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蹂躙命運  作者: 琥月銀箭
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第一章 痛感忘却 〜冬に咲き誇る向日葵〜 03

◇◇◇


 夢を見ている。幼き、忘れ去られそうな夢だ。

 俺は寝る前に、あの子にもらったプレゼントを傍に置いて眠ると、決まって同じ夢を見る。

 それは遠き過去の夢。まだ、惨劇の起こる少し前の過去の具現だ。


 もう十年以上も前になる。

 まだ、円城家の養子になる前の、ずっと前の話である。

「行ってきますー!」

 まだ変性期も全く迎えていない、それに歳がまだ五も通り過ぎていない若かりし頃、俺はよく外に出て遊ぶようなやんちゃな子供であった。よく、どこかに出かけては、生傷を一つや二つ必ず作っては帰っていく。両親には「わざと作ってるんじゃないだろうな」と、疑われてしま程に、作ってしまうのだ。決して、俺はわざと作ったわけではない。遊び過ぎて、つい作っていることを忘れてしまうのだ。馬鹿馬鹿しいかもしれないけど、それほどやんちゃな子供であった。

 家は、由緒正しき家系の古惚けた家であった。木造の家は、地元の人からは慕われていた。当時の俺にとって、それが何故なのか、それに今となってもわからない。よく、老若男女問わずやって来るのだ。そして、皆は洋装なくせして、自分は和装だということにも、大きな違和を感じていた。

 家を飛び出し、石畳みの上を走り去っていく。様々な人が、若い視界に入り込んでくる。

 ドタドタ、と騒々しい下駄の音を立てながら、俺はある場所へと向かっていった。

 赤い(トンネル)を抜け、百段あると謳われている階段をおりて、国道と呼ばれている大きな道に出た。国道は毎日のことながら、人々で溢れ返っていた。その人々は、皆俺の家目指して、階段をあがっていく。俺とは逆行する形となる。

 人ごみを幼く小さい体を上手い具合に使って抜け出すと、すぐさま国道の脇の森の中へと姿を眩ませた。

 獣道が続いている。取り分け、俺の矮躯な体では通るのは容易かった。

 森の奥へ突き進んでいく。大人の誰もが入ってこれない程、ずっと奥地故に僻地に、俺のとっておきの場所があった。

 森の奥には、俺しか知らない滝があるのだ。幼い俺にとって、その滝の優美さがどれほどあっただろうか。色褪せてしまった記憶から、俺は思い出すことは出来ないが、それでも当時は胸がよく躍ったのはよく覚えている。

 滝を見ているだけで癒され、故に活気が漲ってくるのだ。毎日、その滝を見るのが当時の俺の唯一のお出かけであった。

 そして、この滝がよく見える場所に、俺は秘密基地を構えたのを覚えている。

 秘密基地といっても、ピクニック用のシートと、そこにガラクタを集めて作っただけの、即席秘密基地である。でも、当時の俺にとっては、偉大な秘密基地として、名前の通り誰にも公表せずに、今日までここで在籍一人の秘密基地の長を務めてきた。

 ここに秘密基地を構えたのは、滝の鑑賞と周辺の警備だった。今思えば、これといって事件など起きない界隈であった為、警備なんてものは必要なかった。

 ただ、今回ばかりは違った。秘密基地を作って以来、初めての侵入者がやって来たのだ。目的などいざ知らず、俺は侵入者をじっくりと観察した。茂みに隠れ、ゆっくりと迷う子羊のように歩み進める侵入者。見るに、俺とそれ程歳の違わない年頃の女の子であった。この辺では珍しく、和服姿だ。その姿でこの僻地に来るなど、普通はない。とても綺麗な絵柄の入った和服でここに来ようなどとは、愚かしいことだ。泥と土、そして森に塗れたこの一体に、四方のわからないままやって来るなんて、本当に馬鹿馬鹿しかった。

 辺りをきょろきょろと、ここはどこなのか、と必死に探りを入れている。これといって気に留めることもないのだが、どうしてか見捨てることが出来なかった。親の言いつけの由縁の表れである。

 今にも、迷子から泣き出してしまいそうな女の子に、茂みから出て近づいた。ガサガサと音を立てて現れたことに、女の子は吃驚仰天して、泣きべそをかき始めた。

 俺は「しまった!」と心を焦られ、頻りに「ごめん、ごめん。驚かすつもりはなかったんだよ」と、別に非がこれといってあるわけでもないのに、俺はどうにかして泣き止んでほしく、自ら汚点を背負っては、女の子に謝った。

 やがて、女の子は泣き止んだ。泣き止みは安堵の表れでもあり、俺にしがみ付いてきた。ぎゅっと、女の子ながらそれは予想にもしない程強い力で、俺の胴体を掴む。

 余程、この界隈が恐かったのだろう、とそっと察した。どこの子かと訊くと、俺の知る家の子であった。道理で和服なわけだ、と俺は合点のいく答えを受けた。

 この界隈に住む人間は、取り分け、皆どこか変わっていた。無論、俺の両親もどこか変わっていたのを覚えているが、ハッキリとは思い出せない。この子もまた、変わった親の許に生まれた子なのだ。

 今回は、侵入者改め女の子を、家に送り届けることで収拾得て、一日は終わってしまった。

 そして、次の日、いつものように出掛けにいくと、階段の麓で昨日と同じ和服姿で女の子が立って、誰かを待っていた。そして、俺が現れるなり、人懐っこい笑顔を振りまきながら近づいて来る。「昨日のお兄ちゃんだ!」と楽しそうに言う女の子。俺は「昨日の」と言うと、「うん!」と元気よく答えた。

 「今日はどこかお出かけ?」と訊いてくる女の子。俺は「そうだけど、どうして?」と逆に問い返した。すると、女の子はまたもや人懐っこい笑顔を向けながら「ついて行っていい?」と言った。そして、続けて言う。「昨日、お兄ちゃんがいたから、追っかけたんだけど……」と語句を弱めて言った。そうか、迷子の理由はそれだったのか、と俺は納得がいった。

 「昨日? どこに行ってたの?」と訊いてくる。俺は「秘密基地に行くんだ」と言った。「えっ!? 秘密基地!?」となんとも愉快に目を光らせる。俺は「一緒に行く?」と訊くと、「うん! 行く!」と楽しそうに言った。

 秘密基地にこの子を連れていくのに、なんの躊躇もしなかった。躊躇しなかったのは、この子が初めてのお友達だったからだ。ここ数年、外に出たことがなかったから、外界との交流は皆無に等しかった。ここ最近だ、やっと外に出られるようになったのは。母親曰く「仕事が一段落したからね」と安堵した様子で言っていた。

 二人で手を繋いで、獣道を通っては秘密基地へと到着する。

 秘密基地に到着するなり、女の子は滝に一目惚れした様子で「うわー、凄い」と感動に耽った感想を俺に言った。俺はシートの上に腰掛けて、女の子越しに滝を見る。

 滝はいつ見ても優雅だ。ザーザーと流れるただの騒音でしかないのに、その騒音が心の底に響いてくる。心地よい子守唄のように、なんの咎もなしに体へと入っていくのだ。その音を訊いているだけで、瞼が重くなっていくのは、至極当然のことであった。つまるところ、昼寝の定番としてここは使われていた。

「タキ? これ、そういうのお名前なの?」

 女の子は、滝を見るのは初めてだと言う。その純粋な心に、滝という言葉が入り、一層女の子は滝に惚れていく。女の子を見ていると、昔の俺を見ているようで、ちょっと懐かしい姿であった。俺も、ここに初めて来た時は、滝に圧倒されたものだ。

 シートに二人腰掛ける。女の子はだんだんと瞼を閉じていく。俺の肩に頭を預け、少しずつ深い眠りへと落ちていった。案の定である。この場に来て、昼寝しないことはなかった。女の子はつい眠ってしまうのは、別段不思議なことではなかった。

 そして、俺もまた、眠りに落ちていくのであった。


 あれからというものの、俺と女の子の距離は狭まっていくばかりで、よくあの秘密基地で二人遊びに来るようになっていた。二人で持ち寄った玩具で遊んだり、滝を見て二人で昼寝をしたりと、その日によって過ごし方は変化した。

 ある日のことだ。今日は俺の誕生日だった。両親からの祝いは当然。驚いたことに、女の子からも、誕生日プレゼントをもらったのだ。熊のぬいぐるみであった。毛がモフモフとして抱いているだけで気持ちのいいぬいぐるみである。

「いいの? これもらって」

 少しもらうのは憚れる気持ちがあった。これは、女の子の宝物の一つでもあったからだ。そんな大切な物、そう簡単にもらうものではない。

 女の子は、いつも道理無邪気な笑顔を向けながら「あげる。だから、大切にしてね」と、改めてプレゼントを渡した。

 もらったからには、大事にするのが道理である。そして、礼を言うのも。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 誕生日プレゼントをもらい、女の子との距離は一層深まっていくばかりだ。いつの日か、プレゼントのお返しをしよう。そう思った矢先、ある日を境に、一瞬にして俺と女の子の距離は離れてしまった。もう取り返しのつかない程に、どうしようもない程に。今でも、後悔している。そして捨ててはいない。絶対に、お返しをするんだ、と幼い頃に抱いたあの夢は、未だに捨て切っていなかった。


◇◇◇


 頬に温もりを感じる。そして、自分が横たわっていることに気付いた。瞼をゆっくりと開ける。

 寝惚けた視界はやがて回復していく。

「あっ、兄さん。おはようございます」

 琥凛の顔が、視界一杯に広がる。

「あれ……? 俺は……?」

 変だ。事務所にいた頃からの記憶が一部欠損し、ここに、俺の部屋にいる。別に帰宅路で酔っぱらってきたわけではない。記憶なんてすっ飛んではいない筈なのだが、現状として覚えていなかった。

「兄さん、大丈夫?」

「珀、お前、大丈夫なのか」

 続けざまに須雀と、父親の志戒が俺の視界の中に割り込んできた。二人とも、それぞれの心配顔を広げては、各々の言葉を口にする。

 一家揃って俺の部屋に集っているなんという奇妙な光景であろうか。正直、一家の大集合が、俺の部屋となると、暑苦しい気分でもある。

 上半身を起こして、体を醒覚させていく。と、その時だ。背中と右目の痛みに襲われて、押し倒されるかの如く、あっという間に布団に臥してしまった。

 背中は、背骨の至るところが軋んで痛みを発している。どうやら、酷く打ち付けたようだ。重心が背骨にかかるだけで、それはそれで形容し難い痛みを生み出して、俺を苛む。無論、起き上がることなど出来る筈もない。

 右目の痛みは、何故か解せない気分でもあった。何故に、右目が痛むのか、全くといっていいほどに理解出来ない。

「珀。大丈夫なのか?」

 父親の志戒の声が、耳に入って来る。燻し銀のように、渋い声で俺の名を叫ぶ。取り分け、酷く心配してくれているようだった。表情は岩のように堅いけど、その裏腹に隠された感情が、自然と言葉として現れていた。

「お、俺は大丈夫だからさ。それより、親父。旅館はいいのか? 経営者が抜け出したら、それはそれで混乱するだろ」と、咎めると、志戒は「下っ端に任せておけばいい。それよりお前が心配だ。お前に大事があったら、それはそれで悲しいからな」と、いつものように抑揚ない口調で、何とも父親らしいことを言ってくる。表情に似合わない言葉を投げ掛けられ、俺はばつが悪そうにそっぽを向いた。


 円城志戒。言わずとも、俺の父親である。今年で五十歳を迎える。妻はいない。つまるところ、未亡人である。ある日に、とある事件に巻き込まれ、失踪後に死亡が法律上確定されたのだ。この旅館は、妻と二人で開業するつもりでもあった。そして、子供を授かり、幸せな生活を送る筈だった矢先だ。未亡人になってからも、妻との思いを忘れぬように、旅館を営み続けたが、子供の夢は叶えられなかった。だから、俺や琥凛と須雀の、養子を迎えた由縁でもある。

 いつも堅苦しくて、燻したような表情。他人の言葉なんて最低限しか訊かないし、自らもそれ程自己主張はしない。ただ、それだけでも存在感は強かった。威厳があるのだ。そこにいるだけで、空間を圧迫する、そんな人物だ。

