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怪異調査事務所へようこそ  作者: とど
四章 相馬恭一郎の願い
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4-10 求めたその先は

 菜月は言葉も出ずに目の前に差し出された手を見つめた。それはそうだ、突然異能を譲ってほしいと言われて混乱しないはずがない。


 その手を取ることを躊躇った菜月は困惑しながら五樹を見上げる。確かに菜月が異能に目覚めてから、沢山痛い思いをしてきた。すぐに怪我が治るからと言って痛みが無い訳ではないし、怪異に追いかけられて恐怖を抱いたことも何度もあった。

 しかしだからと言ってこの異能が無ければ、と思ったことは今まで無かったのだ。



「そんなこと、急に言われても」

「僕には君の力が必要なんだ。この研究を完成させるまで、沢山の人を犠牲にして来た。だから僕はそれに見合うくらい……それ以上の人を救わなければならない」

「でも」

「お願いだ、音羽さん。相馬君だって君が怪異と戦って危険に晒されることなんて望んでない……彼は誰より君が大切なんだ。音羽さんに何かあったら、異能が無くなっても相馬君が救われることはない」



 五樹は顔を歪めて菜月に手を伸ばし続ける。菜月の異能に攻撃性はない、だから浚った時のように有無を言わさずに気絶させることだって出来るのに、しかし彼は決してそうしようとしなかった。



「君はもう怪異なんて気にしなくていいんだ! そんなもの忘れて、相馬君と幸せになってくれれば――」

「……え?」



 不意に五樹の言葉が不自然に途切れる。口を閉じた彼は何故か虚ろな目をして伸ばしていた手を引っ込め、そして前屈みになっていた体を起こして菜月から離れた。

 突然可笑しな行動を取り始めた五樹に何があったのかと彼を見守っていた菜月は、次の瞬間それを後悔することになる。


 ふらつく足で数歩後ずさった五樹は、傍に置かれていた治療器具を振える手で漁って鋭いメスを掴み取る。他の刃物に触れて手が血塗れになるのを意に介さない五樹は、強く握りしめたそのメスで――


 自分の胸を、思い切り貫いたのだ。



「ぐっ……ぁ……」



 一度ではない。何度も何度も執拗に繰り返される自傷行為によって、血飛沫が飛び散り床を赤い液体が這う。狂ったように自らの胸を刺す五樹に、菜月は驚きと恐怖で一瞬動けなくなった。



「い、五樹先生っ!」



 嗅覚を刺激する濃密な血の匂いに吐きそうになりながらも、菜月はふらつきながら立ち上がる。急いで五樹を止めようと彼に掛け寄ろうとしたが、しかし彼女の足は数歩進んだだけで止まり、そして何故か菜月は両膝を着いて頭を抱えて蹲ったのだ。



「え……あ……うわあああっ!」



 頭の中を侵食してくる何か。それによって菜月はそれ以上歩くことも出来ず、その気持ち悪さに悲鳴を上げた。頭痛がしている訳ではない。しかしまるで頭の中に手を突っ込まれてかき回されているような感覚に、彼女は狂ってしまいそうになっていた。


 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。

 頭を抱えてその不気味な感覚が去るのを待つ彼女だったが、しかし一向に収まる気配はない。それどころか菜月の目の前に何者かが近付くにつれ、その不快感は更に酷くなった。



「あなたに治させる訳には、いかないんです」



 ぐちゃぐちゃになった思考の中で何とか聞こえた声に菜月は顔を上げる。そこには、先ほどからずっと口を開かずに五樹の背後に座り続けていた男、影が静かに菜月を見下ろしていたのだ。


 まるで存在しないかのように気配を消していたその怪異の背後で、五樹がゆっくりと崩れ落ちる姿が菜月の目に焼き付いた。



「いっ――」

「相馬恭一郎は苦も無く使っていましたが、難しいですね。先程からずっと異能を使おうとしていたのに、ようやく効果が現れ始めた」



 思わず五樹に手を伸ばした菜月だったが、当然碌に動けない彼女の手が届く訳もない。血だまりに伏せる五樹を瞬きもせずに見つめた菜月は、しかし更に強烈になる気持ちの悪い感覚に、再び顔を上げることも出来なくなって頭を抱えた。


 それでも彼女は、目の前に立つ影の言葉の意味を何とか理解した。五樹の狂ったような行動も、そして今菜月自身を苦しめているものも、全て彼が起こしたものなのだと。



「どう、して……」

「……あなたには、分かりませんよね。常に他人に命を握られ続ける恐ろしさなんて」



 影はぽつりと呟くと踵を返して五樹の傍に散らばっている血塗れのメスを拾い上げ、そして菜月の元へと戻って来る。



「私はただ、死にたくないだけなんですよ。保護なんて名目でいつ気が変わるかも分からない異能者に命を握られるのも、他の怪異に殺されるかと怯えるもの……もう沢山だ。この力さえあれば、もう何も恐れる必要などないんです」



