳴っていた。出入り口の混乱を見ると、懸念していたとおり、混乱に乗じての万引き事件が発生したようだ。被害が出るのを防げたのかどうかは良く解らない。今入口で店員と揉めている客は止められたのだろうが、その前に逃げ切った者がいるかもしれないからだ。
後輩刑事: ここ、日本ですよね?
>眉を顰めて、後輩刑事は入口のやり取りに視線を向けた。治安の良い日本とは思えない、という意味なのだろうか。
NPD: 日本で、これだからな。治安が悪い国なら、商店は全滅だったな。
後輩刑事: でも、ここ以外にも、あれ、発生しているって事ですよね。だったら、本来、俺たちの領分じゃないですか?
>「あれ」と言って示したのは、入り口での騒動だ。確かに、「警察を呼ぶぞ」と話しているので、近くにいる警察が対応すべき事案ではある。
NPD: ああ。課長が知ったら大目玉だな。だから、会社の車じゃねえんだよ。
>公務員の方の中には、外で話す時に、所属団体のことを「会社」と表現することがある。市民から難癖を付けられる危険を避けるためについた習慣だと思われる。例えば、有休を取って、昔の友人と会い、酒を飲んでいた時に言葉遣いで周りの人に公務員とバレたら、「公務員のくせに、平日の昼間から酒なんか飲んでんじゃねえ」と酔っ払いに絡まれる危険があるのだ。他にも、一般会社員なら報道されない犯罪が、公務員だから報道されてしまうという不公平も存在する。もっとも、この不公平は道理だという意見があり、「そもそも犯罪なんかしなけりゃいいんだよ」と言われたら、公務員側も返す言葉がないので、議論になることはまずない。
後輩刑事: とはいえ、見ないふりをするのは、正直辛いですね。
NPD: バカヤロウ! あっちに目が向くってことは、もっと大事な事から目を逸らしているって事だ! ここで、犯人を逃してみろ。また別の日に、同じ事が起きるんだぞ!
>その指摘に、ハッと目を開いてノーパン刑事を見る後輩刑事。
後輩刑事: そ、そうッスね。
NPD: で、そっちはどうだった?
>ノーパン刑事は、自身の車の上に広げた地図を示す。
後輩刑事: はい。オレは北で、涼ちゃんは北西です。
>涼ちゃんと呼ばれたのは、前編に名前が出ていた鑑識係の女性だ。彼女は仕事を定時で上がった後、作戦に参加してくれたのだ。この無理を聞いてくれるあたり、やはり二人の仲は悪く無さそうだ。
>話を進める前に、ノーパン刑事たちが試みている作戦の詳細について調べてみましょう。…………。なるほど。ノーパン刑事、意外に賢いですね。驚きました! えーと、まず、これは前提と言ってもいいかな? 被害箇所をマッピングした場合、円形になり、その中心に犯人がいた、と考えられます。しかし、これを、そのまま逮捕に繋げる事はできません。現在陥っているように、通信網がズタズタになっているので、被害範囲の認識がまとめにできないからです。状況が落ち着いて、被害範囲を把握できた時には、きっと犯人は逃げた後です。悠々と逃げられるくらい、町が落ち着くのには時間が掛かるでしょう。そこで考えたのが、四つの観測点からの中心予測。ノーパン刑事は、犯人の異能について以下の二つの想定をしていました。一つ目は、発信地から、非常ベルを押す虫を飛ばす方法。この場合、犯人が単純なら、四方八方に虫を飛ばして、円形の中心に犯人がいることになります。しかし、虫を一方向に飛ばしたなら、被害範囲は円形になると限らず、その中心に犯人がいないかもしれません。いずれの場合も、虫が飛んでいく時間が長くなるため、犯人に近い場所は早くに、遠くの場所では遅くに警報器がなる、と予想していました。しかし、実際は、周囲の建物から非常ベルが聞こえてくるのに数秒の誤差しか生じませんでした。これは想定されていた二つ目のケースの能力だったと考えられます。それは、事前に虫を非常ベル近くまで飛ばしておき、起動の指令を送ることで、最後のダイブをさせるという作戦です。この場合でも、犯人が発する信号的なものを虫が受け取るのは、犯人が近い虫からだと考えられます。つまり、先になった非常ベルの先に、犯人がいる可能性が高いのです。
>ね、なかなか賢いでしょう? ……え、説明長くて読んでいない? だったら、理屈は良いから、ノーパン刑事が工夫して、犯人の所在地を割り出そうとしているとわかれば結構です。
>ノーパン刑事は、マーカーでそれぞれ矢印を記すと、二つの点にそれぞれの人差し指を置き、矢印の方向へ動かす。それを見て、後輩刑事が残りの二つの点に指を置き、同じように動かす。二人の合計四本の指は、地図上の池がある辺りに集まる。
後輩刑事: あれ?
