07. 女神の鉄槌と禁断の書物
「と、とにかくだ!お前には見どころがある!」
黒川は小さく咳払いをして、居住まいを正した。
酔いと照れを腹の底に押しやり、技術者としての譲れない信念をその瞳に宿す。
「俺が直々に面倒見てやる。『X-CORE』は、俺たちが血反吐を吐いて守ってきた、うちの会社の心臓だ。明日から徹底的に、その『魂』を叩き込んで……」
「その『X-CORE』ですが――――」
結衣は黒川の熱弁を遮ると、手つかずのオレンジジュースのストローを指先でピンと弾いた。
そしてニッコリと微笑む。
それは慈愛に満ちた、そして絶対零度の微笑みだった。
「『再構築』しましょう。――あなたの、その凝り固まった価値観ごと、徹底的に」
「……再構築?」
「ええ。あなたが誇る『X-CORE』は、もはや泥船ですから。沈む前に乗り換えるのが、最適解です」
―――― ピシリ。
場の空気が、音を立てて凍りついた。
黒川の奥歯がギリッと音を立て、握りしめた拳が怒りで震える。彼は血走った目で結衣を睨み、低い声でうなった。
「……ッ! てめぇ……。言うに事欠いて……『泥船』だと!?」
佐藤と田中が、真っ青になって息を飲む。
「その『X-CORE』が! 今までどれだけ会社を支えてきたと思ってんだ! 俺たちの血と汗を……バカにする気か!」
黒川が、噛みつくように叫ぶ。だが、結衣は冷たく瞳を光らせ、宣告した。
「それも今や技術的負債の塊です。解体してモダンなアーキテクチャに載せ替えましょう」
「………新人が……! 生意気いってんじゃねぇよ!! 少し優しくしてやりゃ調子に乗りやがって! 」
「『優しさ』……。『自己満足』と言い換えた方が適切かと」
「うるっせえ!! 屁理屈ばっかりこねやがって! 口先でなら誰だって言えんだよ! やれるもんならやってみろ、やれるもんならな!!」
黒川の怒声に店中の視線が集中する。だが、彼の怒りは収まるどころか、さらに燃え上がった。
「酒が不味くなる! 今日はもうお開きだ! 付き合ってられるか!」
バンッ!と、黒川が万札をテーブルに叩きつけ、荒々しく立ち上がった。
その瞬間、急激な血圧上昇とアルコールが脳を揺らしたのか、黒川の視界がぐらりと傾く。
「あー、クソッ……!」
よろけた黒川の頭を、ふいに柔らかく温かな感触が優しく包み込んだ。
黒川が顔を上げると、そこには底知れない光を宿した結衣の瞳があった。
「あなたは本当に……不調和の塊のような方ですね」
黒川の頭を両手でゆったりと包み込みながら、結衣が歌うように囁く。
「――デバッグして、差し上げましょう」
その声は、美しい旋律となって空気を震わせ――――。
――キィン、と耳鳴りのような高周波が響き、黒川の世界が反転した。
脳内に直接、色彩の暴力と、整然とした幾何学模様が雪崩れ込んでくる。まるで頭蓋骨を開けられ、直接冷水を注ぎ込まれたような感覚。
思考回路が強制的に掌握され、シナプスの一つ一つが強引に「最適化」されていく。
(な、なんだ!? なんだこれは!? 頭が、熱い……いや、冷たい……ッ!?)
酩酊感という名の「ノイズ」が、物理的に、無慈悲に、消去されていく。それは人間が味わってはいけない、絶対的な「管理」への恐怖だった。
「――――う、うわぁああああ!!!!」
黒川の絶叫が店内に響き渡った。 佐藤たちが慌てて駆け寄る。
「黒川さん!? 大丈夫ですか!?」
黒川は、呆然と自分の震える手のひらを見つめた。視界が恐ろしいほどクリアだ。思考も、まるで氷水に浸したように冴え渡っている。
「はぁ、はぁ……! 夢……か……? いや……」
彼は血の気の引いた顔で、目の前の結衣を見上げた。
「酔いが……消去された……?」
喉を鳴らし、硬直する黒川に、彼女は涼しい顔で告げた。
「脳内物質のバランスを調律しました。アルコールの過剰摂取によるエラーが出ていましたから」
「……っ」
「……もっと、デバッグが必要ですか? その頑固な魂ごと書き換えて差し上げましょう」
結衣が、聖母のような微笑を浮かべ、再び黒川の頭に手を伸ばした。黒川の顔が凍り付く。
「というのは、冗談―― 」
「や、やめろおおおおおおおーーーー!!!!」
黒川は悲鳴を上げ、脱兎のごとく店から逃げ出した。 その背中は、歴戦のエンジニアの威厳など見る影もなく、ただただ恐怖に怯えていた。
開けっ放しの入り口から、夜風が吹き込む。
嵐が去ったような静寂の中、佐藤が、目を丸くして呟いた。
「……ええっと……。芽上さん、何かしたんですか……?」
「……適度な論理破綻による関係構築の試みだったのですが」
「じょ、ジョーク……?」
「計算を誤ったようです。やはり人間は、難しいですね………んん……、ヒック」
結衣の身体がグラリと傾く。慌てて支えようと身を乗り出し、佐藤は見てしまった。