 事務所には攻撃しないと約束されているものの、それだって異能者のきまぐれで簡単に覆されてしまう。実際に彼は以前空に殺されかけたのだから。

 影は、その印象の薄さを利用して様々な場所に入り込み、生き残る為に必死に情報を集めて来た。いつ殺されるか分からない恐怖の中、不意に他の怪異を狂わせている恭一郎の姿を目の当たりにした時、あの力さえあればと思ったのだ。

 怪異の生は長い。だからこそ、生きれば生きるほど死に対する恐怖は余計に強いものになっていった。


 力があれば生き残れる訳ではない。むしろ強い力を持てば持つほど他の怪異や異能者に狙われる可能性は上がる。あの“炎”だって沢山の敵に狙われていたのだ。それならば最初から目立たないようにひっそりと生き、しかし確実に身を守れる力があればいい。



「ですが、それにはまずこの力を持っていると知る者がいては困るんです」



 この力は実体が分からないからこそ恐ろしい。もし知られて異能の射程外から攻撃されたらそれで終わりなのだから。

 影は拾ってきた真っ赤なメスを音を立てて菜月の目の前に落とした。まずは異能を使いこなせなければ意味がない。確実に始末しなければいけないこの二人は――その練習に打ってつけだったのだ。



「……ぁ」



 死ね、と菜月の頭の中に声が響く。がたがたと震える手が無意識のうちに動いてメスを握ろうと伸ばされる。


 死ね、死ね死ね死ね死ね死ね――

 頭の中を侵食するその言葉に従うまま、菜月の指がメスに触れる。しかしそれを掴む直前、脳裏を満たす声とは違う何かを微かに聞き取った彼女はその動きを一瞬躊躇った。



「お、音羽さ……駄目、だ」



 僅かに思考を邪魔したその声に、菜月はなんとか顔を上げる。大量の血を流す五樹が、薄目を開けて必死に声を絞り出していたのだ。そしてその声に気を取られたのは菜月だけではない。

 影もまた、まだ五樹が生きていたことに驚いて後ろを振り返る。その瞬間、ほんの少しだけ菜月の頭を狂わせる声が弱まったのだ。菜月は咄嗟に伸ばしていた手を動かし、そしてメスではなく傍にあった影の足を強く掴む。



「な」

「あああああああああああっ!」



 影が振り返るがもう遅い。菜月は侵食してくる声を振り払うように大声を出し全力で異能を発動させたのだ。慌てて菜月を止めようとするも、たった今異能を使い始めた影ではそれを止めるのは到底間に合わない。

 菜月の異能が発動した瞬間、影は頭が割れるような痛みを覚えた。



「な、うあああああああっ!」



 いや、比喩どころではない。事実、その瞬間影の頭は裂けるようにして割れ、包帯が血飛沫を浴びて真っ赤に染まったのだから。

 菜月が無我夢中で使った異能は移植手術の傷口を無理やり開かせ、そして血飛沫と共に小さな何かが影の頭から飛び出した。それは意志を持ったかのように宙を舞い、そして部屋の入り口近く――大きな音を立てて扉を開けた人物の足元へと落ちたのだ。




「な、つ」



 物音を聞きつけて部屋に飛び込んできたのは恭一郎達四人。そして彼の足元に落ちたのは、先ほどまで彼自身の物であった脳の一部だったのだ。



「げほっ」



 影から移植した脳が離れたことによって菜月の頭の中に響いていた声が消える。しかし安堵したのもつかの間、彼女は途端にこみ上げて来る嘔吐感に耐え切れずに咳き込み、そして……口元を押さえていた右手が真っ赤に染まった。

 影の異能に抗った上無理やり異能を発動させた菜月に、体が悲鳴を上げたのだ。



「兄さん!」

「先生、菜月!」



 部屋の惨状に、新たに入って来た四人は一瞬思考を停止させる。しかしすぐに我に返ると恭一郎を除いた三人は五樹と菜月の元へ急いだ。



「わ、私の……異能、が、ああ」



 そしてただ一人入り口で立ち尽くしたままだった恭一郎は、頭から血を流しながら彼の足元――正しくは足元にある脳の一部に縋り付こうとする影を見る。胸に大量の刺し傷を残して倒れ伏す五樹と、吐血しながら横たわる菜月、そして目の前に落ちて来た自分のものであったそれと、それを自分の異能と叫ぶ怪異を見た彼は――理解してしまったのだ。