 経営の手際良さから、従業員達からは賛美を受けているところ、信頼のおける人物でもあった。

 父親はただ堅苦しいというわけではなかった。


「ら、らしくないこと言うな、親父。俺の中のイメージが崩れたぞ」

「お前がとう捉えようとも、俺には関係ない」

 きっぱりと言い放ってくれる。そう、そういったところが、親父らしいことだ。何事も己の意のままに言葉にするところ。何も包み隠さないところが、俺は好きだった。

「珀。お前が無事でいてくれるなら、何よりだ。巷で起きている事件もある。気をつけろ。俺にとって、お前や琥凛、須雀は至宝なのだから」

「あら、父さんらしくない言葉ね」

「うん。父さんは、堅苦しい方が似合っている」

 琥凛と須雀が、各々の持ち合していた意見を父親にぶつけた。父親はそれをもろともせずに、そっと立ち上がった。

 臥している俺にとって、見上げていることから、まるでそこに巨人が立っているかのように見えた。取り分け、親父が長身であったからだ。

 そして、ゆっくりとした歩みで、部屋の扉へと向かっていく。最後の最後で、あらぬことを、親父は口にした。

「珀。お前が息絶えては、円城家の厨房が死ぬ」

 ドン! と音を立て、扉が閉まった。

 俺が息絶えては、円城家の厨房が死ぬ。まあ、そうかもしれないけど、須雀がいるから、なんとか大丈夫なんじゃないだろうか。まあ、大概厨房担当は俺であって、円城家の食は俺が管理しているんだし。

「フフ。父さんらしい。円城家の厨房が死ぬですって。ね、兄さん。頑張って生きてください」

「琥凛、それはどういうことだよ。別に病持ちじゃあるまいし、元気だから」

「わからない。人間、いつ死んだって不思議じゃないから」

「須雀まで……」

 まあ、確かに、人がいつ死んだっておかしくないが、今ここで話す話題ではないだろう。二人とも、話の舵を取り間違えている気がする。

「あ、そうそう。俺さ、事務所にいた筈なんだが、なんでここにいるんだかわからないんだ。二人ともわかるか?」

 二人に問うと、須雀は首を振って琥凛を見る。琥凛は知っているようで徐に「津田川さんが、運んできてくれたんですよ。えっと、兄さんには言い難いんですが……、津田川さん、ここに連れてきた時に、血だらけで……」と最後の語句はかなり弱気なものだった。稜治さんが血だらけということはどういうことなのだろうか。一体、俺は事務所で何をしげかしたんだ?


◆◆◆


 兄さんが帰ってこない。ずっと、玄関と兄さんの部屋を行き帰りするばかりであった。取り分け、巷で起きている事件に巻き込まれているんじゃないだろうか、と思ってしまう。兄さんのことだ、犯人にでも巧みに騙されて誘拐されたんじゃないだろうか、と邪推を広げるばかり。

 やけに落ち着かない。じれったい気持ちに似ている。

 さて、兄さんが誘拐されたらどうしようか、とでもなんだかよからぬ方向へと考えて、そうやって己の心を焦りを忘れようとしていた自分がいた。

 かぶりを振った。兄さんに至って、そんなことはないだろう、と思いたかった。今日、釘を刺しておいたのだ。愚直だから、と。そういった自分に気付いてほしくて、私は言ったのだ。これを肝に銘じていれば、多少は疑いの気持ちも持ってくれるだろう、と踏んだのだが、これでも駄目だとわかったら、もうどうしようもない兄である。

 ピンポーン!

 突如、インターホンが鳴る。

 やや! 犯人が身代金目当てに――、玄関へとそそくさと駆け足で向かった。

「はいはい、ちょっと待ってくださーい」

 お金は幾ら用意すれば――、ガラガラと扉を開ける。

 旧旅館の旧玄関は、もう何年か前から寂れてしまっているが、それでも風格は失っていなかった。

 開けた、と途端に入ってくる来訪者は、「円城! 着いたぞ! お前の我が家だ!」と、今にも息絶えてしまいそうな、金切り声をあげながら玄関に入って来ては、抱えていた人物を降ろした。

「津田川さん! それに、兄さんまで!」

 驚いたことに、やって来た犯人、いやいや失礼――私、琥凛とて、遊びが過ぎました――、来訪者は津田川さんだった。兄さんから訊いている、確か非道刑事だと。

 津田川さんは頭部から幾筋かの血筋を垂らしていた。苦心する表情と食い縛る歯。それを見ただけで、何があったのか、大概想像はつく。喧嘩でもしたのだろう。兄さんは、というと、気絶していた。気絶間際の表情を浮かばせている。何かに悶え苦しむ表情を浮かべて。視力のない右目からは、血涙が出ている。その他の出血は見受けられない。

「津田川さん、何があったんです!?」

 私は血相を変えて、問い質した。津田川さんは、壁までフラフラと歩き、凭れかかり、その場に座り込んだ。喉が噎せっているのだろう。何度も咳こんでは血を撒き散らす。

「あっ、そ、それより救急箱!」と、私は急いで津田川さんの手当てに取り掛かろうと、玄関を一旦離れた。


 救急箱を持って、玄関に戻ると、津田川さんの容態は一旦落ち着いていた。咳こみも激しくなければ、血も撒き散らしていない。「出血の手当てさえ、すればいいから」と津田川さんは私に言った。私は「でも……」と言い淀むと、「仕方ないことさ。刑事だし、こうしたことは慣れてんだ。そうだな。通算、何度目だろ」と自嘲して、私を笑わせようと、和ませようとするのだが、なんだかその自嘲が嫌に痛々しかった。

「無理なさならないでください」

 手当てを施すと、「お前の兄さんはいいのか?」と、止血したのを確認すると、私の気を兄さんへと逸らそうとした。兄さんのことも気にはしている。血涙のこともあるから、あとでゆっくりと手当てが必要かもしれない。

 けど、なんで、右目から血涙が……?

 私は兄さんに駆け寄って、「兄さん!」と声をかけても、起きる様子は全く見せなかった。逆に何か魘されているようにも見えた。

「津田川さん。何があったんです?」

 私は真剣な面持ちで問い質した。普段、楽観ばかりしているが、こうして真剣ごととなると、それ相応の表情となる。その面持ちが些か不釣り合いであった。

「ん? あっ、いや。ちょっとな」

 津田川さんは言い淀んで、私から視線を逸らした。ぶつかりあっていた視線は、一方的になる。津田川さんの視線は虚空に向けられていた。

「お願いです。兄さんになにかあったら、私、どうしてたらいいのか……」

 目に浮かぶ涙。堪え切れない感情が、否応にも襲ってくる。顔を伏せ、和服の袖でそっと顔を隠した。別に泣き落すわけでもない。これはこれで本心である。そう、兄さんになにかあったら、いけないのだ。決して。

「お、おい。なにも泣くことはないだろ……。あぁ、わかったよ、言うから」

 観念した様子で津田川さんは徐に話し始めた。

「実はな、お前さんも知ってるだろ、地元で起こってる事件を」

 涙を拭いながら、頷いた。その一件に関しては、周知の事実である。無論、私が知らないわけがなかった。情報に疎い兄さんでもあるまいし。

「見ちゃったんだよ、現場を」

「現場を?」

「遺体破棄の瞬間を」

「遺体破棄の瞬間を!?」

 それは思い掛けなかった言葉であった。つまるところ、犯行現場を見てしまった、というわけだ。取り分け、津田川さんは刑事である。これでは即刻現行犯逮捕である。

「いやー、参ったね。まさかさ、こうも事件の真相に近づいちゃうなんて、思ってもみなかったからさ」

「じゃ、じゃあ、犯人の顔とか見たんですか?」

 犯行現場を見たのなら、故に犯人を見ている。刑事である津田川さんだ。絶対に忘れてはいけない項目でもある。「そ、それがな……」と、津田川さんは頭を擦りながら言った。どこか引け目を感じているのが、わかった。何か、ミスでも犯したのだろうか。

「犯人が、複数犯で、その皆――」




 ――全身包帯巻きの人なんだよ。




 曰く木乃伊(みいら)であろう。

「包帯巻き? それって……」

「全身だから、顔も最低限しか出てなかった。だから、顔は伺い知れなかったし、衣服は着ていて、漆黒に統一されてたんだ……。これといって皆変化に乏しかったし、折角犯行現場を目撃しておきながら、真意に近づいておきながら、一切の収穫零だ。馬鹿馬鹿しい話だよな。こりゃ、課長さんに怒られちまうぜ」

 やれやれだ。とんだ徒労だぜ、と最後に付け足すと、頭を抱えながら立ち上がった。

「あっ、まだ、動かない方が」

「ん? だから、平気だって言ったろ。妹さんは、兄の心配でもしてれば結構。それにな、あまり人には迷惑かけたくない性質でね、俺はここいらで失礼するよ。円城には、酷な話かもしれんから、あまり口出ししないでおいてくれるか? コイツ、巫弥や衛樹と一緒に事件の真相でも暴こうって、馬鹿馬鹿しいことしてんだよ」

 まぁ、俺が真相を暴いてくれって頼んだんだけどな、と笑い飛ばしてそのまま玄関を出て行った。笑い声が遠ざかっていく。そして、やがて笑い声は途絶えて、玄関は寂寥の空間を取り戻した。

 兄さんの血涙は、相変わらず酷かった。止血しようにも、目からである。どう止めていいのやら……。取り合えず、兄さんを部屋にまで運ぶことにした。


◇◇◇


 一通り、俺は琥凛から事情を話してもらい、納得がいった。

 琥凛から話された内容は、帰り道でとあるヤクザに襲われ、稜治さんが守ってくれたんだとかで、血だらけで来たんで、と仰天の形相で終始話し尽くした。訊くところ、物凄かったのだろう。なにより、俺が失神してしまう程だ。

 稜治さんには助けてもらった礼をしたいところなのだがが、あいにくと腰を痛めてしまっていて、立ちあがることが出来ない……。今度会った時でいいだろう。一言くらい、言ったって別に罰が当たるわけでもないし。

「今日は二人とも非番なのか?」

 旅館に休みなんてない。いつどんな時だって客人はやって来る。故に、円城家に規則な休みは存在しない。休みだって、一日中取れるわけでもないのだ。こんな師走旅館としては。

 琥凛は「私は午後から」と。須雀は「父さんから、一日中、兄さんを看てろ、と言われていますので、特別に非番をいただきました」と、各々話した。

 琥凛は通常通りらしいのだが、須雀にいたっては、俺の為に非番をもらったのだ。なんだか申し訳ない気分で一杯だった。

「須雀、すまないな。俺が腰打った為に」

「なんでそんなこと言うの?」

「ん? 駄目かな」

「兄さんって、本当に正直者ですねー。別にそんなこと言わなくたって、自ずとわかってますから。姉さんは、そんなに鈍感ではないですよ。少なくとも、兄さんよりは」

「お、俺は鈍感だと言うのか!?」

「そうですねー、愚直馬鹿の唐変木ですかね?」

 と、とうへんぼく? なんだそれ?

