14. 理想の箱舟
翌週、刷新プロジェクトのキックオフミーティングが開かれた。
大会議室に並ぶのは、開発二課の面々と、高橋率いるクラウド推進部の面々。そして、期待に胸を膨らませた上層部の役員たちだ。
ホワイトボードの前に立つのは、計画の発案者である結衣だ。 彼女は淡々と、しかし淀みなく語り始めた。
「現在の『X-CORE』は、構造的欠陥を抱えた技術的負債の集合体です。これを修正するには、部分的な改修では不十分。よって……」
結衣がスクリーンに映し出したのは、神の構想――一切の妥協を排した理想的なアーキテクチャ図だった。
「全コードを破棄し、ゼロからクラウドネイティブ環境で再構築します」
その要求水準の異常な高さに、会場の末席――現場の技術者たちが絶句する。だが、その沈黙をかき消すように、役員席から感嘆の声が上がった。
「素晴らしい……! これぞ我が社が求めていた破壊的イノベーションだ!」
「クラウド推進部の高橋くん、君の意見はどうだね?」
水を向けられ、高橋は得意げに頷いた。
「芽上さんの提案は、我が部の戦略とも完全にアジャストします。これこそがグローバルスタンダードであり、パラダイムシフトです。できないと言うのは、現場のマインドセットが低い証拠でしょう」
「すごぉい……! わたし、感動しちゃいましたぁ!」
愛莉が、計算し尽くされたタイミングで高い拍手を響かせた。
彼女は役員たちに極上の笑顔を振りまき、場の空気を一瞬で支配する。
「これこそ次世代のシステムですね! 役員の方々が仰る通り、こんな夢のある計画、芽上さんにしか書けません!まさに天才です♡」
惜しみない――過剰な称賛の数々。結衣に責任を押し付け、後戻りできないよう外堀を埋めていく。
「完璧で、理想的な計画です! ……ねっ、黒川さん? もちろん異論なんてありませんよね?」
彼女はトドメとばかりに、末席で黙り込む黒川へ視線を投げた。
(さあ、乗っかりなさい。この無謀な計画を承認させて、破綻したら全部あの女のせいにするのよ……!)
黒川は腕を組んだまま、短くため息をついた。ここで反論しても無駄だ。愛莉はもう、外堀を埋めきっている。 それに―― 火傷してみなければ分からないこともある。
「まぁ、そうだな。俺みたいな『レガシーエンジニア』には、よくわからねぇが……いいんじゃねぇのか」
黒川は、スクリーン横に立つ結衣へと視線をやった。
彼女は、周囲の熱狂など目に入らないかのように、ただ静かに佇んでいる。
「――お手並み拝見といかせてもらおうか」
黒川の言葉に、愛莉は満足げに微笑んだ。
(勝った。黒川は私の味方。これでこの無謀なプロジェクトは、盛大に自爆する……!)
こうして、結衣を矢面に立たせた刷新プロジェクトが、正式にスタートした。
◇
だが、そのプロジェクトは予想通り――いや、予想以上の大荒れだった。
連日、フロアには悲鳴に近い声が響く。それは開発二課だけではない。「精鋭」と目されていたクラウド推進部の若手たちからも、余裕が消え失せていた。
「だ、ダメだ……! 芽上さんの設計思想が高尚すぎて、現場がついていけない!」
「Kubernetesのマニフェストが複雑怪奇すぎて依存関係が理解できない……! 定義した端から矛盾が起きて、デプロイできないぞ!」
結衣の提示する計画は、完璧だった。――神の啓示のように、正しく美しい、理想像。
だが、それを実装するために要求されるスキルセットは、現役のトップエンジニアですら習得に数年を要するレベルのものだった。
高橋が「グローバルスタンダード」と誉めそやした技術スタックは、皮肉にも彼自身の部下たちの首を真っ先に絞め上げた。
「……高橋さん、やっぱり無理ですよ。テスト環境すらまともに……」
「黙れ。できないのは君たちのマインドセットが古いからだ。芽上さんの仕様を読み込めば済む話だろう」
「で、ですが……その仕様が……」
「くどい! 言われた通りに手を動かすのが君たちの仕事だ!」
高橋は、限界を迎えた部下の報告を冷淡に切り捨て、逃げるように視線を逸らした。彼自身もまた、あの難解な仕様を一行たりとも理解できていなかった。
愛莉もまた、疲弊したフロアに甘い香りと中身のない「励まし」を投下していく。
「みんな頑張りましょう♡ あの芽上さんが『できる』って言っているんです! できないはずがないです!」
(そして死にかけた所に、私が『現実的な新プラン』を出す。まさに『救いの天使』ね。あはっ、最高♡)
理想という名の暴力。 現場の技術者たちは、二課もクラウド部も関係なく、結衣という「神」が振り下ろす正論に、等しく叩き潰されようとしていた。
黒川は、自席から冷めた目でフロアを見渡した。
右を見れば、プライドをへし折られて頭を抱えるクラウド推進部。左を見れば、未知の概念に白目をむく自部署のメンバー。
(……ほらみろ。どれだけ高尚な思想を描こうが、現場のスキルが追いついてなきゃ、絵に描いた餅だ)
