13. ハリボテのDX
「それで、相談ってなんだ? 愛莉ちゃん」
普段は誰も寄り付かない非常階段の踊り場。黒川が尋ねると、窓を背にして立っていた愛莉が、か細い声で切り出した。
「……実は、プロジェクトのことで……。芽上さんの計画……。黒川さんは、うまくいくと……思いますか?」
「――聞くまでもねぇ。机上の空論だ」
「そう、ですよね……。私もそう思っていて……」
ギュッとスカートの裾を握りしめ、震える声で続ける。
「……でも、誰も聞いてくれないんです……。 部長も高橋さんも、芽上さんの言う通りにしろって……。上手くいかせるのが、連携責任者の仕事だって……そればかりで……」
「なっ……! 若手一人に責任押し付ける気か!?」
「いいんです、私ひとりが我慢すれば済むことなら……。でも、今日……」
愛莉は顔を上げると、ぽろりと大粒の涙を零した。
「……怖く、なっちゃって……芽上さんの考えは正論ですが、冷たすぎます……。困っている現場の人たちを……簡単に、切り捨てようとするなんて……っ」
「……ッ」
「私……どうしたらいいのか、わからない……このままじゃ……黒川さんが守ってきたものまで、全部ダメになっちゃう……っ!」
愛莉は泣き崩れ、黒川の胸にすがりついた。零れ落ちる涙が、彼のシャツを濡らす。
「お、おい愛莉ちゃん! 泣くなよ……!」
華奢な体。震える声。 彼女は自分の保身ではなく、現場を守ろうとして一人で震えている。そんな彼女を、誰も守らないというのなら。
「……わかった。もう泣き止め。俺がいる」
「黒川さん……っ」
「俺が何とかしてやる。愛莉ちゃんには、絶対に泥は被らせねぇよ」
その言葉に、愛莉は涙に濡れた顔を上げ、ホッと微笑んだ。
「……ありがとうございます、相談してよかった……♡」
黒川は照れくさそうに頭をかいた。
「とにかく、芽上と話をつけねぇとな。……つっても、どうするか。あの女、理想しか見えてねぇからな……」
「あの……私に、考えがあるんです」
愛莉の声色が、ふっと低く、甘くなった。
「――主導権を奪いましょう」
「主導権?」
「私たち2人でプロジェクトを完遂するんです。彼女とは違う……もっと『現実的な』やり方で」
「……現実的な……やり方?」
黒川が怪訝そうに眉をひそめる。そのシャツの胸元を、愛莉が指先でツー…となぞった。
「上層部は、現場のことが見えていません。 逆にいえば、現場に――『X-CORE』に手を付ける必要なんてない。そう思いませんか?」
ゆっくりと黒川の耳元に口を寄せ、計画をささやく。
「新しい画面を作りましょう。それらしい最新のデザインで。でも、中身は変えない。X-COREのデータをそのまま表示するだけです」
「……!」
黒川が息を呑む。それはDXとは名ばかりの偽装工作の提案だった。
「黒川さんは、今まで通りX-COREの面倒をみてくれるだけでいいんです。現場は変わらず、上層部はキレイな画面に満足する。ねっ?……協力して、くれますよね?」
技術者としての誇りを捨てる行為だ。だが、見上げる愛莉の甘い瞳が、黒川を捕らえて離さない。
(……どのみちこのままじゃ破綻する。見てくれだけ整えれば、誰も路頭に迷わない。だが――)
「そうすれば、私も、貴方も『DX化の英雄』です。……うふふ、簡単でしょ?」
「――英雄?」
黒川は乾いた笑い声を鳴らした。脳裏に、彼を否定した言葉がリフレインする。
『君のような“墓守”ではなく、未来を創れるエンジニアが必要なんだよ』
高橋の嘲笑う顔。そして――。
『そのシステムは“泥船”です。沈む前に乗り換えるのが、最適解です』
結衣の、冷たく澄み切った瞳。
(……違いねぇ)
――そうだ。俺はずっと、泥船の底で泥水をかき出すだけの墓守だ。 いまさら綺麗な「理想」なんて、似合うはずもない。
「…………へっ」
黒川の口元がゆっくりと歪む。 それは怒りでも諦めでもなく――ただの自嘲だった。
「面白いじゃねぇか」
黒川は、技術者としての良心とプライドに、重い蓋をした。
「いいぜ。乗ってやる。どうせ、俺がやるこたぁ変わらねぇ」
「黒川さん……っ!」
「X-COREの面倒は見る。……後は、好きにしろ」
「ありがとうございます……! 大好きです……♡」
感極まった様子で黒川の身体に抱き着く愛莉。その胸に顔を埋めた瞬間、彼女の唇が冷ややかに歪んだ。
黒川は夕日を見つめたまま、華奢な背中にゆっくりと腕を回した。 脳裏に焼き付いた「彼女」の、澄み切った瞳から逃げるように。
◇
深夜のオフィス。誰もいなくなったフロアで、結衣だけが青白いモニターの光を浴びていた。
画面に広がっているのは、彼女が組み上げた新システムのアーキテクチャ。一切の無駄を排した、完璧な設計図だ。
ふと、結衣はタイピングの手を止めた。
(………音が、聴こえない)
いつもなら鼓膜を震わせるほど響いていた、彼の荒々しい旋律。不器用な怒声や、激しい感情の起伏。 それが今は、嘘のように凪いでいる。
(……矛盾していますね。あれほど耳障りだったノイズが消えたのに……なぜだか、ひどく心細い)
今ならわかる。顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていたあの熱こそが、この不完全な世界を、現場の人々を守る優しさだったのだと。
怒り、毒づき、泥を被りながら、彼はギリギリのところでシステムを支えてきた。だが、そのやり方はいずれ限界を迎える。呑み込み続けたバグは肥大化し、遠からず彼自身を壊してしまうだろう。
(だからこそ、『理想の箱舟』が必要です。彼が……もう泥を被らなくてもいいように)
結衣は心細さを振り払うように、再びキーボードへ向かった。 エラーのない、遅延のない、完全に透過されたロジックを刻んでいく。
だが――。
ピタリ、と。その 指が空中で止まった。
モニターに並ぶのは、彼の泥臭いコードとは真逆の、美しすぎるロジック。
一切の不浄を許さない、崇高な神殿のような完璧な構造。
黒川の問いが、脳裏に突き刺さる。
『お前のシステムは、現場の事情に応えてくれんのか』
『俺らを守るのか、殺すのか。どっちだ』
(―― 答えが、見つからない)
結衣は、空中で固まった自分の指先を見つめた。
論理には「正解」しかない。「あえて間違える」「汚す」「曖昧に許容する」という概念がない。 不完全な人間を守るための「優しさ」を、どうコードに落とし込めばいいのか。その数式だけが、彼女の世界には存在しなかった。
(……こんなことは、初めてです)
完成しない「完璧な設計図」の前で、結衣は呆然と立ち尽くす。 静まり返った暗い部屋の中で、動きを止めたカーソルだけが、答えのない問いのように明滅していた。