「えぇ、琥凛。貴女の言っていることは実に面白いように的を射てます」

「でしょー」と朗らかな笑みを浮かべながら言った。そして「唐変木、唐変木」と口にしながら、俺を頬を突いた。

「ムニュムニュして面白い」

「人の頬で遊ぶな!」

「あら、ごめんなさいねー」

 溜息一つついて俺は琥凛と須雀を見比べた。琥凛はこうしてじゃれあうことが好きな性質だ。なにかと面白いことを言っては、こんな戯れに発展する。だというのに、須雀はその戯れが一切なかった。取り分け、須雀は俺と琥凛の戯れを傍から見据えているだけで、これといってなにも咎めない。入り込もうとする意志さえなかった。

 そういえば、須雀と一日中ゆっくり出来るのは、久々であった。やはり、なにか抱え込んでいるんじゃないかだろうか、と性格から思ってしまう。つまるところ、心配だった。こんなにも、無感情無機質なところが。まるで、人形にちょっとだけの感情を与えただけのようで。


 午後になり、琥凛は仲居の仕事へと馳せ参じた。「じゃあ、お客さんを持て成してきますねー」と、いかにも楽しそうな口調を去り際に残した。琥凛のことだ。今日は宴会でもあるのだろうか。どうせ、自ら宴会の仲居としての担当を勝ち取り、客人達とともに遊ぶに決まっている。また、宴会会場が一つ造り直さなければいいのだが……。

 一方、須雀はこれといって何もするわけでもなく、座布団を敷いては俺の部屋で整然と腰をおろしていた。座に徹して、外界を遮断する。一種の瞑想如く、須雀は静かであった。座禅をさせたら、一度も肩を叩かれないんじゃないだろうか。それ程、須雀という彼女は、雑念を持ち合わせない性質であった。

「なぁ、須雀」

 静謐となっていた自室に木霊する俺の声。何の雑音もなかったから、否応にも須雀の耳に俺の声は届いた。須雀は徐に瞼を開けて、こちらに向いた。「なんですか? 兄さん。お腹が空いたんですか?」と問い返してきた。

「えっ、さっき昼飯食べたばかりじゃん」

 昼飯、といっても、雑炊ではあるが、須雀が作ったということで、それなりに期待をしていたのだが、やはり須雀だ。期待を凌駕する料理を持ってきたのだ。ここのところ、須雀の料理の腕はあがる一方だ。いつの日か、腕前を越されてしまうんじゃないかと、思わずたじろいでしまう思いもあった。

「そうじゃなくて、前に言ったじゃん。抱えてることがあったら――」

「兄さん! 私は決して何も抱えてなんかいません。なにか勘違いされているのでしたら、私としても迷惑です。幾ら兄さんだとしても、それは譲歩出来ません。何かあったのなら、迷わず兄さんや琥凛に言います。それでいいでしょ?」

 若干語気を荒々しくして言った。俺はその勢いに圧倒され「おぉ、わ、わかった。そんなにむきになるなよ」と気を治めようとしていた。別に、語気を荒くしなくてもいいのに。いつものように、なんの口調の誤差もつけないような話し方でいいのだが。

「兄さんこそ、ないんですか? 前にも私は言いましたよ。兄さんの方がよっぽど何かを抱え込み易い性質ですって」

「俺が抱え込んでいること?」

 というと、能力者ということであるだろうか。右目の失明と能力者との関連性が見出せないことに、俺は問題を抱えている。

 だからといって、須雀に話したところで埒が明かない。須雀は無能者だ。一般人だ。表世界の住人だ。無理にでもこちらに引き込もうなんてのは、須雀に対しては可哀想であったし失礼でもあった。だから、こんなこと話せるわけがなかった。

「いや、何もないよ」

 そう言うと、須雀は眉間に皺を寄せて、もう一度問うた。

「それなら別にいいんですが、後々になって悩みを打ち明けられても、何も出来ませんから。それだけは覚えておいてください」

「なら、俺からもその言葉はそっくりそのまま返させてもらうよ」

 その返事に須雀は「えっ!?」と珍しく仰天した声と表情を浮かべた。須雀が持っている数少ない感情の一つだ。

 そしてばつが悪そうにそっぽを向いた。須雀の横顔が見える。頬が林檎のように赤く、視線は虚ろに飛んでいる。どこか悲しげだ。

「に、兄さんの馬鹿」

 琥凛にはよく遊び半分で罵られるのだが、まさか須雀に罵られようなんて思ってもいなかった。須雀はそういう性格ではない。どちらかというと、中立的なところの存在だ。取り分け、虐め体質だとか虐められ体質だとかではない。どちらにも付かずに性格なのだ。

「須雀が俺を馬鹿呼ばわりするのは、珍しいな」

 俺がひょんなことを言うと、須雀は更にそっぽを向いた。須雀が感情を悟られたくない証拠の表れだ。俺がどんなに須雀の表情を見ようと努力しても、須雀は決して見せてくれないのだ。こんな行動を取るのは、俺に対してだけであり、琥凛はそんな姉を見て、一言言っていた。「乙女ですね」と。俺にはさっぱりだった。

「べ、別に兄さんを心底馬鹿にしているわけでも……、な、なんで私の言葉をそのままそっくりと返すんですか?」

「えっ? 何でかって言われると……、直感かな。『おっ! その台詞いいな!』みたいなノリで使ってみたんだが、駄目だったかな」

「やっぱり、兄さんは馬鹿です」

 面持ちを取り戻したのだろう、須雀はこちらに向き直った。

「安易ですね」

 そういとも簡単に言ってしまう須雀。いつもの須雀に戻ったようだ。取り分け、これで心配はいらないだろう。

 「安易で結構。もう、この歳だし、今さら性をどうこう出来ないしね」とケラケラと笑うと、「『愚直の唐変木』と、琥凛が兄さんを例えましたが、上手いですね」と、納得している。

 だから唐変木ってなんだよ!

「その、唐変木ってなに?」

「兄さん。貴方そのものです。愚直故に融通の利かない」

「頑固者だと言いたいのか?」

 俺がそう須雀に問うと、「えぇ」と何の躊躇もせずに頷いた。

「そんなに頑固者だろうか……。んー、須雀にそう言われたのなら、融通の利く人物になってみるよ」

「無理ですね」

「な! 酷いな。まだ何もしてないというのに。千里の道も一歩からと言うじゃないか」

「無理です。兄さんには、根本的に愚直が蔓延っているので、兄さん、前にも言いましたが、何か別に変えようだなんて、発想は止めた方がいいですよ。兄さんはとことん愚直に侵されていますから」

 骨の髄まで、と言いたいのか? 完全に融通の利かない人物みたいなことを言うものだな。これでも、少しは他言を訊きいれているぞ。

「それに、兄さんにとっては、千里の道ではなく、万里の道でしょう。億里の道でもあるかもしれません」

 果てしない……。千里も万里も億里も……。

「わかった。馬鹿馬鹿しい考えは捨てるから、それでいいだろ?」

「どうぞご勝手に。可燃なり不燃なり資源ごみなり」

「えっとー、どれかなー、っておい! 俺の発想はそこらのごみと一緒かよ!」

 可燃、不燃、資源ごみ、とか、俺は産業廃棄物人間か?

「愚直の唐変木に違いありません。他の例えなど、兄さんには不相応なものばかりです。芯が愚直なのですから」

「わかった。骨の髄とまでいかず、魂の髄から愚直と言えば、気が済むだろ?」

 魂の髄までって、この性格は来世にまで持ち越しか? 嫌だな、それは流石に嫌だな……。

 と、馬鹿馬鹿しく思っていると、つい、須雀と戯言を言い合っている自分がいた。


◇◇◇


 「神隠しサイト?」と、須雀の表情が訝しんだ。俺は訊いてしまったのだ、須雀にも。ただ、須雀からはいい情報は引き出すことは出来なかった。取り分け、ニュースで流されているようなものばかりで、須雀はパソコンなども扱わないから、そういったことには疎かった。俺よりはましなほうではあるが。

 ただ、知らないとなると、これ以上訊いたところで有力なことは訊けないだろう。


◆◆◆


 今宵、宴は催され、そして終焉と向かう。汚辱と恥辱に塗れた宴は、最終段階へと進行していた。

 古びた木造の暗室内。廃墟と化しているこの部屋は、いたるところが朽ちて、今にも崩れてしまいそうな程、襤褸な作りと化していた。ここは、昔、近場の四神家という家柄が、家屋として使っていた場所であり、今では引っ越しを機に、ここは誰も寄り付かない廃墟と化しているのだった。

 寝惚けた視界を、辺りに張り巡らせる。頭を鈍器で殴られた後なので、意識さえ覚束ない状況であった。辛うじて、殴られる前の記憶は確りとあるのだが、殴られた後の記憶が曖昧だ。

 復活した視界によって、認識されていく世界は、あまりにも酷な状況であった。

 自分は、壁に凭れ座るように緊縛されていた。雁字搦めにされ、一切の身動きを取らしてはくれない。どういったわけか、どうしてこんなことに陥ったのか、唯一使える思考を使って、黙考する。

 唯一……。取り分け、声は猿轡を噛まされ、発せられなかった。だから、助けを呼ぶことも出来ない。着衣さえもないので、完全なる無防備と言えよう。

 明かりのなかった部屋に、突如、風前の灯火が灯る。弱々しい光は、それでも俺の心を安らかにしてくれるものであった。

 灯火が近づいてくる。それとともにやって来る執行者。

 左手に蝋燭。右手に鉈を携えての登場であった。

 俺は、灯火の光を反射させる鉈の刃を見て、驚愕し声を上げた。あげたところで、助けなど呼べぬというのに、無駄な行為と知りつつもどうしても発してしまった。

 執行者はさっきまで一緒に戯れを共にしていた者だ。(けだもの)と化した人間がいる。その者は、今はずいぶんと静謐な面持ちで鉈を持ち近づいてくる。

 俺の目の前に立って、一言「ごめんなさい……。本当はこんなことしたくないんですけど……」と悲しそうな声をあげた。

 しゃがみこんで俺の猿轡を解いた。最後の泣き寝入りでも訊こうと言うのだろうか。性分が悪い人だ。

「おい! お前、俺に何するつもりだ!」

 ギシギシと縄が軋む程の動作を起こしながら、俺は問う。執行者は答えた。

「訊いたところで、意味はない……」

 そう、ゆっくりと答えた。どこか悲しげに。どこか気の乗らぬ様子であった。

「訊いたって、絶命してしまったら……、もう、意味はないのに……」

「絶命? 俺を殺すっていうのか!? はっ! 馬鹿馬鹿しい」

「……。ごめんなさい。本当は貴方の命なんて、取りたくないのに」

 そう言って、鉈を地面に置いた。刃から発せられる鈍い音が、室内に轟いて二人の耳の鼓膜を刺激する。

「俺の命を取りたくない? こんな不様な格好させておいて、よく言うぜ。殺したくないのならさ、こんなこと止めてくれないか」

 自分が緊縛されていることに、甚だ不愉快であった。いや、その不愉快さは決して本意じゃない。虚勢だ。この状況が恐くて、不愉快という安楽に浸って、恐さを凌いでいるだけなのだ。故に、口調も態度も、虚勢である。

「逃がしてあげたい……。こんなことを巻き込んでしまったのだから……。何にも関係がないというのに。可哀想に」

 執行者の手が俺の頬に触れた。瑞々しい手が、恐怖によって乾き切った頬に当たる。ほんの一時、安らぎを感じた。

「でも、そのお願いは訊いてあげられない……」

 頬から手が離されていく。そして、手の空いた手は、鉈の柄を握った。

「これも、仕方ないことなのよね……。やらなくちゃ、いけないんだから……」

 執行者は、涙を浮かべながら名前を口にした。

 その人の為に、どうやら執行者は俺を殺そうとしている。

「おい! まだなのか!?」

 灯火が一つ増えて、罵声が飛んでくる。罵声を受け、執行者は震えあがった。恐怖に脅える仔猫の如く、小さくなってしまい、手から鉈が床へと落ちた。次の瞬間、執行者の頬が殴られた。大きな音だ。部屋に木霊する音から、酷く痛そうな感覚は得られる。執行者は頬を殴られ、部屋隅の闇へと消えていった。罵声を浴びせやってきた、二人目の執行者は、脅える執行者に鬼のような目を向けながら「早くしろと言ったんだ。遅いにも甚だしい。それとも、お前はそんなにお仕置きがされたいのか? もしくは、お前の大事な者でも連れてこようか?」と言うと、闇より「そ、それだけはやめて! お願い! 私が、私がいるんだからことは足りるでしょ?」と悲哀と懇願の声が聞こえてきた。二人目の執行者は、「っけ。人形は人形らしく主の玩具として存在を主張すればいいんだ」と、蔑んだ言葉をぶつけた。

 闇からは泣き崩れる声が聞こえてくるばかりだ。「ごめんなさい、ごめんなさい」と、繰り返しながら。俺に言っているのだろうか、それとも二人目の執行者に言っているのだろうか。わからない。

「さぁ、宴もそろそろ終わりにしよう。こんな馬鹿馬鹿しい娼女と戯言を交わしている暇もない」

 足許に転がっていた鉈を拾い上げると、そのまま高く刃を掲げ、そのまま俺の首を切った。

 俺は、言わずとも絶命に至った。


◆◆◆


 前回、探偵事務所に訪れてから、早一週間。腰の方も大丈夫となり、これといって心配ごとはなくなった。その間、俺はテレビなどを観賞したのだが、これといって事件たるものは起こっていなかった。事件の風説も、だんだと枯れていっている。世間から、そのことがらが忘れは去られてきた。

 俺は腰の回復を機に、夕暮れの日差しが差し込む事務所に訪れた。

 いつものように変わらぬ事務所の中。呪術士と魔術士のいる、二人だけの事務所は相変わらず殺風景さだ。ただ、それでも、ここは裏世界の凝縮世界といっても過言ではなかった。

 無能者、もしくは有能者予備軍の俺が、事務所に訪れると、巫弥と衛樹がそれぞれ「おっ、やっと来たね」「おや、円城じゃん。腰は大丈夫なのか?」と各々の挨拶を俺に投げ掛けてきた。俺は愛想笑いを浮かべながら「これといって大事にはならなかったよ」と返事を返した。