テーブルの端に置かれた注文用タブレット――その履歴画面を埋め尽くす、延々とスクロールできるほどの『生中……済』の文字を。
「め、芽上さん!! あんた、どんだけ飲んだんですかーーーーーーっっ!!!」
◇
解散後。結衣は一人、夜の横浜を歩いていた。潮風が頬を撫でるたび、足取りがふらりと揺らぐ。
(平衡感覚のノイズ。これが『酔い』……。興味深い感覚です)
結衣は立ち止まり、夜の街を見渡した。大気が、街の灯が、宇宙で見るよりも月の輪郭をあやふやに、けれど美しく滲ませている。
この世界は、複雑で、曖昧で、矛盾に満ちている。
ここに住まう人間たちのように。
手すりに寄りかかって、数時間前の出来事を思い返す。
過干渉、非生産的な会話、カロリー過剰。客観的に見れば、それは明らかな「リソースの浪費」であり、不調和そのものだ。
(……なのに)
結衣は、自分の胸に手を当てた。そこにあるのは、論理では説明のつかない、温かな振動だった。
胸の奥に残っているのは、清々しい余韻と、ほんの少しの罪悪感。
相反する感情が刻む、心地よいリズム。それは整然としたコードに紛れ込ませた、遊び心のよう。
(……これではまるで、私自身も、あの人間たちと同じ『バグ』を抱えているようではありませんか)
本来なら即座に修正すべきエラーだ。だが、結衣はその「バグ」を消去しようとはしなかった。
(……あえて、『芽上結衣』としての、主観的な表現を使うのであれば)
結衣の口元が、自然とほころぶ。
それは、作り笑いではない。制御し得ない感情の表出だ。
(――楽しかった。この世界は、非常に解析のしがいがありますね)
結衣の瞳が、月明かりを映してキラリと悪戯っぽく輝いた。
女神の「人間観察」は、彼女自身の想像を超えて、着実に、そして「楽しく」進んでいた。
◇
翌朝。開発二課の空気は、死んでいた。
特に黒川の周辺は、お通夜を通り越して真空の宇宙のような静寂だ。彼はモニターに顔を埋め、昨夜の失態と「未知の恐怖」から逃れるように小さくなっている。
そこへ、カツカツと硬質なヒールの音を響かせて、結衣が出社してきた。 彼女は一直線に黒川のデスクへと向かう。その手には、鈍器のような重みを持った書類の束。
佐藤たちが固唾を飲んで見守る中、結衣は「獲物」の前に立った。
「おはようございます、黒川さん」
「ひ、ひっ……!?」
椅子ごと飛び上がった黒川に、結衣は昨日と変わらぬ、しかしどこか晴れやかな無表情で告げた。
「昨夜の非礼をお詫びします。論理飛躍が情報伝達不備を招きました」
結衣は丁寧な角度でペコリと頭を下げた。 そして――ドサァッ! と、机が悲鳴を上げるような音を立てて、書類の束を置いた。
「つきましては、私なりの『誠意』として……昨夜お話しした、対象システムの抜本的刷新に向けた計画案をまとめさせていただきました」
黒川の瞳が、その表紙に吸い寄せられる。
『基幹システム(X-CORE)刷新計画(案) ~マイクロサービス導入によるDX推進~ Ver.1.0(全332頁)』
「お、お詫び……? これが……!?」
(俺の聖域を更地にする計画書じゃねぇか!)
(ていうか一晩でこの量…!? 人間業じゃねぇ!!)
「この計画を実行すれば、あなたの市場価値も大幅に向上するはずです。ぜひご一読ください」
結衣は、事前に計算した「最大級の爽やかな笑顔」を残し、自席へと戻る。黒川は、物理的にも精神的にも重すぎる「神の慈悲」を前に、ただ圧倒されていた。
「……クソ! 見りゃいいんだろ、見りゃあ!」
やがて、死んだ目に現場の意地を宿して、『禁断の書物』のページをめくり始めた。
その時、重いドアが開き、場違いに甘やかな香りが漂ってきた。
「失礼しまぁす♡ 佐々木課長、いらっしゃいますかぁ?」
現れたのは、クラウド推進部のアイドル、森田愛莉だ。ふわりと空気をはらんだ、流行りのエアリーボブ。春の陽光のような眩しい笑顔。
過酷な現場に舞い降りた「天使」。その眩しさに、エンジニアたちの濁った目が一瞬で輝きを取り戻す。
愛莉は、血走った目で資料を睨む黒川と、淡々と打鍵する結衣を眺め、楽しそうに目を細めた。
「わぁ! なんだか、とっても賑やかですね♡」
愛嬌たっぷりの笑顔。だが、タイピングの手を止めた結衣の瞳は、明確な『矛盾』を捉えていた。
(発声時の口角の上昇に対し、眼輪筋の収縮率が0.2%不足。音声周波数にも意図的な偽装の痕跡が――)
結衣の脳内で、冷酷な評価関数が解を弾き出す。
(――明らかな「計算」。間違いありません)
(『分類パターン#5A90:後天的社会適応個体/弱体偽装型』。他個体の庇護欲を刺激し、リソースを搾取する自己利益最優先の生存戦略。人間界における呼称は『あざと女子』……)
(現物は初見ですが……実に、興味深いです)
結衣は無表情のまま、開発二課に侵入した新たな「観察対象」をロックオンした。