>首を傾げる後輩刑事に対し、ノーパン刑事は冷静だった。指を一本だけ地図に残すと、池を含む大きめにグルリと円を描く。
NPD: 方角は、八分の一の精度だ。起動にも多少のズレが生じるなら、だいたいの位置しか解らねえ。だが……
>ノーパン刑事の指が、蛍光ペンでマーキングされている地名を示す。
NPD: 奴はここにいる!
後輩刑事: でも、一応、こちらにも候補としてマークした場所はありますけど。
>ノーパン刑事が聞き届けると思わないが念の為の確認、といった感じの発言だった。ノーパン刑事の指差した箇所と池を隔てた反対側を、後輩刑事は指差した。確かにそこにも蛍光マーカーが引かれていた。池の近くの候補地は二つあったのだ。
NPD: いや、ここだ!
>そう言いきれる根拠が何なのか? しかし、後輩刑事はそこを突っ込まない。答えが既にわかっているからだ。同調できる私もわかりますが、ここは視聴者の為にも、質問して欲しかったですねえ。……と思っていたら、ノーパン刑事が聞かれてもいないのに口を開く。
NPD: 刑事の勘だ。
>その日、翠丘は定時退社をした。出入り口にいる警備員への挨拶は、いつもの会釈だけと違い、敢えて声を掛ける。
翠丘: 一番乗りですか?
>警備員は声を掛けられた事に少し驚き、話しかけられた内容を理解するのに、数秒の時間を要したが、わかると笑って答える。
警備員: そうですね。未だ、誰も帰っていません。……時間は過ぎていますが、……さては、帰り支度をしていたんですね?
翠丘:そうなんですよ。家の椅子が壊れて……。ホームセンターに寄って帰らないといけなくて。
警備員: それは、まあ――
>警備員が言いかけていたが、退社の処理を済ませた翠丘が軽く手を挙げて、立ち去る。会話がしたかったわけではなく、いかにも世間話という雰囲気だった。しかし、疑い深い者なら、急いで帰宅したいなら何故歩きながらIDカードの準備をしていなかったのだろうと矛盾に気付いただろう。事実、翠丘の目的は、雑談のふりをして、ホームセンターへ行くつもり、というアリバイ作りをしていた。もちろん、手早く用件を済ませたら、実際にホームセンターへ向かうつもりだった。他にトリックはないので、厳密には、寄り道をしていなかったという証にはならない。だが、まるで通り過ぎるように用件を済ませてしまえば、「空白の時間があるが、十分ではないので、犯行をしていたと考えにくい」となるかもしれない。そもそも、翠丘は、犯行の際、誰にも見つかるつもりはなかった。もし前後に、誰かに見つかれば、撤退するつもりすらあった。だから、このアリバイ作りは念には念を重ねた工作だった。
>翠丘の目的は、放火だった。別に他の手段でも良かったのだが、火災報知器が鳴るなら、放火が適していると考えていた。翠丘の欲求は、匿名で有名になる、というある種の矛盾を抱えたものだった。その過程で、関係ない人が傷つこうとも、翠丘は一向に気にしなかった。他人の痛みを感じる心が欠けていたからだ。しかし、カノジョからはむしろ「優しい人」と思われていた。これは、優しい心がなくとも、優しい行為を知識として知っていたら、勘違いさせられたからだ。
>警備員に見られているのを意識しながら、いつもの方角へ進み、しばらく進んでから迂回路を取る。そこからは監視カメラに映らない道や角度を選ぶ。公設の防犯カメラだけでなく、通りに面した建物内部の、往来が映っているだろう防犯カメラも把握していた。さすがに、建物の奥から通りが少し見えているカメラについては把握していきれていなかったが、解像度の問題から、それに映っていても支障はなかった。そうして、翠丘は、目的地近くにやって来る。既に周囲では火災報知器の暴走が始まっており、翠丘の心は浮き立った。消防車も一斉に動き出し、出動先でイタズラに対する怒りを募らせている頃だろう。こんな時に本物の火事が起きると対応が著しく遅れるのに違いない。