プロジェクトは、キックオフから数日にして、全方位で炎上寸前だった。
◇
深夜二時。限界を迎えた部下たちを帰らせ、黒川は一人、黙々とキーを叩いていた。
作業は新プロジェクトではない。他部署が引き起こした既存データベースの緊急トラブル――つまりは、いつもの尻拭いだ。
「……クソが。インデックスも貼らずに全件検索かけてんじゃねぇよ」
悪態をつきながらも、手は止めない。夜明けまでに復旧させなければ、朝一番でサービスが死ぬ。地味で、誰からも評価されなくても、絶対に誰かがやらなければならない仕事だった。
ふと気配を感じて顔を上げると、少し離れた席に結衣が座っていた。
彼女は、モニターを睨みつけたまま固まっていた。
「おい。まだいたのか」
「……黒川さん」
結衣がゆっくりと顔を上げる。いつもの理知的な光はなく、ひどく疲労した表情だった。
「もう二時だ。帰れ。タクシー呼べ」
「……帰れません。明日の朝イチの進捗会議で、全員を納得させる『解』を出さなければ。私の計画が絵空事だと認めることになります」
「……絵空事だろ」
黒川は缶コーヒーを煽り、ため息交じりに言った。
「現場の反応、見ただろ。お前の『理想』は、うちの会社じゃ実現しねぇよ」
結衣は無言で唇を噛み締めた。 彼女の力をもってすれば、瞬時に『理想のシステム』を構築することはできる。だが、それでは意味がない。『現場の事情』を産むのも吸収するのも、人間だからだ。
(……システムがダメなら『現場』を――会社の仕組みを書き換える? ですが、それは……)
『救済』という名の『支配』に他ならない。
解決策のない問いに、彼女の思考がショートしかけた――その時。
「……降りるなら早い方がいい」
黒川の静かな声が響いた。
彼は、視線を外し、モニターに映る自分の疲れた顔を見つめながら言った。
「明日、課長に頭を下げろ。……俺も、付き合ってやる」
「え……?」
「『世間知らずな新人』のしたことだ。今なら、大した傷はつかねぇよ」
――お前には。
続く言葉は、口に出さずに呑み込んだ。
決して、自己犠牲ではない。わかっていて突き放した以上、責任を取るのは当然のことだ。
それは黒川なりの優しさであり、けじめなのだろう。
結衣は黒川の横顔をじっと見つめ、やがてふっと頬を緩めた。
またそうやって、自分ばかりが傷を引き受けようとする。その不器用な生き方が、今の彼女にはたまらなく愛おしく、可笑しかった。
「いいえ。降参はしません」
彼女は一度だけ瞬きをすると、その瞳に、再び強い理知の光を宿した。
「解決策は必ずあります。私の『理想』を、この現場の『現実』に正しく接続することさえできれば」
「……なに意地になってんだよ。こんな『泥船』、放っておけばいいだろ」
黒川の言葉が鋭くなる。あの飲み会の夜、彼女が発した言葉は、今も棘のように突き刺さっている。
「沈むとわかってる船だ、わざわざ乗り込む必要はねぇだろ。……さっさと降りろ。それが、『最適解』だ」
あえて彼女の言葉を使って言う。 だが、結衣は静かに首を横に振った。
「……確かに、私はこのシステムを『泥船』と定義しました。技術的負債の塊で、構造は破綻し、合理的ではない。その評価は、今も変わりません」
「だったら……」
「―― 降りません。あなたが、いますから」
予想外の答えに、黒川が息を呑む。
結衣は真っ直ぐに彼を見つめ返し、宣言した。
「私は、大きな計算違いをしていました。この泥船には、まだ大勢のユーザーが乗っています。そして、沈みかけた船底には、たった一人で泥水をかき出し続けている『漕ぎ手』がいます」
「…………」
「口では悪態をつきながら、泥まみれになってこの船を支え続けている。……そうでしょう?」
結衣は黒川の目を見て、淡く微笑んだ。
「私は、その『魂』を、無価値だとして切り捨てることができません。だから、その泥船ごと、そっくり救い上げる豪華客船を作りあげてみせる」
「それが――『女神』の役目ですから」
ドクン、と。
黒川の心臓が、大きく跳ねた。
(……なんだ、そりゃ)
ずっと見下されていると思っていた。だが、こいつは俺の意地をちゃんと見ていた。その上で、全部助けてみせると言っている。
黒川は顔を伏せ、乾いた笑いを漏らした。
「……んだよ。少しは…。わかってんじゃねーか」
その指先が、文字の擦り切れた古いキーボードを、慈しむように撫でる。誰にも称賛されず、泥をかき出し続けてきた戦いの証だ。
「いいんだよ、俺は。もうずっとこんなだからな」
呟く声から、いつもの棘が消えていた。彼はこみ上げる熱を誤魔化すように、くるりと椅子を回転させ、窓の外へ向き直る。
窓の外は漆黒の闇だ。だが、鏡のようなガラスの表面には、青白いモニターの光に照らされた結衣の横顔が映り込んでいた。
静かな部屋に、結衣のタイピング音だけがカチャカチャと響く。
(――――――コイツは……本当に)
闇の中に浮かぶその光は、薄汚れた自分にはあまりにも眩しかった。




