34. とびきりの魔法(後)
表舞台の熱狂とは分厚い壁で隔てられた、薄暗い制御室。
立ち並ぶラックの間を駆け回り、AGVを緊急停止させ続けた黒川は、冷たい床に大の字になって倒れ込んでいた。
「ハァ……、ハァ……。……あー、クソ。寿命が十年は縮んだわ……」
顔には脂汗と油汚れが浮かび、呼吸は荒い。極限の緊張と肉体労働から解放され、指先一つ動かす気力も残っていなかった。
そんな彼の視界に、スッと白いブラウスが入り込む。
「――お疲れ様でした、黒川さん」
見上げると、結衣が静かに見下ろしていた。
彼女は言葉と共に、床に倒れ伏す黒川へ向けて、白く細い手を差し伸べた。
「……おう、サンキュ」
黒川は少し照れくさそうに視線を逸らしながらも、その手をとった。
自分とは真逆の、華奢でひんやりした感触。 引かれるままに上体を起こし、そのまま立ち上がろうと腰を浮かせかけたが――繋がれた手にそれを阻まれた。
結衣は手を離さなかった。それどころか、そのまま隣に座り込み、黒川の腕をグッと下へ引く。外そうにもガッチリとホールドされ、振り払えない。
視線を向けると、彼女の澄んだ瞳が、すぐ目の前で自分を見上げている。その距離感に、黒川の心臓がドクンと大きく跳ねた。
「…………な、なんだよ……!?」
「心拍数138。交感神経も過敏になっています。座ってください。休息が必要です」
「……っ」
淡々とした、だが有無を言わさぬ結衣の視線に、反論を飲み込み大人しく床に座り直す。
結衣はそれを見届けると、ようやく指を離した。 そして、どこか不満げな――少し拗ねたような瞳で、黒川をジッと見つめる。
「……理解できません。あれほど無謀な行動を起こした森田さんを、そこまでして守りたかったのですか?」
「守る? どこがだよ、あいつにいいように使われただけだろーが。あーくそ、思い出すだけで腹が立つ……」
ため息をつく黒川に、結衣は納得がいかない様子で数値を突きつけた。
「……ですが、血中ドーパミン濃度は48pg/mLに達しています」
「あ? なんの話だよ?」
「たった今取得した、あなたの生体データの話です。つまり……あんな目に遭わされてもなお、彼女を守れたことで、あなた自身がとても『満たされた』ということです」
「はぁ!? 違ぇよバカ、それは――」
真正面から結衣と目が合い、黒川は出掛かった言葉をすんでの所で飲み込んだ。
「それは?」
「……それは、そういうんじゃねぇ。……俺はただ、現場が……」
歯切れ悪く言葉を濁す。真意を探るように真直ぐに見つめてくる結衣の瞳に耐え切れず、彼は誤魔化すように顔を背けてしまった。
結衣はわずかに赤く染まった彼の横顔を、静かに見つめた。
(『感情』の揺らぎが誘発するノイズ……)
ふいに胸の奥で、チクリとした痛みが走る。
これもまた、ノイズのひとつだ。その振幅を計測しながら、結衣はポツリと呟いた。
「……やはり、人間の『バグ』は不可解です」
◇
数日後。 事態が収束し、日常の喧騒を取り戻したプロジェクトルーム。
――ドサッ。
無遠慮な音と共に、分厚いファイルや資料の山が黒川のデスクに置かれた。見上げると、愛莉がとびきり可憐な笑顔を浮かべている。
「黒川さん、それに芽上さん♡ このファイル、資料室に返却お願いしてもいいですかぁ?」
「……お前な。デモが終わった途端にこれかよ。完全に雑用じゃねぇか」
黒川がため息をつく。
「いいか、今までの件はもうチャラだ。これからは自分で……」
「ええ~、でもぉ……」
愛莉がスッと身をかがめ、黒川の耳元に顔を寄せる。ふわりと甘い香りがした。
「――芽上さんと二人きりですよ? 嬉しいクセに♡」
小声で悪戯っぽく囁かれたその言葉に、黒川の顔がカッと耳まで真っ赤になる。
「っっ!!? も……森田!! てめぇ!! 勝手なこと言ってんじゃ――」
「うふふ、黒川さんったら。照れなくていいのにぃ♡ 」
怒鳴る黒川を蠱惑的な笑みで受け流し、愛莉が身を離す。 その瞬間、少し離れた席に座る結衣と静かに視線が交差した。
―― クスッ。
愛莉は挑発的な微笑みを一瞬だけ浮かべると、パッと身を翻した。
「それじゃぁ、お願いしまーす♡」
ヒラヒラと手を振り、軽やかな足取りで去っていく愛莉。
残された黒川がハッとして振り返ると、結衣が無言で、じっと彼の顔を見つめていた。
「な、なんだよ……!? 」
「……黒川さんの『恋バグ』は深刻ですね」
「!!!」
無感情に放たれた言葉に、黒川は心臓を撃ち抜かれたように仰け反った。
「ちっ、ちげぇ!! あいつが面白がって勝手なこと言ってるだけで……! そういうんじゃねぇからなっ!!」
慌てて否定し、顔を背ける黒川。誤魔化すように乱暴にファイルを掻き集めて立ち上がる。
「バカなこと言ってないで、とっとと終わらせるぞ!」
ふいに、フロアの向こうから声が聞こえた。
若手エンジニアたちに囲まれ、デモの成功を称えられて楽しそうに笑い合う愛莉の姿。
「いやー、アテナってマジで『夢』ありますよね! 見てるだけでワクワクしますもん!」
「ふふっ、見てるだけじゃダメですよ? 一緒に叶えましょうね♡」
黒川は手を止め、どこか眩しそうに、その光景を見つめた。
(―――夢、か……)
それは、かつて彼自身も確かに持っていた熱。とうの昔に、失ってしまったはずのもの。
「……黒川さん?」
結衣が声をかけると、黒川はファイルを抱え直し、背を向けて歩き出した。
「―――行くぞ、芽上。資料室はこの上だ」
いつもの乱暴な足取り。けれど、どこか上の空な背中に、結衣は何も言えなかった。 結衣は、黒川の後ろを歩きながら、その背中を、ただ静かに見つめ続けていた――。