>住宅街には、放火しやすいポイントが幾つかあった。住人が良かれと思って用意した物が、放火魔にとってはスイートスポットに相当する事が実際にあるのだ。それが人目につきやすい場所なら、抑止力を持ち、火を点けられたとしても大火に至る前に鎮火できる。けれども、親切心から「見苦しいだろう」と見つかりづらい場所に、弱点を設置している事がある。そのポイントを、翠丘は狙っていた。……で、それって具体的には何だよ、お思いの視聴者の方もおられるでしょうが、セキュリティの観点から公開する事はできません。元カエル仮面の銃にほとんど触れられなかった理由と同じです。
男の声: おい!
>目的地がすぐ側まで近づき、鞄から犯行に使う道具を出そうとしていた時に、翠丘は声を掛けられ、心臓が跳ね上がるほど驚いた。しかし、態度は変えず、無視する。こういう時に反応すると、認めたことになる、と知っていたからだ。
>以前、万引きをした時に同じ状況を経験した。すぐに「しまった!」と内心冷や汗をかいたが、同時に違和感もあった。声を掛けられたのが、翠丘が商品を盗んだ直後でもなく、店を出た直後でもなかったからだ。普通は、店を出た直後に声を掛けられる。「後で払うつもりだった」と言い訳されると面倒臭いからだ。しかし、面倒臭いだけで、その言い訳で押し通られるわけでもないので、覚悟を決めた店なら、盗んだタイミングでも捕まえに来る。また、捕まえるのが目的ではなく、追い散らすのが目的の場合も、さっさと声を掛けた方が早い。しかし、翠丘はいずれの場合でもなかったので、この違和感が翠丘を硬直させ、結果怪しい行動を取らせなかった。一拍遅れて、老人が店の出口へと駆け出し、あえなく御用となった。注意されたのは別の万引き犯だったのだ。
>だから、翠丘は今回も自分に向けられたものではないふりをした。もちろん、声のした方を振り返りもしない。出すつもりの物を財布へと切り替えて、鞄の中をまさぐる。「喉が渇いたから自販機で何か買おうとした」のは、犯罪には当たらない。事実、現時点でビクビクする必要がなかったのだ。
男の声: 済まないが、可能性を見極める余裕がない。
>声は先ほどより大きくなっている。当たり前だ。この通りには翠丘以外の人は今いないのだ。近づいて来る相手も(みどりがおか)しかいない。誰も居ないからこそチャンスだと思っていたのだが、謎の男がどこかから現れたせいで、翠丘の楽しい時間が神経のすり減る時間に変わってしまった。ペタペタと足音が近づき、ついに人違いではないと思い込めない事実――力強い手が、肩に置かれた。ぐいっと引っ張るように振り向かされた直後、翠丘は気を失った。意識に残った最後の一言は「イッチョマン・スラップ!」だった。
>「この先私有地。関係者以外の立ち入り禁止」の札が、懐中電灯の明かりで照らされる。明かりが二つに別れ、一つが地面をフラフラとさまよう。
NPD: 足跡はないな。別口から登ったか。
>この場所が正解、という判断が誤りという発想はないらしい。この独善的な思考は、ソリが合わないと互いに認め合っているパンツイッチョマンに似ている。あるいは、似ているから反発するところがあるのかもしれない。
>道路の渋滞は本格化していた。ノーパン刑事は、後輩刑事の中型バイクの後部に乗って、この山の入口まで来ていた。緊急事態なので、本来利用車以外の使用が禁じられているホームセンターに、ノーパン刑事の愛車を停めたままであることは、非難しないでおこう。でも、みんなは真似しちゃダメだぞ。