「なんだ、背骨にでも異常が起こって入院くらいしてくればよかったのに」

「にゅ、入院ってな、巫弥……。幾らなんでも、それは酷いんじゃないか」

「そんな巫弥こそ、足は大丈夫なのか? こないだのちょっとした騒ぎで、足を挫いた筈じゃ」

 衛樹がそう指摘すると、巫弥はばつが悪そうに「えっ!?」とひょんな声をあげた。思わぬところの攻撃だったのだろうか、少し言い淀んでから「あ、あれは私のちょっとしたミスよ。あんたに言われる筋合いはないわ」とキッパリと言い放った。「どうだか。酷く挫いたから、一人じゃ帰れなかった癖に」と追撃する。巫弥に追撃は有効だった。さらに言い淀んで、「ふん!」と踵を勢いよく返して俺達に背を向けた。

 俺は衛樹に近寄って、ことの真相を訊こうとした。

「巫弥が足を挫いたって、どうしたんだ?」

「ん? いやさ、円城が腰痛めてる時にも、俺と巫弥で活動してたわけなんだけどさ。巫弥が街中で異変がするって言うんだよ。神道の術がなんだとか、俺にはさっぱりわからないんだけどね。それで俺と巫弥の二人で夜道を出歩いてみたら……」

 衛樹が少し言い淀んだ。喉にまで来かかっている言葉をなかなか口に出そうとしない。

 巫弥が一言俺達に言ってきた。

「衛樹。あまり直球的に言っちゃ、円城に気の毒だわ」

「俺に気の毒? 巫弥、それどういうことだよ」

 巫弥はこちらに一瞥を加えるだけで、なにも言わなかった。そのまま、自席に座って、頬杖をついた。

 俺にはさっぱりだ。巫弥が何か隠しているような気がするのだが、一向に伺い知ることが出来ない。

「円城、気を確かに訊いてほしいんだけど、稜治さんが、何者かに襲われたんだ」

 衛樹は、若干弱々しい語気で言った。訊きとるには物足りない音声であろうと、この静謐とした事務所内では、確りと訊き届けることが出来た。

「稜治さんが襲われた!?」

 そして、静謐を引き裂くかの如く、俺の声は事務所内に響いた。

 稜治さんが襲われる。それは滅多にないことでもある。例え、暴走族相手だろうが、稜治さんの性からして、強い者には根っから勝負を挑む人でもある。稜治さん自身、昔から喧嘩好きとあって、暴走族相手だろうが、容赦はしない。巷で噂立てされる程、稜治さんの喧嘩の強さは評判であった。まぁ、警察内では暴力沙汰は出来る限り避けたい為に、不評ではあるが。

「後ろから鈍器で殴られたらしいよ。まぁ、命に別条がないところ、不幸中の幸いだけどさ」

「そ、そうなんだ……。お気の毒に……」

「まぁ、巫弥が稜治さんに式神を付けてたから、巫弥が異変に気付いたわけなんだけど」

 衛樹の話では、巫弥は咄嗟に立ちあがったらしい。それも、なんの予兆も見せずに、「衛樹! 行くよ。稜治が、誰かに襲われてる」とだけ言って、一人先に事務所を駆け出して行った。衛樹も後を追い、やがて現場にたどり着くと、稜治さんと、ある誰かが争い合っていた。そのある誰かは、木乃伊だと言う。

「木乃伊?」

「あっ、ごめん。木乃伊なんだけど、ちゃんとした生者だよ。何故か、全身包帯巻きなんだ。それに衣服を着て、そこら辺の人と変わらぬ格好で。

 あと……、あれは魔術士だったな。魔術回路が僕にはしかと見受けられたけどね」

 そして、その現場の近くに、遺体は発見されたという。やはり、遺体は部分ごとに分けられていた、と。

「じゃ、じゃあ、魔術士が殺人犯なわけ?」

「ぼ、僕に訊かないでくれよ。まだ決まったわけじゃない。もしかしたら、偶然、グルグル包帯巻き好きな魔術士が通りがかっただけかもしれないし」

 どんな趣向者だ、それ。一種の変質者で間違いないだろう。もしくは、異常な程の重病患者だ。ただ、どちらもおかし過ぎる。加え、魔術士だ。つり合いがおかしくなる。犯人が魔術士と位置付けた方が、据わりがいい。

「円城。思考が短路過ぎるわよ。なんの証拠もなしに、そうやって犯人と決め付けてしまうのは、ハッキリ言って愚かよ。全く」

 巫弥が溜まらず俺に一喝を入れた。

「あぁ、ごめん」

「まぁ、円城がその場に居合わせなかっただけ、よかったね。僕達顔見られちゃったし、相手もこちらが能力者だということは気付いてるみたいだから、今度狙われるかもしれない」

「目撃者、ということで?」

「まぁ、そうなるね。犯人でなければ、別に狙ってこないかもしれないけど」

「わからないわよ、衛樹。もし、あの包帯巻き魔術士が、犯人でなくとも、あの場所に居合わせてしまったから、といって冤罪をかけられるんじゃないかって被害妄想でもして、私達の口封じにでも来るかもしれないし。いや、それじゃ怪し過ぎるか。

 ともかく、稜治には自己自宅謹慎にでもなってもらって、私達は一層気をつけないと。あっ、円城も気をつけなさい。もしかしたら、私達の素性が明らかになって、あんたのところにも息がかかってくるかもしれないし」

 さり気なく、被害者予備軍となっている俺。これといって何もやっていないというのに。被害の冤罪か?

「魔術士との遭遇か……。困ったな。俺に対抗策は……」

「ないわね」

「ないね、全く。逃げる以外、手立てなしか」

 二人に言われ、俺は少しながら肩を竦めた。二人の言葉が的確過ぎて、どうも反論さえも出来ない。逃げる、という選択肢しか、今の俺にはないのだ。

「いや、もしかしたらあるかもよ」

 巫弥がニヤリと不気味な笑みを浮かべて俺を見た。

 怪しい視線が、俺を射抜く。衛樹が喉唾を飲んだ。

「その眼。何かあるかもしれないし。あるじゃん、咄嗟的な本能的能力の開花って」

「咄嗟的な本能的能力の開花ね……。ってことは、魔眼だって言いたいのか?」

「魔眼の中の浄眼でしょ」

 魔眼。文字通り魔の能力を秘めた眼のことだ。何かしらの能力付加ということが、大概のパターンとして成り立っている。目に宿る能力者ということで、魔術士でも呪術士でもない。大概は異能者として通っている。先天的な眼球能力だ。

 魔眼に対する浄眼。これは、魔眼の中でも取り分け珍しいとされる、魔眼の亜種だ。元々、能力はないものの、能力を得ることは後付けで出来る。言わば、後天的な眼球能力。こちらも異能者扱いとされる。

 浄眼は世界中でも珍しい一種の能力で、非常に使い難いとされる。だから、好き好んでこの能力を求める者は少ない。わけとして、能力が突発的に開花するのだ。ただ、その能力がどんなものなのか、定まらない。突然得るのか、それとも長い時間をかけて得る物なのか。一種のギャンブルである。

「んー、浄眼か……。関西の方で一人か二人いたな」

「そうなの?」

「詳しくは知らないけどさ、一撃必殺を持つ魔眼持ちの人がいたらしいね」

 一撃必殺……。ゲームじゃあるまいし……。

「まぁ、それはいいとして、珀のことだけど、本当に気をつけなさい。私が式神でも、背中に貼り付けておくから」

 巫弥曰く、式神を通じて俺の危機を察知することが出来るらしい。稜治さんも、その術によって助けられたわけで、取り分け俺は期待している分、これを持たされるということの危険性の感覚を、心に合わせ持っていた。


 漆黒の天蓋が、俺の頭上にあった。大きな穴が穿たれている。それを皆は月と呼ぶ。月以外にも、ところどころ穴だらけだ。曰く星々だ。

 明日は、非番ではない為に、早めの帰宅が俺には余儀なくされていた。取り分け、遅い時間に眠ってしまえば、それだけ睡眠時間は長引いてしまう俺であり、早朝に起きるには、早めに床に就かないと、朝は大変なことになると、俺は自負していた。

 世間は九時頃を回ったところである。繁華街では、帰宅途中のサラリーマン達が居酒屋を梯子しては、店内で酒に酔い痴れては、次の店へと駆け込む。そんな姿がところどころで見受けられる。これといって、世間が抱く事件に対する感覚は、然程高くなさそうであった。

 事件に関与している魔術士……。全身が包帯巻きなら、すぐさまその容姿は街中で見付けられるだろう。そう思っていた俺は、人ごみの中を眼を(みは)っては注意深く帰宅をした。

 俺は比較的人通りの多い場所を選んで通っている。だから、突然襲われる、なんてことはない。そう思いたかった。だからといって油断は禁物だ。裏の世界の者にとって、突然、襲われたりなんてものは、しょっちゅうらしい。そこのところ、衛樹は詳しかった。

 裏世界には、異端と呼ばれる人畜有害の類に属する人間や、片や別のモノかがいるらしい。異端は文字通り、人という形態から外れた者のことを言う。本来の人としての在り方から外れ、己の力を暴虐無人に使う者のこと。または、表世界の者が、こちらの裏世界に入ってきた際に、能力を得た者のこともいう。大概、後者はこの世界で生き残るのは難しいとされる。突然、力を得たところで、頭角を現すことは至難だ。いきなりこちらに馴染むことは、難しく、大概の者が去っていくのが現状だ。

 それを、魔術士や呪術士とかけあわせた、異端魔術士、異端呪術士というのもある。こちらは、魔術呪術の在り方から外れた士というわけだ。

 事件に関わる魔術士は、異端魔術士なのだろうか……。ただ、何の為に、人を殺めたのか。それとも、何の為でもなく、ただ己の衝動に駆られてなのだろうか。ことの真相は、何も知らない俺から出されるわけでもなく、思考は巡る。まるでメビウスの輪のように、最終が見つからず、結果、真相の思想を投げ出すこととなった。

 繁華街の人通りの多い界隈から抜け、一旦山道に入る。山道は必要以上の電灯は用意されず、最低限の光だけを灯らしている。暗い山道は、一人で歩くには少しばかし心細い場所でもある。

 ただ、この山道を通らずして自宅には帰ることが出来ない。夜中ということもあり、日が昇っている時間帯であるのなら、観光バスや自動車が行き交っているのだが、それから外れるとここは滅法寂れた山道を化す。そこを独りで歩くには、些か危険だった。

 雪が降る。取り分け、季節は冬であり、それも季節が変わったばかりだ。半年前以上以来の雪に、少しばかし心が安らいだ。

 雪国に住む者として、冬に雪が降るということだけでも、俺は十分だった。

 雪が降り、白銀山温泉街は一層化粧を厚くする。ただ、厚化粧までにはいかない。白銀に染まる温泉街は、誰の双眸でも、その輝かしい姿を見せては魅了させてきた。白銀山温泉街が、四季の中で一番華やかになる時期でもある。

 足を止めては、ハラハラと落ちてくる雪を、掌に乗せた。冷たい結晶の塊は、掌に乗ってしまうと、あっという間になくなってしまう。短い命ではあるが、それでも、その短い中には、輝かしい白銀の光があった。

 雪が降ると、途端に肌寒くなっていきた。それなりの防寒はしてきたものの、山奥である故に寒さは一層酷い。寒さで出来た針の筵に入れられた気分で、ところどころを寒さが突き刺してくる。

 そそくさと帰ろう。そう思った時、道端に一人の男がいた。

 地肌が見えぬ。眼、鼻、口、耳、髪。必要最低限の物しか外界に出さず、殆どを内部に隠蔽する。白き包帯は、雪にも負けぬ程の白さを保っておきながら、手許は真赤に染まる。足許に一つの遺体。そこだけが、純白の雪は汚辱の混じりの紅に変わっていく。

 本能が悟る。あれは、近づいてはいけない代物だ、と。

 向こうは、ずっと足許の遺体を見続けていたのだが、こちらの気配に気づいて向いてきた。視線を合わせてニヤリと笑う。

「見ちゃったか?」

 そう問いかけてきたのだが、俺は当然答えることが出来ない。眼先にある悍ましい姿となった遺体が、眼に否応なしに入って来る。俺は、本能的に膝を折っては、嘔吐していた。

「ん? よく見たら、珀の坊じゃないか」

 お、俺を知っている? 嘔吐の衝撃が終わり、俺は包帯巻きの者を見据えた。

 包帯巻きの者は、顔なんてわからない。体格からして、男だということは間違いないだろう。歳は俺よりは上の筈だろう。大人びた声帯は、若干渋い。筋肉隆々の包帯巻きの者は、ゆっくりとこちらに近寄って来た。赤々と汚辱の血に染まった手をチラつかせながら。

「驚いたな。珀の坊がここにいるなんて。夜遊びはいけないぞ。俺のような、殺人鬼と出逢うからな」

 意味がわからない。何故、包帯巻きの者は、俺を知っているんだ。俺より年上の知り合いなど、いない。俺の知り合いの大概が、同級生であり、もし包帯巻きの者が俺の知人であるとするなら、それは恩師だろうか。いや、恩師に殺人鬼になるような人物は一人として出逢ったことがない。誰もが教師の鑑のような人々であった故に、人を殺める道に堕ちるなんてことは考えられなかった。

「あ、あんた誰だ?」

 虚勢を張り、俺は立ち上がって包帯巻きの者に問う。包帯巻きの者は、首を傾げて「俺か? 珀の坊に素性は明かすなと言われるし、名を告げたところで、わかるまい」と言った。素性を明かすな? 俺に名前を告げたところでわからない……。ますます意味がわからない。

 そうこうしているうちに、もう包帯巻きの者は、眼の前にいた。

 と、その時だ。背中に衝撃が走った。若干顔が歪んだが、それはあっという間に痛みは去っていった。たぶん、巫弥に向かって式神が向かっていったのだろう。あの時の痛みは、俺から式神が離れる時の痛みだろう。昔、巫弥から、そういったことがあると訊かされたことがあった。

「いやー、珀の坊とここで鉢合わせになるとは、思ってもみなかったぜ。惜しいな、人懐っこそうな顔持ってるくせして、お前がな――」

 包帯巻きの者は、言った。




 ――生贄だなんてな。




 と。お、俺が生贄!? 

