伝説の男
青天目は目の前の茶番から逃げ出すために、両足に力を込めた。
この死体の体になって以来、青天目の体は意識をむけなければ動かないようになってしまったのである。
幼い時から武術を習い、喧嘩に明け暮れた高校時代もあった彼は、いまはもう粘土人形でしかない。
「飲もうよ。君の昔の同僚に仕返ししたいでしょう。正しくは同じ警備部だった奴ってね。公安も警備部の人間なんでしょう。」
「今、なんて?俺の家族を殺した奴らが公安の人間だって。」
「それはちがーう。あれはただの連鎖的反応だね。奴らの大事な大将が君の引き起こした事故で大怪我でしょう。彼の回復のために君の家族が選ばれただけってだけ。あの事故さえなければ君の不幸は無かったんだ。可哀相に、たった一つの爆竹で全てが弾けた。」
「息子へのプレゼントが弾けたのは、あいつではなく公安の仕業?」
「ちがーう。死体って頭の回転が悪くて嫌になるよ。もう、さっさと飲んで。話が進まないじゃない。」
「飲めるか!」
思わず大声をあげて立ち上がったが、そこは彼がいたはずの飲み屋ではなく、煌びやかな宝物倉のような書斎であった。
優美に背面がカーブした書斎机は大きく、大きいがために無駄な書類や小物、そして黒い革表紙の本にアンティークな置時計が無造作に置かれている。
青天目達はその机の前に置かれた応接セットのソファに白い男を対面にしていつの間にか座っていたのだ。
「なんだ?ここは……。」
「僕の書斎。」
本棚は書類束や机の上にあったような本で全てぎっしりと埋まり、本棚の上にも様々なアンティークな小物、半分子供の玩具にも見える様々な品が所狭しと鎮座していた。
青天目の前方となる壁に設置されたサイドボードには、なぜか最新式のコーヒーメーカーが乗り、サイドボードの中には高級そうな酒瓶がいくつも並んでいる。
ウィスキーの酒瓶の一本にだけ、なぜか「試供品」と手書きされていたのが舞台装置として台無しでもあるが、そこに気が付いたところで悪夢が変わるわけは無いだろうと彼は目を逸らした。再び部屋に視線をさまよわせると、部屋の四方が赤い下地に金の楔模様のある壁紙で装飾されており、青天目の向かいの壁と右手奥には合わせて三枚の絵画が飾られているという事に気が付いた。
奥壁の一枚などは、赤ん坊用の布団サイズほどの大きさのあるものだが、絵自体は子供が書いたような稚拙に見えるものだった。
その絵の上にカーテンレールと赤いカーテンが絵の脇に縛られてあることから、この絵は壁紙と同じ色合いの赤いビロードのカーテンで隠すことが出来るようだ。
カーテンが開けられている今は青天目にはその絵がよく見通せ、そして絵心のない彼でも、その絵がとても下手だがなぜだか心を惹かれるエネルギーのある絵だと感じた。
残念ながら絵の右端に油絵の具にめり込んだらしき指の跡が三つもあったが。
その絵のモチーフは、青い背景に星と月が散って輝き、絵の中心には真っ白な脚の短い馬と裸の白い女が並んで駆けている、というものだ。
白い短足の馬は馬というよりもロバで、一樹が大好きだったロバの玩具を思い出させた。
「ここは、どうして。どうして、俺はここに。」
ゆったりとソファに座り直した白い男は、両手の指を胸元で組んで嬉しそうに青天目を見上げている。
「君を匿おうと思ってね。君の敵は百戦錬磨の男だからさ、ハンディのある君には助力が必要でしょう。鈍い死体のままじゃ動けないから勝ち目が無いかなってね、親切。」
青天目はゆっくりと、これは体だけのせいではなく心までも硬質化してしまったための動きであり、彼は呆然と白い男を見下ろしたのだ。
「誰だか知っているのか?」
白い男は再びククっと嬉しそうに笑い声を立てると、笑顔のまま青天目を見つめ返したのである。
まるで警察学校で出来の悪い生徒に向けた教官の視線にも似ている目で。
「神奈川県警の交通部では、五百旗頭君が英雄で伝説だよね。それじゃあ、警備部では誰が伝説なのかな。いや、死神と呼ぶべきか。」
青天目はすとんと椅子に座り直した。
座った感触は店の椅子と違って硬質で、座り心地がとても悪い物である。
まるで彼の気分のように。
「髙さんがどうして俺を?」
「君がターゲットに勧められて血を飲んだからだよ。例えそれが本物のすっぽんの血でも、勧められたからって飲んじゃ駄目だよ。爬虫類にはどんな寄生虫がいるかわからないのだからね。まぁ、今更言っても遅いけど。その時点で君は人外と彼に判じられたの。最近の公安ってね、動く死体の処理が主な仕事でねぇ。よってお馬鹿な考え無しの君は、ターゲットと一緒に有無を言わさずに、ドカン。でも残念な事に君は運転が上手かった。よくやったよ。驚いたでしょう。次々と迫りくる障害物の山にはね。」
そこで青天目は事故の寸前を思い出したのである。
助手席に置かれていた箱はいつもの彼の贈り物だと勝手に思っていた。
それが突然爆発し、運転中の彼は注意が逸れた。
運転を立て直す彼の前には車止めが点滅しており、ハンドルを切った先の彼の目の前には大型のトラックが彼を目掛けて接近していたのだ。
あぁ、死んだ。
俺がハンドルをもう一度切り返さなければ、俺達二人は確実に死んでいた。
「俺は髙さんに処分されるはずだった?」
「生還おめでとう。」
青天目は目の前の腐った水を一気に飲み干した。
目の前の嘘臭い白い男の言い分を全て信じたわけではないが、死ねない彼には動くための目標と、失った家族への贖罪行為が必要だったのである。