NPD: 明かりは下ろして行け。
>ノーパン刑事は後輩刑事にそう指示すると、張られているロープを潜った。潜んでいる犯人に気取られないよう近づくつもりだ。もちろん、スマホの音は二人とも切っていた。そのまま、細く曲がりくねった道を登ること十数分、二人は開けた川原に出る。激しい雨が降った時には水が溜まるのだろうか、木の生えていない、剣道や柔道の闘技場ほどの面積が開けていた。石ころで覆われているその地面に、深さ数センチの小川が幾つにも分かれて流れている。この広場の中央近くにある大きな岩の上に、電灯ランタンを脇に置いて、人が座っていた。その人影は、首紐を付けて支えた板を腹のあたりで平らに広げていた。この板は、小学校の頃、学校から出て写生をする際に用いた肩掛け画板に似ていた。いや、肩掛け画板なら、紐が斜め掛けで、板面も斜めになるので、駅弁や野球場の売り子さんが使う立ち売り箱の方が近いかもしれない。……調べてみたら、番重という呼び名があるそうです。どういう呼び方にせよ、その人物は、そこに置いてある何かを触っているらしい。離れているので角度的に良く見えないが、カチャカチャという音から、キーボードを操作していると推測できる。おそらく、ノートパソコンを置いているのだ。
>そういえば、ノーパン刑事は、暗くなってもサングラスから見えるのだろうか? パンツイッチョマンは見えているようだが……。
NPD: 何だ? あの、デッカイ眼鏡。
>あ、やっぱり見えていたようですね。見えにくいのを我慢しているかどうかまではわかりませんが。
後輩刑事: ん? あ、あれはVRメガネですよ。……いや、VRモニターと言った方がいいのかな?
NPD: ん? VR?
>ノーパン刑事は、法律だけでなく、コンピューターにも弱かった。
後輩刑事: ヴァーチャルリアリティ……いや。それは、今はいいです。簡単に言うと、あれはメガネ式のモニターで、おそらく、パソコンのモニターとして使っているのだと思います。
NPD: ……あいつ、何をしているんだ?
後輩刑事: ……さあ?
>首を傾げる二人。後輩刑事の方は、すぐにマズい事態ではないかと考え始める。
後輩刑事: アニキ。あの人って、もしかして、関係ない人かもしれませんね。天体観測のソフトで夜空を見ているのかも。
>その意見を受けて、じっと容疑者を見つめるノーパン刑事。脇に置いているランタンの明かりで、相手は男だとはっきりしていた。ヘッドホンをして、バックパックらしきものも背負っているのも見えた。ノーパン刑事は、天体観測のソフトと言われても、知識が欠けているので全くイメージが湧かなかった。だが、余計な考えが浮かばなかった分、勘は冴えわたる。
NPD: いや、ヤツだ! 間違いない。……挟み込むぞ。
>二手に分かれて、VRメガネの男に近づく、ノーパン刑事と後輩刑事。注意していても、足元の石が音を立ててしまうが、ヘッドホン越しの相手には聞こえていないようだ。VRメガネの男は、時折ぶつぶつと何か独り言を言っては、キヒヒと笑う。日が落ちた後の山の中で、こんな格好をしているのだから、正直、気味が悪い。二人の刑事は、標的を前後から挟む形で、二メートルほどの距離を置いて止まる。後ろに回っている後輩刑事は、VRメガネの男のバックパックを見て、戦争映画で見る通信兵を連想した。上に向けて、開いている袋の口からアンテナが伸びていたからだ。それ以外にも複数コードが伸びて、前側のどこかに繋がっている。ノートパソコンはわかるが、それならコードは一つで済みそうだ。
NPD: 動くな! 警察だ!
