逃亡者
子は鎹と言うが、子供が出来てから妻との折り合いが悪くなった男は多い。
多分に漏れず青天目も逃避のように足を運ぶようになった繁華街は、皮肉にも今の彼という木の葉を隠す森同然の避難場所となっていた。
薄暗い店内は騒々しく、しかし、金払いが悪そうで暗く薄汚れてしみったれた客の彼にはホステスも近寄らない。
彼は注目を受けない程度に残念な客を演じながら、ここ数日は人目を避けて店を転々としていたのである。
青天目は飲みたくもない酒を手にしながら、何度も店の非常口と入り口に視線を動かす自分に呆れてもいた。
彼はすべてを失い、そして今や人間でさえもないのだ。
警察に捕まったところで何も変わらないだろうに、と。
妻と子供を庇う前に彼は絶命させられ、失う意識の中で妻子を生贄にした宴を見せ付けられたのである。
子供の火の点いたような泣き声と叫び声を思い出して、彼は煽るようにグラスを開けた。
酔う事など不可能であるのに。
蘇生して体が動き出した途端に、彼がなぜ逃げてしまったのかはわからない。
復讐を願うには自分自身の意識は鈍く、夜行性の生き物が太陽の輝きから本能的に逃れるが如しなだけであった。
車の衝突に無意識にハンドルを切った時のように、彼は殺戮現場となった自宅から逃げ出したのである。
しかし、彼は死人となって重く苦しい体に閉口していたが、死んだ体のために食も排泄も睡眠さえも必要が無いために、自分を探す同僚達の手から逃れることが出来ていた。
「この怪我が無ければね。」
殺人者達に刺し貫かれた傷は、既に血を吐き出すことも癒える事も無い腐った黒い穴でしかなくなっていたが、刺し貫かれた時と同じ痛みを常に彼に与えているのである。
彼は痛みが我慢できないと大きく息を吸おうとして、喉が詰まって息も吸え無い自分の体に気づくのだ。
彼の前で妻子を貪っていた奴等は何と言っていた。
「お前が目覚めたら、俺達が残した息子の肉でも齧れ。」
そうだ。
息子の血を飲んだ途端に奴の肩が盛り上がり、少々の後に彼の左の手のひらは開いたり閉じたりと生気を取り戻したではないか。
土気色の肌は生気を取り戻し、包帯を解いたその顔は怪我など知らない健康そうな何時もの顔だった。
人の血肉を喰らえば俺の苦しみも痛みも消える?
「痛いでしょう。これを飲んだら痛みは治まると思う。いや、傷が治るまで痛むか。怪我は痛い方が治りが早いって言うから、痛みは逆に生きているという喜びかな。」
コトンと、目の前に水の入ったグラスが置かれ、そのグラスには腐ったイクラのようなものが一粒たゆたっている。
酔客の嫌がらせかと咄嗟にコップを投げつけたい衝動に囚われたが、彼の前にコップを置いた男が目の前に座る事でその衝動が霧散した。
青天目の目の前に断りも無く座って悠然と微笑む男は、どこかで見覚えのある顔つきをした真っ白い老人であった。
老人と言い切ってはいけないだろう。
全て後ろに流されている豊かな髪は銀色に輝き、その髪に縁取られた肌は抜けるように白く、彫の深い印象的な二重の瞳を気さくに微笑ませる男は、老齢だろうが物凄いハンサムなのである。
男は白に近いベージュ色の三つ揃い姿で、上着から顔を出しているベストは刺繍とビーズが施された派手なものだ。
銀幕の映画俳優が行きつけの飲み屋に立ち寄っただけだという風情で、青天目の目の前でグラスの酒を揺らして香りを嗅いでは旨そうに啜っている。
煌びやかな雰囲気を纏った、金持ちそうな臭いのする男。
絶対的に青天目の上位に座する男。
青天目は海外映画の一場面のようだと、自分の境遇の馬鹿馬鹿しさに笑いが迸ってしまっていた。
まるで、吸血鬼になってしまった主人公がその境遇から逃げ惑った挙句に、逃げ込んだ先で待ち受ける吸血鬼の王に謁見させられるという、よくある展開だ。
「ほら、飲みなさい。君のような者の怪我を治す特別な薬なんだよ。」
「は。やはり地獄だ。ここは現実と似た地獄だ。こんな現実味の無い人間に死んだ俺が不気味なものを勧められている。」
目の前の白い男は口元に左手の拳を当ててクククと、それは愉快そうに気さくに笑い、青天目の神経を逆撫でた。