「可哀想な奴だぜ」

「な、何を言ってんだよ」

「そのままの通りさ」

 またニヤリと笑う包帯巻きの者が目の前にいるだけで、もう圧巻だ。圧倒されて、俺は後ずさった。

「おいおい。逃げることはないだろ。同志よ」

「同志?」

「おうよ。お前だってあるんだろ、全身にさ――」

 俺が包帯巻きの者と同志? つまり、殺人鬼と同等なのか!?

 辺りがざわめく。そして、聞こえるのだ。声らしくて声じゃない、まるで音のような声が。何を俺に訴えている。

 辺りがざわめく。俺の周りが、少しずつ熱くなる。

 辺りがざわめく。右目の眼球に痛みが迸る。まるで文字通り針の筵の如く、眼球に痛みが奔る。

 咄嗟に包帯巻きの者は身構えた。「な、何をするつもりだ!? お前」と、思わぬ行動に、包帯巻きの者は一歩遠退いて、魔術回路の起動を始める。包帯の上からも見えている回路のは、光を発しているからである。魔力が通い、活発に動いているから故に、発光する。

 俺はというと、痛みは極限に達する。眼球だけが焼かれる感覚。隻眼から流れる血は、頬を伝って地面へと滴り落ちる。

「魔術士……、でもなさそうだな。呪術士か?」

 包帯巻きの者は俺の素性を察そうするのだが、検討がつかないようで、出方を伺った。俺の痛みは相変わらずだ。喘ぎ声だけが山奥で響き渡る。

 と、その時だった。肌に纏わりつく熱気は、やがて火の球となり、包帯巻きの者に飛んだ。

 ――殺すな、殺すな! お前に、この者は殺させない!

 声らしく声じゃない、音のような声が、やっとハッキリと訊き取れた。その声が懐かしい思いにやられた。やがて痛みから解放される。血は相変わらずどくどくと流れては、足許を穢していく。右頬がどれだけ真赤な筋を作ろうとも、俺は気にしてはいなかった。

 火の球は、包帯巻きの者に向かっていったのだが、呆気なくそれは無効化された。

「魔力も呪力も感じられない、だと?」

 包帯巻きの者は声をあげて「貴様異能者か!?」と言った。

 二撃目が飛ぶ。またもや火の球であった。球は包帯巻きの者に飛び、前方左右の三方向から襲う。

 包帯巻きの者は、二撃目の準備が整っていなかった。舌打ちをして咄嗟に身体を翻して、それを避けると、反撃とすぐさま詠唱に入った。

 魔術回路が活性化する。魔力が通い、更には詠唱の準備に入り、回路はエンジンがかかっていく。

「突然襲ってきたんだ。仕返しに、異存はないよな」

 包帯巻きの者はニヤリと笑って、詠唱を完成させる。

 蛇を足許より呼び出しては、俺に向かわせた。毒牙を見せながら、数匹の群を作ってやってくる。そして、足に絡みついて俺の足の身動きを奪った。

 足に纏わりつく、爬虫類の独特な低体温が襲ってくる。足許を冷や水で冷やしたかのようで、更に野外であるから故に、凍り付けの如く、足から身動きが悉く奪われていく。

 足を奪ったことにより、包帯巻きの者は上機嫌で近寄って来た。そして、俺の頭を掴んでは一思いに笑う。「おじさんを驚かすんじゃないよ。幾ら同志だからって、突然襲うことはないだろ。戯れも行き過ぎはいけないよ」と、腕に力を入れては俺の頭を握り潰そうとする。包帯巻きの者の握力は物凄かった。頭蓋骨が軋む音が、脳内に響いてくる。声にならぬ叫び声をあげては、この場からの避難を願うが、足許の蛇達は、ゆっくりと足を伝って昇って来る。頭を握り、足からは徐々に蛇達が俺を自由を奪っていく。逃げ場などどこにもなかった。

「このまま、一思いに潰してしまってもいいんだが、なんせお前は大事なモノらしいからな。俺達の戯れはこれくらいにしておこう、か」

 包帯巻きの者が手を放そうとした時だった。突然、包帯巻きの者が浮いた。足は地面をつかず、宙に浮いては虚空を蹴った。そして、浮いた身体は道を外れ、森の中の木々に打ち付けられた。それと同時に蛇は消え失せた。

 包帯巻きの者は、背中から木に打ち付け、苦しそうに胸を押さえながら立ち上がった。

 嗚咽をしながら「さ、さては念力者か?」と激痛に苦悶しながら言った。俺は頭の痛みと拘束から解放された。

「やってくれるじゃん。いいね、楽しいよ。ずっと配下に徹されてきたばかりで、こうした闘いは、久々なんだ。同志よ、遊んでくれるのか? この俺と」

 包帯巻きの者は本気だ。眼差しに闘志が感じられ、俺を心底敵視する。「珀の坊でも、流石に許せないな」と、己が退け目を感じているのが気にいらない様子だ。まるで、腹いせの如く、俺が敵となっている。

 俺は踵を返して、自宅に向かって駆け出した。

「待ちやがれ! ただじゃ済まさんぞ!」

 包帯巻きの者は森から抜け出して、俺を追っかけてくる。

 相手は、人殺しだ。無能な俺が太刀打ち出来る筈もない。取り分け、堅い棒くらいあれば、四神家で教わった剣道を発揮できるのだが、剣道とて身を守るのもに過ぎない。到底相手を倒すなんてことを考えることは止した方がよかった。

 息を切らせながら走る。後ろを振り返ってみれば、包帯巻きの者は追っかけてくる。戦闘に悦楽を感じているのだろうか、笑いながら追って来る。それがなんとも恐かった。

 戦闘に悦楽を感じえし木乃伊姿の者。隻眼から血の涙を流す俺。なんとも奇妙な光景が、山奥で描き出されていた。

(はら)(たま)(きよ)(たま)ふことを (あま)(かみ)(くに)(かみ) 八百万(やほよろづ)(かみ)たち (とも)()こし()せと(まを)す」

 突然、俺の周りを円状の光の壁が作られては、俺を取り囲んだ。まるで蚊帳の中にいるようで、包帯巻きの者は足止めを食らった。俺もまた足止めを食らうのだった。

 光の壁内部……。仄かな温かみと慈しみを感じる。心底から安らぎに抱擁され、己の心の疲れを癒していく。

「円城! 大丈夫?」

 玉串を持ってやってくる一人の巫女。曰く巫弥だ。巫弥は光の壁外部からやってきては、いとも容易く中に入って来た。続けて衛樹も、巫弥の後を追ってやって来た。

 二人が円の中に入ろうと、包帯巻きの者は一向に入って来る様子はない。ただ舌鼓を打っては、俺達を鬼の眼で睨むばかりだ。

 俺の前に、巫弥は立ちはだかった。つまり、俺と包帯巻きの者の間に陣取ったわけだ。衛樹が俺に駆け寄ってきては、眼を伺った。

「円城、その眼……」

「あぁ、これか……、な、なんで血が流れてるんだろ」

「ともかく治癒だ」

 衛樹は、懐から袋を取り出した。じゃらじゃらと何かが中でぶつかり合っている。袋の口を開いて、中から一つの石を取り出した。

 取り出したのは翡翠だ。手のひらに乗るほどの小さな石の塊は、明るい翠に彩られていた。

 衛樹はそれを右拳で握り、瞼を閉じて一言呟いた。

 右腕に一筋の光が現れる。それは包帯巻きの者と同様の、魔術回路だ。衛樹は付加術の使い手である。元々、衛樹の保有する魔術は、無属なのだが、付加術はそれに他の物との組み合わせで無に乗じて、物自身の属性を乗せて魔術とする。物自体にも、魔術的、呪術的、及び根本的に属性というものは持っているものだ。衛樹にかかれば、そこらの物から、属性との調和に同調、そして魔術の詠唱までも行うことが出来る。取り分け、衛樹の取りだした翡翠は、パワーストーンである。

 翡翠が持つ生命の再生能力と同調し、無属の魔術は治癒術へと変化(へんげ)する。

「翡翠との同調……、完了。術への変換、及び行使……、治癒魔術の完成。ここに、円城の治癒を開始する」

 落ち着いた声で、衛樹は俺の眼の止血を行う。眼の血はだんだんとひいていき、やがて止血に至った。血の涙は、止まったが、時折、俺には変なあの声が聞こえてくる。

 ――この者は、我によって殺させぬ。

 衛樹に声のことを訊いても、衛樹は顔を顰めるばかりでこれといって聞こえてはこない、と答えた。俺だけなのだろうか、この声を訊きわけているのは。

 俺は巫弥に視線を移した。

 巫弥は玉串を片手に、包帯巻きの者と壁を隔てて対立する。

「禊結界の中に籠るとは、巫女なんてものは外見だけだと思っていたんだが、お前は違うらしいな」

「ふん、表世界のアルバイト巫女なんかに比べられては困るわ」

 光の壁は、禊と言う。

 禊は神道家系が独自に所持する呪術の一つだ。禊は一種の結界であり、最高峰の結界とも言われる。結界に関しては、魔術の数倍の質を誇り、並大抵のものでは、禊を打ち破ることは出来ない。それに、ここが日本の風土ということもあり、巫弥の禊呪術は、一際力を増す。

「表世界のか。表側も馬鹿にされたもんだな」

「常識上での世界だもの。裏からしてみれば、面白みもないところだわ」

「ご尤もだ」

 巫弥の巫女としての経歴は長い。生まれ許も、ある神社であり、呪術家系でもあったことから、生まれてこのかた巫女という肩書は、巫弥にとっては切っても切れない縁で結ばれていた。

「いいね、生粋の巫女で」

「衛樹! あんたは黙ってろ!」

 流石だ、衛樹。どんな時であろうと、自分の信念は曲げないつもりなのだろう。こんななんだか危なっかしい雰囲気であろうと、こいつの性が止まることを知らない。こうしてなにかをさり気なく言うなんて度胸が、俺には恐ろしかった。

「そういえば、こないだはどうも。私の伯父を襤褸襤褸にしてくれて。まぁ、あれはあれでいいんだけどさ、血の繋がってる私にとって許し難いのよね」

「あぁ、こないだの刑事か。なんだ、一度は敗北しておきながら、根に持ってるのか?」

 包帯巻きの者が、嗜めるようにして言うと、巫弥は唇で怒りを噛み締めながら、「あっ、あの時はドジしただけよ」と包帯巻きの者の言葉を覆した。

「足の毒はいかがかな? じわじわと足の髄からやられていく感覚を、俺は味わったことがないから、わからないんだ。なぁ、教えてくれないか?」

 巫弥はばつが悪そうに言い淀んでしまった。そして、右足を後ずらせた。

 俺は察した。巫弥は足を挫いたと言ったいたが、あの包帯巻きの者に毒にでも盛られたのだろう。それが何かしらの誘発を起こし、足を挫いた。それに違いないだろう。

「衛樹。巫弥の足って……」

「あの魔術士と、前回やりあった時――稜治さんがやられた日――、巫弥は隙を突かれて、足を蛇に噛まれたんだ。右足っていうのはわかるだろ。魔術士の使う蛇は、使い魔みたいなもんで、毒も魔術的なもので、足の指先から不随にさせていくんだ」