>大きな声を出すと、さすがに気付いたようだ。VRメガネの男の表情に――鼻から下しか見えないのだが――驚きが生まれたのがわかった。数秒止まった後、警告にもかかわらず、男が動き出した。ただし、指先だけだ。キーボードをカタカタ鳴らすと、驚きで半開きになっていた口に笑みが戻る。
VR男: ホントだ。こんなところに、人が来るなんて! 驚いちゃったよ。
NPD: こっちも驚いている。世間はもっと驚いているぞ。大それたことをやってくれたな。
VR男: へえ。感心した。まぐれでこんな所に来たんじゃないんだ。どうやって、見つけたの? いや、その前に、ボクがしたことを理解してるんだ! すごいね。どうやって、知ったの? まだ、最初のベルが鳴ってから……三十三分と四十五秒しか経ってないよ。日本の警察って、それくらい優秀なの?
NPD: 詳しい話は署で聞いてやる。大人しくついて来い。虫使い。
>また、VRメガネの男の動きが一瞬止まった。数秒経って、また動き出す。今度も手だけだ。ただし、キーボードを叩くのではなく、両手をパンパンと打ち鳴らす。
VR男: はは、そうか、虫使いねえ。ふーん、虫を追って、ここを突き止めたのか。なるほどねえ。まあ、それでも、そっちの詳しい手法はわからないけれど、本質を理解していないのはわかった。
NPD: 本質だと?
>聞きながらも、ノーパン刑事は気を緩めていなかった。何かあれば、指弾を放てる準備をしていたが、どこを狙うかについては迷いがあった。VRメガネを着けていなければ眉間を狙うつもりだった。その一発で無力化できる自信があった。しかし、VRメガネが覆っているので今は狙えない。その次は、喉か鼻か。喉は下手をすれば殺しかねない危険があった。鼻は戦意を殺ぐには有効だが、根性のある相手だと止められない可能性があった。しかし、狙うのなら今は鼻しかなさそうだ。ノーパン刑事は懐中電灯と指弾の照準を相手の鼻に合わせる。
VR男: ああ。ボクは、虫使いと呼ばれるような、汚らしい存在じゃない。あれは、もはや虫ではない。有機ロボットなんだよ。……あ、わかっていない顔をしているね。ま、簡単に言うと、虫は極小のセンサーで得られた情報から、単純なアルゴリズムに従って行動している。これって、まさに人間が作ろうとしている、ロボットそのものなんだよ。ボクは、虫が本来持っているアルゴリズムを書き換えて、自在に動かすことができる。だから、虫使いというより、ロボットマスターなんだよね。
NPD: それで、虫にアンテナみたいな針を立てていたのだな。
VR男: そのとおり。
>VRメガネの男が、ノーパン刑事を指差した。その動きと、顔色を読んでいたことからわかるとおり、今はノーパン刑事の姿が見えているようだ。
後輩刑事: ゴタクはいい。さっさと、警報を止めろ!
>後輩刑事は、背後からスタンガンを構えていた。VRメガネの男は、片方の手のひらを肩のあたりで空に向ける。
VR男: はぁ? やっぱり、わかってなかったんだ。ボクが出したコマンドは、火災報知機のオンとショート。それを果たした虫ケラはもう死んでるよ。
NPD: ……なるほど、虫使いではない。虫への愛情はさっぱりないみたいだからな。
VR男: そうかもね。言われてみれば、自分が作ったミニロボットだったら、もうちょっと愛着がありそうだ。
NPD: だが、タカの言うとおり、おしゃべりはもういい。そこから降りて、大人しく、同行してもらうぞ。
VR男: ふーん。でも、罪状は何? 虫で今回の騒動を引き起こした? それって証明できないでしょ?