 この状況は、紛れもなく自分のものであったそれが引き起こしてしまったものだと。



「最悪、だ」



 恭一郎は酷く苦りきった声を出すと、そのまま何の躊躇いもなく思い切り足元のそれを踏み潰した。こんな異能が存在したから、また悲劇が生まれた。影の悲鳴など聞こえないように、ぐちゃりと音を立ててそれを原型を留めない程に潰した恭一郎は、それからようやくふらふらと菜月の元へ向かった。




「兄さん! しっかりしてくれ!」

「……はは、罰が、当たったんだろう、な」



 血の海から五樹の体を起こした八雲は、大量の刺し傷と出血量を見て息をすることも忘れる。囁く程の小さな声で自嘲する兄はまだ生きているのが不思議なくらいの重傷で、それでも諦め切れずに八雲は必死に止血をしようとする。



「五樹、先生っ」



 空と雅に両側から支えられた菜月が五樹の傍へ膝を着く。一人で立つことも儘ならない菜月だが、構わず五樹の体に触れて異能を発動させる。

 しかし、それが効果を成すことはなかった。



「なんで……! 効いてよっ!」

「もう、いいから」

「何でですかっ!」



 弱々しい力で菜月の手を振り払った五樹が首を振る。菜月の異能が追いつかない程に、五樹の体は死に近付きすぎているのだ。



「君の、異能は……もっと、大事な人に、使うんだ……僕なんかじゃなく、ね」

「何言って」

「先生……」



 ようやく菜月達の元へたどり着いた恭一郎は、ゆっくりと崩れるようにしゃがみ込み、震える声で五樹を呼んだ。



「俺の、所為で……」



「っ相馬ぁ!」



 懺悔を口にしようとした恭一郎の背後で、ゆらりと影が立ち上がる。頭から大量の血を流す怪異は、聞いた者が呪い殺されてしまいそうな憎悪の声を上げて右手に掴んだ刃物を恭一郎に向かって振りかざす。



「死ねええええっ!」



 茫然自失とした恭一郎は振り返ることすら出来なかった。菜月は涸れた喉から声を出すことも出来なかった。雅も空も反応するには距離があり、八雲は恭一郎を庇おうとしたものの、その前に傍に居た者に突き飛ばされた。



「っあ、がっ……」



 そして八雲を突き飛ばした五樹は、あるはずの無い最後の力を振り絞って恭一郎と影の間に体を割り込んだのだ。

 刃物が抜けないほど深く突き立てられたそれに、五樹は小さく笑っていた。これだけ穴だからになっているのだ。もう一つくらいその役目を受けるのは自分しかいないだろうと。



「五樹先生! ……ふざけるなあああっ!」



 空が叫んだ瞬間、影は一瞬にして炎に包まれる。一気に燃え上がった炎はあまりの火力に影をすぐさま焼き尽くし、そして数秒も経たないうちにこの世から消し去った。


 あれだけ生に縋っていた怪異は、あまりにあっけなくその存在を無くしてしまったのだ。













「さいごに……一人だけでも、救えた、の、かな」



 五樹は痛みすら感じなくなった体で、小さく呟いた。自分が犠牲にしてしまった人を思えば、もっともっと多くの人を救わなければならない。だが、それももう無理な話だ。

 駆け寄ってくる弟を霞んだ視界の中で見つけた五樹は、今まで抱えていた懺悔をぽつりと口にした。


「兄さん!」

「八雲……ずっと、言いたかったんだ……兄さんを、助けられなくて、ごめん」

「何言ってるんだ! あれは、俺が――」

「助けて、と……その約束を、守れなかった」



 救いを求められたその手を、握り返せなかった。五樹の言葉に八雲はくしゃりと顔を歪ませた。

 自分の周りを囲む面々を虚ろな目で眺めた五樹は、最後に自責の念に囚われているであろう恭一郎に、精一杯笑って見せた。



「君は、もう、自由だ。……何にも、怯える必要は、ない」

「先生……」



 恭一郎はもう異能者じゃない。人の感情に怯えて心を閉ざさなくても、好きな人に好きだと言って生きていける。


 菜月がここに来て目を覚ました時には恭一郎の手術は終わっていた。それなのに彼女はずっと彼を心配して、自分が浚われたということも忘れて恭一郎のことばかり考えていた。

 そのことに五樹は本当に安心したのだ。菜月はこれからも変わらずに恭一郎の傍に居てくれると。彼が恐れることは何もないのだと。



「相馬、君……君は幸せに、なれるんだ。幸せに、なって、くれ」



 我が子のように思っていた彼の目から一筋の涙が零れ落ちた時、五樹は既に目を閉じていた。


 全身を滅多刺しにされ大量の血を流したその男は、しかしとても安らかな表情でその生を終わらせたのだ。



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