「不随!?」

 右足からやられていくのは、些か巫弥にとっても、不愉快であろう。戦闘において、足は重要な役割である。そこから切り崩されるとなると、戦況はずいぶんと変化する。取り分け、巫弥の持つ呪術は、スピードより一撃に込めるパワー系な為に、多少なりとも補えるものの、パワーにしても足腰は重要である。

「昨日の威勢は、毒でずいぶんと削ぐれたな。昨日は出会い早々式神を大量に使ってきたくせに、今日は禊一本か? となると、敵は後ろの魔術士だけか」

 そう言って、包帯巻きの者は、衛樹に視線を送った。衛樹は一瞬仰天し、思わず視線を逸らしそうになったが、そこは耐え抜いて見返した。

 衛樹は基本的に後衛タイプである。前衛である巫弥が倒れてしまっては、バランスの崩れ、この戦況では些か不利である。

 包帯巻きの者は、数匹の蛇を呼び出しては、禊の周りを這わせる。口から細長い舌を出し入れしては、禊内にいる俺達を伺っている。

 蛇とて、禊を打ち破ることは出来ないので、これといって心配はないのだが。

 ただ、絶対的な結界を誇る禊であろうと、弱点は存在する。巫弥の肩がだんだんと上下に動き、荒くなっていく。疲れてきている。禊は、呪術の中でも維持に呪力を多く用いることで有名だ。絶対的な結界でありながら、呪力は多く用いる。だから、ずっと禊内でたて籠ることは不可能だ。何れは、包帯巻きの者との乱戦は歪めない。

「衛樹。そろそろ、いい?」

「限界、か」

 巫弥が衛樹に問う。巫弥の顔は疲労に押し潰されている。歪んだ顔が、この禊を維持するのが、それなりに大変だということに気付かされる。

 巫弥の苦痛が限界に達した時、戦況は大きく変わった。


 禊が一挙に展開を失い、結界はこの場から失われた。

 衛樹が咄嗟に動き出し、包帯巻きの者との間合いを詰めた。小手調べと、無属の魔術詠唱に入りながら駆け寄って行く。それに変わり、巫弥が俺の許に転がり込んできた。俺に寄ってきては、すぐさま足のバランスを崩し、その場にへたり込んでしまった。肩を上下に動かし、必死に息を整えようとする。胸に手をあてながら苦心する表情を浮かべ、巫弥の視線は衛樹と包帯巻きの者の二人を捉えていた。

 衛樹が詠唱を完成させ、包帯巻きの者にそれを行使する。曰く、物理移動の術。近場に落ちていた、大人の身体より一回り大きい落石を魔術で持ち上げては、それを包帯巻きの者めがけて飛ばす。

 包帯巻きの者は「くだならんな」と呟いて、バリアを作り、飛んでくる落石にあてては玉砕する。そこに少なからずの隙が出来て、衛樹はそこを狙いに足を動かす。

 ある石を懐から取り出して、拳の中に握らせた。

 エメラルドと付加術の融合。エメラルドの新たなるエネルギーを与えし力を、付加術と合わせ、衛樹自身を強化する。

「エメラルドとの同調……、完了。術への変換、及び行使、自己強化術の完成。ここに己の拳を石と化す!」

 包帯巻きの者との距離は、既にあと一歩というところだ。バリアを失い、包帯巻きの者の隙は大きかった。次なる一手を思案する時間さえ与えない。行動から詠唱の全ての必要時間を大きく衛樹の行動は上回っていた。

 包帯巻きの者の腹に、拳が入る。懇親の力を入れ、衛樹の拳は包帯巻きの者の腹を捉える。拳が腹を抉り、外部的衝撃よりも内部的衝撃を、相手に与えた。故に、エメラルドによって己の強化し、助長させた効果は大きい。元々卑猥な体格であろうと、その助長は大きく効果を発揮することとなった。

 包帯巻きの者の顔が歪む。咄嗟の攻撃展開に、ついていけずに、無防備な腹に拳を喰らっては、少しばかし後ずさりし、己の腹の調子を伺った。

「なかなかやるじゃないか」

 衛樹は何も答えない。懇親の力を乗せた為に、己の身体を酷使していた。息が若干あがっていた。

「ど、どうだ……」

 息を切らしながらも、衛樹は切れ切れに言った。包帯巻きの者は、口許を歪めては衛樹にきつい眼差しを送り返した。

「パワーが足りんな。こないだの、後ろの巫女との戦いに比べると、米粒以下なパワーだ」

 包帯巻きの者がそれを言った、次の瞬間には、衛樹との距離が狭まっていた。

「お前、俺以上に隙があるぞ」

 頭を鷲掴みにする。宙に浮く衛樹の身体。足は虚空を蹴り、不様だ。包帯巻きの者の腕に力が入る。衛樹の手からエメラルドの石が落ちた。それを包帯巻きの者は足で捻り潰した。まるで蟻如きの踏み潰すように、いとも簡単に石を潰してしまった。衛樹が苦心の喘ぎ声をあげる。

 衛樹が付加術を使っている最中は、付加術の対象となる物は、身体の一部として見做される。石を捻り潰すのには、足先を踏まれているようなものと一緒だ。

 粉々になってしまった石を見て、包帯巻きの者はただ嘲笑うばかりだ。

「くだらんな! 一撃で終わるなんざ、俺の相手なんて百年早いぜ」

 包帯巻きの者は、衛樹の顔を地面に押しあて、その場を離れる。衛樹は立ち上がることもせず、地面に顔をめり込ませているばかりで、微動だにしなかった。

「魔術士の次は、呪術士か? まぁ、お前もすぐに倒れそうだがな」

 まるで赤子の手を捻るかの如く、包帯巻きの者は巫弥に近寄っては首を締めあげる。巫弥は禊の展開後だ。疲労困憊していて、抵抗する力さえ感じられない。

「何が、伯父を襤褸襤褸にしてくれただ。いい子ぶるのもいい加減にしな。所詮、虚勢張っただけなんだろうが、もっとましな虚勢の張り方は知らんのか?」

 包帯巻きの者は更に巫弥の首を締めあげていく。巫弥は失神寸前だ。衰弱し切った身体に鞭を打っているのと同じだ。

 二人の能力者、曰く友人が悉くそれも呆気なく倒されている。俺は、その光景を、ただ逃げ腰で見据え続けるばかりだ。腰抜けのもいい加減にしろ! 自分に言い聞かせながら、俺は無能者何だということを自覚するのが馬鹿馬鹿しい、

 だからといって、二人が倒されて無碍にされるのが、なんとも許せなかった。

 ある者は言った。「愚直の唐変木」だと。別にそれでも俺は構わない。少しでも、二人の手助けでも出来るのなら、俺は。

 俺は巫弥から玉串を奪い取って、それを竹刀に見立てて包帯巻きの者の右腹を突いては去った。

 玉串……。竹刀と比べると幾分も短い。正直な話、短過ぎて闘いに向いてもいない。それに、巫弥にはこっ酷く怒られるのは、間違いないだろう。

 右腹を突かれ、包帯巻きの者は苦痛から巫弥の首から手を離した。巫弥が地面に落ちては、呼吸を乱す。

 嗚咽をしながら、俺に「無茶するな」とささやかな視線を送ってくるが、俺はそれに気付かずに包帯巻きの者と対峙する。

「やるっていうのか?」

「や、やってやろうじゃん!」

 見え透いた虚勢を張りつつ、俺は心の有りの儘を口にした。包帯巻きの者は、その言葉を訊いて一挙に笑った。「馬鹿馬鹿しい! 生贄風情が何を言ってやがる」と、心底俺を馬鹿にしては、戦意ははっきりと俺に向けられていた。

 包帯巻きの者が、巫弥を無視してこちらに仇視する。俺もまた仇視していた。

 先手に動いたのは、包帯巻きの者だ。二匹の蛇を呼び出して、主と一緒にこちらに向かってくる。二匹の蛇は素早い蛇行を繰り返しながら、口から姿を見せる毒牙をちらつかせる。俺は身構えた。

 思い出せ、四神家で剣道を教わった光景を。戦いは、ただ相手に攻撃を打ち込めばいいわけではない。相手の動きを捉え、それを逆手にとって勝利を見出す。曰くカウンターだ。

 一匹の目の蛇が牙が、俺の足を襲うとする。横に交わして頭を玉串の先で叩いて、次なる蛇に構える。次の蛇は、飛んでは上から襲ってくる寸法だ。俺はそれを玉串を横に薙ぎ振っては森の奥へと飛ばした。最後の包帯巻きの者の攻撃。拳だ。包帯巻きの者にとって、拳を打ち込めばいいだろう、そういったことであろう。直接飛んでくる拳に、俺は身を屈めてた。包帯巻きの者の舌鼓を訊きつつ、玉串の先でまた腹を突いては、横をすり抜ける。

「ちょこまかと面倒な奴だな」

 包帯巻きの者は苛立っていた。速さに翻弄され、いつも攻撃が裏手に取られることに、己に対しても苛立ちを感じていた。

「え、円城……、だ、大丈夫か?」

 衛樹が、立ちあがる。覚束な立ち方は、まるで生まれたての仔馬のようだ。やっと思いでその場に立つと、すぐさま詠唱に入った。

 選び出すのは水晶。力を増幅させる効果を持つ。水晶を手の内に握り、詠唱へと。

「水晶との同調……、完了。術への変換、及び行使……、浄化強化術の完成。円城の骨の髄より力を呼び覚ませ!」

 魔術回路はフル稼働。幾本の筋を、魔力が通い光り出す。魔力は水晶(フィルター)を通って付加術は、浄化強化の術に変化する。

 その魔術を受け、俺は心底から力が湧くのを感じた。まるで温泉が湧いたかのように、温かいこの感覚。後ろ盾を作られたかのようで、己に自身がついていく。故に、身が浄化され、不浄が取り攫われる。何ごとにも囚われない。ただ、己のままに。

 脚力は増していく。元々、スピードに長けていた俺だ。戦闘では、速さで相手を翻弄するタイプである。


「速さに誇る円城に対して、相手はパワーと見受ける。相性はどちからというと円城の方が優勢ではあるが、それでも一撃をやられたら円城でも、流石に持ち堪えられないだろう……。巫弥が早く気付いてくれればいいんだが」

 衛樹はそう苦心の言葉を呟き、最後に巫弥に一瞥加える。巫弥は依然倒れたままだ。起き上がる気が見られない。だからといって、起こしに向かうのでは円城に対する魔術が疎かになってしまう。付加術は、常に意識しておかなければ、効果は薄れてしまう。曰く、円城から目が離せないのだ。

 ただ、円城一人で相手出来るわけがない。衛樹は巫弥を起こすことに決めた。

「起きやがれ! この馬鹿巫女が! お前はそんなに弱い巫女なのか!?」

「あぁん!? 誰が馬鹿巫女よ! 弱小巫女よ!」

 巫弥が鬼の形相で起き上がった。衛樹の「巫女は清楚であれ」の信条から悉く外れた発言をしてだ。衛樹にとってそれは見たくもなかったのだが、この状況下でそんなこと言ってられる筈もなかった。

 巫弥が衛樹に鬼の視線を送りつつ、円城に一瞥した。

 円城が戦っている。巫弥にとって、それは意外なことでもあった。魔術士と戦っている。それも、若干の劣りを円城には感じるのだが、互角にも見えなくはない。

「無茶なやつね、もう全く。どうして、私の配下にはいいやつがいないの?」

「上の立つ者も、いいやつじゅないけどね」

「衛樹! あんた、覚えておきなさい。後で蛸殴りの刑に処してあげるから」

 それだけを言い残して戦線の第一線に巫弥は赴いた。こうして、いつもの調子に戻った巫弥は、上辺では衛樹を虚仮にしておきながら、実のところ感謝していた。


 包帯巻きの者に対する攻撃は、ゆうに十回は超えた。ただ、それでも包帯巻きの者が倒れる様子はまったくなかった。こちらとて数回の攻撃は受けている。玉串を両手で持ってりうのだが、左腕を拳で殴打され――それも魔術の勢いに乗せた殴打なので――、骨の数本折ってしまったかもしれない。軽く痛むのだが、気にしてはいられない。