NPD: ここは私有地だ。だから貴様は不法侵入の現行犯だ。逆らえば、公務執行妨害も付けられるぞ。
VR男: へえ。別件逮捕ってやつか。でも、不法侵入だったら、そっちも同じでしょ? それとも警察って法律を守らなくてもいいの?
>鋭い指摘だと私は思ったが、今度は後輩刑事が鼻で笑った。
後輩刑事: 警察を舐めるなよ。この私有地の権利者には、一時立ち入りの許可を事前にもらっている。
VR男: ……嘘だ。
NPD: いや、本当だ。虫を大量に放つなら、目立たない、この山のような自然の土地が良い。それでいて、虫を操る範囲が限られていると考えると、周囲に市街地が存在する条件が適している。該当する場所は、この山や寺社林、自然公園など、限られていてな。そのうち必要な対象に通行の許可を取った。
>VRメガネの男が黙り込む。薄ら笑いを浮かべていた余裕は消えていた。数秒後、話し出した声にも、楽しむ素振りは消えていた。
VR男: 本当に驚いた。ボクの能力をわかっていなかったのに、絞り込めるんだね。確かに、優秀だ。だけど、未知の能力者に対して、逮捕に来たのは二人だけ。……他のポイントと手分けをした? ……ううん、違うね。考えてみれば、日本の公式機関が、あやふやな情報を元に大規模に動くわけがない。ボクを押さえに来るのは、この事件が終わって、次の事件が発生した時だ。今の事件が発生している最中ではない。……たぶん、貴方は優秀過ぎるんだろ? 日本の組織じゃ、そういう人は疎まれて、孤立することが多い。だから、ここに来たのは二人だけ。見方を変えると、貴方たち二人から逃げられれば、ボクは捕まらない。
NPD: これが最後の警告だ。従わないなら、スタンガンを撃つ。
VR男: わかった、わかった。降参だ。だけど、その前に、勢いをつけるために、一曲流してもいいかな?
>返事を聞かずに、VRメガネの男は、ノートパソコンをいじった。すると、言っていたとおり、威勢の良い曲がスピーカーから流れる。
♪ チャララチャララチャララチャララ、チャララチャララチャララチャララ、タラララッタ、タラララッタ、タララララッタ、タンテントン
VR男: 『天国と地獄』だったっけ? 子供の頃、運動会でよく聞いたでしょ?
>えーと、訂正しておくと、流れた曲は、カバレフスキーの『道化師のギャロップ』です。良く分かっていないなら、タイトル言わなければいいのにね。
>VRメガネの男は言いながら、座ったまま、もそもそと前にずれていき、すとんと着地する。それから、振り返り、右手で置いていた電灯を拾う。背はあまり高くない、百六十半ばだ。小太りで、目のあたりが隠れているためわからないが、年齢は三十代から四十代というところだろう。
VR男: ところで、刑事さん。質問なんだけど、ボクが虫を使って反撃する危険については考えなかったの?
>後輩刑事は安心して、スタンガンを降ろしかけたが、ノーパン刑事は手振りで警戒を続けるように指示した。自身も、明かりと指弾の狙いを逸らさないまま、距離も保ったままで、話を続ける。
NPD: よし。先に立って、そちらへ歩け。
>ノーパン刑事が、自分たちが来た方向へ進むように促すが、VRメガネの男は動こうとしない。
VR男: 答えてよ。興味があるんだ。
NPD: 使える虫は、全部、事件に投入した。百匹を超える数だろうからな。
VR男: だね。でも、今のボクにコントロールしている虫はいない。手が空いているよ。
NPD: 虫を操るには、針を立てる必要がある。まだ、そんな手間のかかる事ができる時間は経っていない。
VR男: なるほどねえ。やっぱり、優秀な刑事さんじゃない。だからこそ、事件直後のボクを押さえに来たんだね。
>ようやく動き出したVRメガネの男。その時、後輩刑事はおかしなことに気付いた。この男は、目を覆っているのに、歩いているのだ。だが、それについて、ノーパン刑事は変だとは思っていなかった。こちらの動きが見えているのは言葉からわかっていた。その理由として、ノートパソコンのカメラを使っているのだろう、と考えていた。しかし、ここにコンピューターに詳しくない弱点が出ていた。スマホは、両サイドにカメラがあるのが普通だが、ノートパソコンはモニター面のある側にカメラが付いているのが一般的で、天板側を写す需要があまりないので、そちら側のカメラは付いていない事が多い。対応しているパソコンでも、カメラレンズを回してそちらに向ける仕様だったりする。そして、VRメガネの男は、ノートパソコンのカメラレンズを一切触っていなかった。もう一点、ノーパン刑事が見落としていたのが、VRメガネの男の手の動きだった。ノーパン刑事を指差して、後輩刑事に対して「わかっていないね」というジェスチャーをした手は右手だった。左手は宙に浮かした状態で、しきりにピクピクと指が動いていた。その手がパソコンをタイプしていたなら、ノーパン刑事も警戒していた。しかし、触っていなかったので、気にしていなかった。だが、VRメガネの男は、左手に特殊な手袋をしていた。パワーグローブと呼ばれるその機器は、マウスの動きやキーボード操作を補完する入力装置だったのだ。
後輩刑事: おい! そっちじゃない。あっちだ。
>VRメガネの男が進んだ方向は、ノーパン刑事たちが来た方向とは逆側だった。声を掛けられると、立ち止まり、振り返る。
VR男: 正解を言うと、虫を動かしているのは電波ではなくて、波動なんだ。電磁波である必要はない。他には、例えば、音波。
# シャン!
>VRメガネの男がカンテラを揺らした。
後輩刑事: いてっ!
>突然、右腕にチクリと痛みが走り、後輩刑事は腕を振った。痛みがあった所を左手で叩くと、何かの手応えがあった。その動きで、持っていたスタンガンを落としてしまう。
NPD: ちぃっ!
>ノーパン刑事は舌打ちをすると、飛んで来た何かに向かって、指弾を放った。それは命中し、地面に落ちた。反射的に懐中電灯でそちらを照らしたが、小さいものだったので、小石に紛れてもうわからない。だが、ノーパン刑事の視力は、おぼろげながら、対象を認めていた。それは、ハチ。おそらく、後輩刑事の腕を刺したのも、同じくハチだ。
>VRメガネの男は、カンテラを掲げながら、後ろ歩きで遠ざかりつつあった。ノートパソコンからは変わらず音楽が流れている。どうやら、それでハチを操っていたらしい。その指令は、パワーグローブを介して、入力していたのだ。
VR男: 運動会といえば、徒競走だね。さあ、どれだけ早く走れるかな?
>ノーパン刑事は、握っていた拳から次弾を転がり出して、VRメガネの男へ向かって放った。しかし、動揺していたせいで、狙いは定まらず、パチンコ玉は夜の闇へと消えて行った。その闇からは、唸る音が近づきつつあった。ハチの羽音。大群だ。
NPD: タカ! 走れ! こっちだ!
>ノーパン刑事は、手振りを交えて指示し、後輩刑事が駆けていく背中を叩いて、自分も同じ方向へ走る。本当は、VRメガネの男を連れて行くはずの道だった。しかし、今では状況が逆転し、敗走経路になってしまった。
>笑うVRメガネの男の頭上を、ハチの大軍が抜けていく。それがカメラに迫り、暗闇で覆ってしまう。――っと、ここで今週は終了だ。前後編で終わるかも、と最勝寺先生は言っていたが、正直私は「無理だろうな」と思っていて、それが現実になってしまった。あ、でも視聴者の方々は、タイトルからもう知っているのでしたね。
>果たして、同時多発火災報知器誤作動というテロ活動を起こした犯人は捕らえることはできるのか? そして、パンツイッチョマンは今どこに? 答えは、来週明かされる!!