「円城! 無茶するんじゃないわよ」

 巫弥が戦線に入って来た。俺にとっては待ちに待っていた援軍である。包帯巻きの者にとってはこの援軍は些か面倒である。

「二人。いや、三人相手か。まあ不足はない。ただ、餓鬼から大人の成り上がりだろうが、お前らは。そこの生贄はともかく、お前らは盾突けない程にまでぼこぼこにしてやるよ」

 包帯巻きの者が詠唱に入る。そして、何とも早い魔術詠唱を完成させ、蛇ならぬ大蛇を呼び出した。

「貴様ら! 全て飲み込んでやるよ!」

 三対二のこの戦況。どちらが勝つとも思えない戦いにへと発展していく。

 大蛇が巨体だ。包帯巻きの者の身長を二回り大きい体格だ。人なんて簡単に飲み込んでしまいそうな程の大きな口を持っていた。

「円城。少しだけ時間を作ってくれるかしら?」

「ん? ど、どういうこと?」

「そのままの意味よ」

「わ、わかった」

 否応なしに、巫弥は俺に言い付けると、俺は玉串を強く握った。

 包帯巻きの者と大蛇が対峙する。二つの圧巻は些か大き過ぎる。そこにいるだけでそれだけの大きな存在感を醸し出し、矮躯な者だとすぐさま己の敗北を感じるだろう。一人で勝てる見込みが、一切なかった。

 包帯巻きの者が指示する。ただ「喰え」と。それだけの命令に、大蛇が従順に受けて大きな口を開けて叫び声をあげる。「しゃー!」とこの場を轟かすと、身体をうねりながらこちらに向かってくる。

 それに合わせて、俺は走り出した。

 大蛇の一撃目は、俺の足許に食らいついてきた。足を一切動かさなければ、あっという間に足は持っていかれる。横に飛んでは避け、大蛇の側面に回る。狙うは眼ただ一つ。

 横に飛び、反復でまた飛ぶと、大蛇の眼めがけて玉串の先を向ける。

 ギョロリ、と大蛇の眼がこちらに向いた。漆黒の瞳の中に、赤い細い瞳孔の先に見える水晶体。まさに蛇に睨まれた蛙のようになってしまい、俺は足が止まってしまった。

「あの馬鹿。まともに見るんじゃないわよ、全く」

 視線は動かずとも、巫弥の声は耳が受け取った。明らかに馬鹿にされているのは明確だ。

「呼び出せる十二時辰は……、亥! よし、猪か! これは勝ったも同然ね!」

 巫弥はそう独り言を呟くと、すぐさま亥を呼び出しにかかった。

「十二時辰より呼び出し獣は、現十時においては亥。ここに術式は完成す! 祓え給え!」

 巫弥は懐から式神を取り出し、それを宙に放つ。宙に放たれた式神は、蒼い炎に包まれ、そこから猪……、ではなく豚が登場した。

 ブヒブヒ、と独特の肌色の体毛を持ち、若干腹が重力に負けて、地面に向かって落ちている。今にも食べ物を捜しに行こうと、豚自身が思っているんじゃなかろうか。出来れば、トリュフを……。

「ぶ、豚!?」

「豚!? 巫弥、さては詠唱間違えたんじゃないのか!?」

 咄嗟に衛樹の野次が飛んでくる。巫弥は「えぇー、とー」と言い淀んで今の状況が理解出来ない様子だった。

 それを見て、包帯巻きの者が笑った。

「アハハハ馬鹿馬鹿しい! 何が亥は猪だ。さては、お前は知らんな、似非巫女」

「似非巫女とは何よ!」

「ふん。十二時辰を術として使っておきながら、知らないとは愚か者だな。

 いいか、亥は猪なんかじゃない。それは中国からやってきたことは知っているだろう。亥は猪。それは日本だけの認識だ。中国では亥は豚だ。子沢山の意味が込められているんだよ。十二支の文化が日本にやってきた時、日本には豚なんて当時いなかったから、似ていた猪にそっくり代役を任せたんだ。それも知らんのか? 裏世界では常識だぞ」

 巫弥が後ずさりをした。

「ふ、ふん! そんなの知ってたわよ! いいじゃない。豚で蛇に挑んでやろうじゃない!」

「無茶だ! 無茶苦茶過ぎる!」

 巫弥の一言に、衛樹は頭を抱えた。豚と蛇では互角すら張りあえないだろう。これは、勝負は包帯巻きの者に傾いたのは間違いないだろう。

「巫弥、大丈夫か?」

 流石の俺でも、巫弥を心配してしまった。巫弥はばつが悪そうにそっぽを向いて、「だ、大丈夫よ」といかにも虚勢を張っている感じが醸し出した返事を寄こした。

「アハハハハ! け、傑作だ! お前ら傑作だよ! 笑い過ぎて腹が捩れちまう」

 本人曰く、包帯巻きの下の腹は、恐ろしいことになっているのだろう。

「ぶ、豚か。アハハハ! この俺の大蛇に立ち向かうのが、ぶ、豚だとわな。アハハハハ! 笑止千万! アハハハハハ」

「ぶ、豚を舐めるんじゃないわよ!」

 巫弥は激昂に身を任せて、己を突き動かす。

「行きなさい、豚! あの大蛇を喰らって、子供でも作りなさい!」

 巫弥は半ば壊れつつ、豚に命じる。豚は従順に「ブヒー!」と独特の雄たけびをあげて、猪の如く大蛇に向かっていく。大蛇が向かってくる食物に、興味津津の様子で、俺から視線を逸らした。

「馬鹿な使い魔だな……。俺の付加術でも強化したところで意味がなさそうだが……」

「衛樹の言いたいことはよくわかる……」

「二人とも!? 何か言った?」

「「いいえ、なにも」」

 息のピッタリな俺と衛樹が、声を揃えて言った。巫弥が鬼の形相でこちらを見るので、お互いに肩が竦んでしまい、反論さえもなにも出来なかった。

 巫弥は豚だろうが、何であろうが、大蛇に勝つつもりでいる。巫弥自身が、敗北というものが嫌いな性質だ。

 包帯巻きの者は、相変わらず笑いながら「豚が蛇に挑むだと!? 似非巫女よ! 弱肉強食という言葉を忘れるな! 豚如きに、蛇が倒せると思っているのか!?」と、巫弥を挑発する。当本人は「言ったわね!? 首綺麗に洗って待ってなさい!」と受け立つつもりである。

「円城! 巫弥を止めろ! 戦闘において、感情に流されてしまったら終わりだ! 戦況がわからなくなる。それじゃ、俺達が不利になる」

 感情に流されてはいけない。自分自身でも抑えが利かなくなってしまうなど、戦う者としては決していけないことだ。感情のままに戦うなど、ただ暴虐に戦っていることと同じ。狂戦士(バーサーカー)じゃあるまいし、相手の口車に乗せられ、理性を失ってしまえば、相手の思う壺だ。衛樹はそれを危惧しているのだろう。俺に止めろ、と言っているのだが、どう止めたらいいのやら。軽く、首ともにでもチョップすればいいかな。

 戦況はいい方向へとは転がらない。豚は呆気なく大蛇の腹の中へと丸のみで入ってしまった。一瞬にして、巫弥の使い魔は消滅し、丸腰となってしまった。包帯巻きの者は、高笑いをして巫弥に近づく。

「成り上がりの巫女が!」




 ――成り上がりの巫女。それは、巫弥の嫌う言葉の一つだ。




「いい気になるのも大概にしろ!」

 包帯巻きの者は、ただ立ち竦み、使い魔を失って俯いていた巫弥に近づく。巫弥は何の抵抗も見せない。ただ拳に力を込めているだけで、それで悔しさを噛み締めている。

 包帯巻きの者は、巫弥の首をあげては、巫弥の頬を殴った。

「なっ!」

 俺は走り出した。巫弥がただ殴られているのが、気に食わなかった。それに、あの言葉を呟いてしまったのだ。もう、包帯巻きの者の手には負えなくなるだろう。

 巫弥は殴られても動じなかった。

 衛樹が一言言った。「言ってはいけないことを……」と、ただ合掌するばかりで、なに一つ動作しなかった。

「てめぇー! 殺すぞ!」

 巫弥が鬼に変わる。呪術回路は最大限に使役され、腕から血が滲む。幾十の回路の筋が浮き出て、それは真赤に染まっていた。血染めの回路は、巫弥の激怒に乗じて威力を極限にあげていく。

「駄目だ。巫弥がこれじゃ壊れる。円城!」

「止めろって言うんだろ! わかってるよ!」

 巫弥の呪術回路は、今にも限界を突破する。腕から血が滲むのはその証拠だ。

 過度の呪力伝導は、身体に負担をかける。魔術士、呪術士なら必ず弁えておかないといけないことでもある。

「巫蟲の術で、貴様如き、毒で呪い殺してくれる!」

 一枚の和紙を取り出した。「蠱毒(こどく)」と書かれたそれを、地面に突き刺した。

「馬鹿な奴だ。巫蟲は――」

 巫蟲は危険性が高い呪術の一種だ。呪術士の中でもあまり使うものは少ない。毒を持つ昆虫、動物の類に属する生き物から、抽出した毒を盛った蟲を使い、相手を殺す呪術。何千匹と言う蟲は群を成す為に、呪術回路は最大限にフル稼働しなければならない。巫弥とて、巫蟲を使うのは些か危険過ぎた。巫弥が扱える呪術を十とするのなら、巫蟲はそれを倍に上回る。

 呪術回路は言わば血管だ。血管が破裂してしまえば、そこから呪力は体内へと流れ出す。呪力個体は、普通人間が成しえない術を完成させる為の源である故に、強い力を持つ。生身の人間には、それは扱い切れない代物で、つまるところ、使いようによっては、諸刃の刃なのだ。

 今、呪術回路の欠損は大変なことでもある。回路自身の蘇生は、難しいとされる。一度損傷してしまった箇所は、治るのに最低一年かかるのだ。

「さぁ! 嬲り殺しにしてくれるわよ! 行きなさい! 私の蟲達よ!」

 巫弥が叫ぶと、地面より蟲が飛び出してくる。それは足もない。体毛もなければ、濡れている。ただ口があるだけで、その口の中には毒牙が幾つも仕込まれていた。

 何千という群を成して進む蟲達は、包帯巻きの者及び大蛇に向かって奇声をあげて向かう。足がないくせして、なかなか素早い蟲達は、巫弥の回路から送り込まれてくる呪力によって、活性されている由縁だ。

 巫弥の右腕に、また一つ、また一つと皮膚が割かれていく。呪力が少しずつ漏れ出しては巫弥の体内から嬲っている。巫弥自身気付いていない。

「巫弥! お前こそ無茶するな!」

 蟲達を踏みつけては、その主に向かっていく。巫弥はただ包帯巻きの者だけを見て「死にさらせ!」と不浄に満ちた声をあげる。四神家の人達が訊いたら折檻されてもおかしくない奇声をあげている。

「巫弥! 止めろって言ってんだよ! お前、死ぬつもりか!? お前、この腕見ろよ!」

 巫弥に駆け寄っては俺はただそれだけを言って、巫弥の腕を取っては、それを見せた。

「円城! 邪魔よ! 私はね、成り上がりの巫女じゃないわよ!」

 巫弥……。彼女は四神家に巫女としての武者修行に出ている。それは、巫弥自身の家族に問題があるのだ。

「馬鹿野郎!」

 俺は巫弥を殴った。巫弥は宙に浮き、衛樹の許に倒れ込む。衛樹が巫弥に肩を貸して立たせた。




「お前、まだ弱い巫女だな」


◆◆◆


 彼女は虐められていた。それは家族に。元々、彼女は神道家系に生まれた生粋の巫女だ。父親も母親も巫であり、兄も姉も、巫であった。故に、皆巫としての能力には開花していた。ただ、彼女だけは違った。彼女は、呪術士家系に生まれておいて、然程の能力には開花しなかったのだ。

 彼女にとって、それは劣等感ただ一つだ。何物でもない。

「ハァ? お前が巫女? 全く馬鹿馬鹿しいぜ」

「本当よね。巫女の巫の字も当てはまらないわよ、あんたには」

 兄と姉にそう毎日言われ続け、更には両親からもそうやってあしらわれれきたのだ。

 ただ一人で泣いていた。




 ――無能の巫女だ……。




 雨の日の夜、あまりの言われように家を飛び出したところで、誰も追っかけてはくれなかった。ただずぶ濡れになって、最終的に駆け込んだ誰もいない公園で、一人泣いていた。

 雨にも負けない程の涙の多さ。ただひたすら泣いて、泣いて、己が馬鹿馬鹿しくて、自暴自棄に入っていった。

 家に帰ったところで「お帰り」の一言もない。「うわ、帰ってきやがった。母さん、不浄な成り上がりの巫女が帰ってきやがったぜ」「本当だ。滑稽だわ。見て、裾なんて泥だけじゃない。この神聖な家に上がらないで頂戴」と、ただ罵詈雑言を浴びせられるばかりだった。

 ふざけんじゃないわよ! 何が無能よ!

 彼女は家族への恨みを持っていた。いつの日か、見返してやる。そう思い切ったのだ。

 やがて、本気で家を飛び出しては、五大神道一家と謳われている四神家を訪ねた。

 最初は相手にはしてくれなかった。「なんだ、お前」と、四神家の当主の銀二さんが、言った。「お願いです! しゅ、修業させてください!」と、まだ小学校に通い始めた頃の歳で、彼女は四神家を訪れた。当時は、四神家に相手もされず、門前払いの日々だった。ただ、彼女には帰る場所がなかった。毎日、待っては、やっとの思いで修行させてくれることを勝ち取り、今に至る。

 彼女は、無能な自分。弱い自分が大嫌いだった。


◇◇◇


「何よ、珀。私に盾突くつもり!?」

「お前は馬鹿だよ! 自分で弱い自分が嫌いだって俺にいっておきながら、こんな馬鹿馬鹿しいこと言われて、ただ己の弱いところ突かれて、自分が抑えられなくなってるなんて、馬鹿で弱いよ。巫弥。お前は、そんなに――」

「畜生、俺をさて置いてなに言ってやがる!」

 包帯巻きの者は、蟲達に囲まれて翻弄されている。

「ったく、歩が悪い」

 包帯巻きの者は、大蛇に飛び乗っては「お前らの戯言には付き合ってられんな」と、文字通り尻尾を巻いて森の中へと逃げていった。それを蟲達は追っていった。

「あっ、こら! 待ちやがれ!」

 衛樹も歩が悪いのだろうか。この場を去って包帯巻きの者を追った。

 残った俺と巫弥は対峙する。

「円城。あまり言い過ぎると、殺すわよ。呪詛でも何でも、嬲り殺しにね」

「巫弥。俺は――」

 彼女は、自分の弱い部分を隠したくて、あんなにもなっているのだ。彼女に気付かせないと、この場は収拾を得られない。

「お前みたな巫弥が大嫌いだ!」

 ありったけの気持ちを今の巫弥にぶつけた。巫弥は「な、何言ってるのよ」と言っては若干の後ずさりを見せた。

「巫弥、あんたは弱いよ。馬鹿な程にな」

 彼女は、無能から有能へとなった。だからといって、まだ克服出来ていない部分はある。弱い自分を嫌っていた。だから、それを打破したくて、四神家に入ったんだ。

「わ、私は――」

「気付いてくれ。巫弥は、家族が見返したくて、四神家に修行に入ったんだろ。術を覚えて、いつの日か家族を見返す為に。自滅する為に、覚えたんじゃないだろ!」

「そ、それは……」

 巫弥自身、巫蟲の術の危険性は知っている。故に、使えば己を破壊することも。

 巫弥の呪術回路から光が失われていく。ただ、血管の破裂は治まらず、やがて感情が戻る。

 ただひたすらに「痛い」と言ってその場に倒れてしまった。


 やがて、衛樹が戻って来て、すぐさま巫弥の腕の治療に取り掛かった。

 幾分の回路の断裂は起こっていた。でも、呪術士としての人生は、まだ歩める程の回路は残っていた。ひとまず心配はいならい、と衛樹は言った。

 道端に三人で腰掛けて、一連のことが終わり、小休止していた。

「ふん。ちょっとドジっただけよ。え、円城に言われるなんて、お、思ってもなかったわ」

「ったく。巫弥……、暴れると融通が利かないんだから……」

 愚直の唐変木と妹達に言われた俺が言うのもあれだが。

「本当だよ」

「衛樹こそ、巫女に対しては融通が利かないだろ」

「え、円城……。そ、それは的を射過ぎている……」

「ふん、衛樹こそ本当のことじゃない」

「巫弥に言われたくないね」

 言い合っておきながら、俺達は笑い合っていた。


◇◇◇


 巷で起きている事件が、包帯巻きの者であることは間違いないだろう。

 あの出来事で、俺も納得がいった。

 衛樹が事後報告で「包帯巻きの者は、追ったには追ったけど、大蛇に乗ってたから逃げ足が速くて……」と取り逃がしたことに、巫弥が口を尖らせて「あっそ。ならいいわ」と呆気なくあしらった。

 やがて、俺達は解散し、各々の自宅へと足を向けた。


 帰路の道中、俺は包帯巻きの者に言われた「同志」について黙考していた。

 俺が同志? どういうことなのだろうか。おかし過ぎる。俺が何の関わりがあるというのだろうか。全くといって関連性が見出せなかった。包帯巻きの者は、全身に何かがあるのだろうか。そのようなことを言っていたのを覚えている。

 けど、やっぱりわからない。包帯巻きの者との関わりが。殺人鬼との関連が、一切見出せず、俺は帰宅した。

 あともう一つ気がかりなのが、眼と俺だけに聞こえる声のことだ。これらは、今度巫弥と衛樹と一緒に考えることにしよう。


◇◇◇


 自宅に帰り、玄関に入って早速須雀と出会い頭に会った。

 須雀は仲居の仕事が終わったところなのだろうか。前掛けを外し途中であった。それでも、俺が帰ってきたことで、そんなことは途中で放り投げては「お帰りなさい」と、澄んだ声で俺に言った。俺は「ただいま、須雀は仲居の仕事はあがりか?」と訊くと、「えぇ」と一言だけ答えた。

 玄関に上がり、自室に向かう。

 自室は、朝から何にも変わっていない。布団の横に置いてあるくまのぬいぐるみ。部屋の配置から何までが朝の再現そのままだ。

 浴衣に着替えて座椅子に座ると、テレビの電源を入れた。

 内容はバライティ番組だ。ただ、時間帯的に終わりに近づいている。数分の中で、芸人達がお笑いネタを披露する番組で、床に伏していた時によく見ていた番組だ。俺にも、やっとお気に入りの番組を見付けることが出来た。

 バライティ番組は終わってしまい、次の番組の間、数分の中に押し込められた定番の中継ぎ地元ニュースコーナーが始まる。幾つかの地元ニュースをキャスターが読み上げた。その中に、山道で遺体発見、とのコーナーがあった。

 そして俺は思う。

 しまった! 通報してないな!

 あっ、いや、もう世間に知れてるってことは、巫弥か衛樹が通報でもしたのか? もとい、俺に電話なんてもの扱える筈もないから、通報もなにもない。

 ニュースを見て、気が萎えた俺は、自室を出ては、ただ宛てもなく歩き続けた。

 途中、琥凛とすれ違っては、軽く戯言を言い合ったり、親父と会っては、今後のシフト等の打ち合わせしたり、とあの事件を忘れさせてくれるようなことばかりが入ってきて、俺は少なからず上機嫌になっていた。

 家族二人と出逢ったのなら、あともう一人、せめて須雀と顔を会わせたかった。まあ、玄関先で会ったんだが、なんとなくだ。

 須雀が仕事を終えた、となると、部屋にいるだろう。

 須雀の部屋を訪ねる。

「いるか? 須雀」

 部屋から反応はなかった。扉は鍵などかかっていなかった。入ってみると、部屋には誰もいなかった。

 部屋は整理整頓の行き届いている。どこかに隠れる、なんてことも出来ないし、元々須雀はそういった人物ではない。来客は丁寧に持て成すのが彼女の信条だ。そこのところ、仲居としての信条でもあり、故に清楚で可憐な仲居さんとも言われる由縁である。

 それにしても、須雀の部屋には本棚が多い。ざっと、五つは並んでいる。円城家において、須雀は一番の読書家であり文学者だ。もしかしたら、一番勉学に長けているのは須雀だろう。次に琥凛、俺――畜生! 妹二人に負けるとは、不甲斐無い……――と続く。

 本棚に並んでいるのは、どれも、俺にはわからない著者ばかりのものだ。中には、あぁあの人かな、なんてわかる物はあるのだが、それでも内容まではわからない物ばかりだ。

 吾輩は犬である。

 人間失脚。

 運命の夜。

 破戒。

 魍魎の玩具匣。

 月の姫。

 様々だ……。手に取って見ても、全くわからない。

 眉を顰めつつ、俺は本棚に本を戻すと、ふと部屋のベランダに続く扉が開いていることに気付いた。

 そちらに足を運んでみると、庭で一人佇む須雀の後ろ姿を見付けた。

 蒼黒い和服は、この場においては漆黒に近い。闇に溶け込む彼女の克明に示すのは、赤黒い髪だ。漆黒の闇の中にあるその赤みの掛った髪。風に靡かせられ、それは綺麗に風に攫われ浮いた。

 寂寥としているこの庭に向かって、彼女は歌声を披露していた。

 アカペラだ。彼女の声は、もはや演奏さえも凌駕させるほどの美声の持ち主だった。俺は後ろから訊いているだけなのだが、それでも、須雀の歌声には圧倒される。彼女の歌声は、脳天を貫く程で、自然と心が安らぐ。ずっと聴いていたい、もっと聴いてみたい。彼女の歌声には、そんな魔の声が潜んでいた。俺は間違いなく、魔に侵された一人だ。

 眼を閉じて聴き入っていると、突然歌は止まってしまった。あれ、終わりかな、と瞼を開けると、須雀がこちらを見ている。ちょっとばかし、顔が訝しんでいる。

「兄さん」

 それだけを言って、きつい視線を俺に向けてくる。

「あっ、ごめん。邪魔だったよね。そ、それに、勝手に聴いちゃってさ」

「……。一言声をお掛けになってくれればよかったのに」

 須雀のきつい物言いに、俺は窮地に立たされていくばかりだ。

「そ、そうなんだけどさ。須雀の声が綺麗過ぎて、つい声をかけるのも憚れたというか……」

 突然、須雀がばつが悪そうにそっぽを向いた。闇に溶け込む横顔に、赤い林檎(ほほ)が浮かんだ。

「ごめん、須雀! とっとと帰るから、そのまま続けていいよ」

「ま、待って」

 俺が踵を返そうとして帰ろうとした時、須雀は俺を引き留めた。そして、ただ「別に帰らなくていい」と、静かに懇願した。こうなると、帰り辛い。かといって、居ずらいのも確かだが、まあ、須雀の歌声を聴くことで帳消しとした。

 須雀は俺に背を向けて、また庭に向かって美声を披露する。

 自然が演奏する。彼女の声に合わせて、ゆっくりと木々を靡かせ、風が水面をハープの如く奏でていく。虫達の鳴き声演奏。彼女は自然というオーケストラに囲まれ、喉の奥から声を出す。その声は、庭に向けて、そして、俺に向けて。各々の心を癒していく。

 やがて、歌声は止んだ。それでも、自然は演奏を止めようとはしなかった。まだ、彼女との共演を楽しみたいのだろう。

 須雀は俺に振り返って、「ど、どうでした、兄さん」と、覚束ない口調で言った。俺はつい聴き入ってしまっていたので、ふと訊かれて「えぇ!?」と我に返った。「に、兄さん?」と、心配そうに聴いてくる須雀に、俺はただ一言「ありがとう」とだけ言って、その場を去った。

 何もかも忘れさせてくれるその歌声は、天にまで届く歌声であった。

 須雀は、また頬を赤らめて俺に背を向けたことに、俺は気付かずに部屋を後にした。

 いつの日か、琥凛は言っていた。姉のことを「乙女ですよね」と。

初めまして、四夜です。「今さら挨拶かよ!」なんて思われう方もいるでしょう……。正直な話、後書きを書くのを怠った俺が原因です……、失敬……。


気を取り直して、蹂躙命運をここまでお読みになってくださってありがとうございます。何だか思いのままを書きつづっているので、拙いものですが……、読者方々には感謝感激です。


蹂躙命運ですが、全体的に、第零章から第四章までを予定しております。まだ駆け出したばかりですが、何卒お付き合いを。


余談ですが、執筆自体は、一、二週間程度の更新を目安としており、内容によっては一ヶ月近くも要したり……。なるべく早めの次話投稿を心がけますので。


では、04の後書きでまたお会いしましょう(次回後書き未定)

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