4-8 奪う
「……さっさと退け」
自分の体の上で騒ぐ三人に痺れを切らした恭一郎は、苛立ちを込めて低い声を出す。するとそれまで言い争っていた三人はぴたりと話すのを止め、そして自分達が誰の上に乗っかっているのかを理解して一瞬固まった。
「せ、先輩っ!」
「生きてる、相馬先輩生きてるぞ!」
「恭一郎め、心配掛けやがって!」
「いいから! さっさと上から退けと言ってるんだお前ら!」
驚くばかりで動こうとしない彼らに恭一郎が無理やり体を動かして振り払おうとすると、ようやくといった様子で彼の上から三人が退く。全体重が乗っていた訳ではないが、それでも重い物は重い。
先ほどまで思い悩んでいたのが吹っ飛びそうになりながら体を起こした恭一郎は、その瞬間胸倉を掴まれたかと思うと横っ面に強い衝撃が走った。
何が起こったのか分からなかった恭一郎が頬に痛みを走らせながら顔を正面に戻すと、そこには酷く怒った様子の八雲が右手を握りしめ、もう片方の手で彼の襟元を強く掴み上げていたのだ。
「恭一郎、俺が怒っているのは分かるな?」
「……はい」
「急に置手紙だけ残して居なくなりやがって! 俺達がどれだけ心配したと思ってるんだ! どうして何も言わずに出て行った? 辞めるってどういうことだ、説明しろ!」
「それは……」
恐ろしい剣幕の八雲を前に、しかし恭一郎は口を噤んだ。異能を切除する手術は確実に成功するという保証はなかった。仮にもし手術が失敗したら恭一郎は死んでいたし、そんな話をすればすぐに八雲は止めようとするだろう。それに恭一郎が死ねば、何よりその手術を行った五樹に責任が及んでしまう。
何より危険を承知で手術を受けると決めたのは彼自身で、恭一郎の気持ちを汲んでずっと異能を無くす方法を考えてくれていた五樹が責められるのは絶対に避けたかったのだ。
だからこそ五樹や手術のことは話さなかった恭一郎だったが……この病院まで八雲達が来ているということは、既に何かしらの情報を得ている可能性があった。
どうせ手術は成功したのだ。恭一郎は一瞬言葉を選んだ後、ゆっくりと口を開いて話し始めた。
「……事務所を辞める理由は簡単です。所属する条件を失ったから、それだけですから」
「条件?」
「ええ。異能者が集まる事務所に、異能が使えない人間がいたら可笑しいでしょう」
「相馬先輩……そういえば、匂いが」
恭一郎の言葉にはっと目を見開いた空は、今までの恭一郎との違いに信じられないとばかりに大きく口を開いて唖然とした。彼には異能者にあるべき特有の甘い匂いがどこにも感じられなかったのだ。確認するように恭一郎に近付いてもまったく変わらない。
「異能が……無くなった?」
「どういうことだ恭一郎、一体どうやって……まさか」
恭一郎を問い詰めようとした八雲は、しかし途中で脳裏に過ぎった可能性に言葉を止めた。
恭一郎は生きている。しかし、異能者ではなくなった。たった一日の間に、彼は何らかの方法で異能を捨てることに成功したのだ。そしてそれがもしかして可能かもしれない人物を、今までの状況から八雲は一人だけ想像することが出来る。
「五樹兄さんが、何かしたのか」
「……はい。俺を、助けてくれました」
恭一郎の頭に巻かれた包帯を目に留めながら、八雲は静かに彼がこれまでの出来事を話すのを聞いていた。
以前からずっと五樹に異能を無くす方法はないかと相談していたこと、そして五樹がその研究をこの病院の地下で行っていたこと、そしてその手術方法が確立し今日その手術を受けたこと。
死ぬ可能性があったということだけ隠して恭一郎が話し終えると、八雲は安堵したように大きくため息を吐いて「そうだったのか」と酷く脱力した。
「先輩、だったら何でそう言って行かないんですか! 八雲さんが先輩が死ぬかもって言っててすごい焦ってたんですから!」
「……死ぬ?」
「異能を無くす方法なんて知らないし、もしかしてお前が色々見切りを付けて全部投げ出そうと思っているんじゃないかと心配したんだぞ……最近お前様子可笑しかったし」
一瞬核心を突かれたかと内心どきりとした恭一郎だったが、どうやら違うらしい。そう安堵したものの、何故八雲は自分が異能を無くそうと出て行ったことを知っているのだろうかと疑問が浮かんだ。
「……八雲さん、どうして俺が異能を無くそうとしたと知っているんですか」
恭一郎の異能を知る八雲が、彼が自分の異能を嫌っているのは承知だ。だが何故このタイミングでそうだと確信したのか。
訝しげに目を細めた恭一郎に、八雲は至極呆れた目を向けた。
「お前が菜月ちゃんを振ったなんて話を聞いたもんだからな」
「……は? 誰に」
「本人に決まってるだろうが。お前が菜月ちゃんの気持ちが思い込みだって、もう解放するって言ってたって聞いたら分かるに決まってるだろうが」
「なつ、そんなことまで話したのか……」
「お前が居なくなって少しでも情報が欲しかったからな」
「あの先輩、ちょっといいですか」
二人の会話に割り込むように雅が声を上げた。恭一郎のことも確かに大切なことだが、しかし雅にはもっと聞きたいことがあったのだ。
「ここに菜月は来てないんですか」
「なつが? どうして」
「菜月と連絡が取れなくなったんです! でも八雲さんはここに居るって……」
どういうことだと恭一郎が八雲を見ると、彼は神妙な表情で端末を取り出してその画面を恭一郎に示した。
「少し前に突然菜月ちゃんが姿を消した。GPSの付いたペンダントと鞄を道端に残して、恐らく車で連れて行かれた」
「そんな……」
「幸いお前の腕時計を持ち出していたみたいでな、その情報を辿った先がこの病院だった。地上階を探しても見つからなかったし、恐らく地下に居ると踏んでここに来たんだが……どうやらお前も知らないみたいだな」
「俺も今起きたばかりだったので……だとしたら」
そもそもこの地下を知っている人間などごく僅かだ。この病院を経営する九十九家の八雲ですら知らなかったのだ。八雲達は無理やり異能を使って侵入したものの、あからさまに隠されたこの地下は本来入り口も厳重に管理されていると見ていい。
ならば他に誰がいるというのか。この場にいる四人の頭の中に、それぞれ同じ人物が浮かび上がってくる。恭一郎がこの場所を知ったのは、元々彼に教えてもらったからに他ならない。
「……五樹先生が、音羽を?」
「兄さんはペンダントにGPSが付いているのを知ってた。……まさかとは思ったんだが」
「……とにかく、なつがここに居るのなら探せばいい。そうでしょう」
「あ、ああ」
自分を助けてくれた先生が菜月を何らかの理由で浚ったかもしれない。恭一郎はしかしその思考を一旦停止させ、菜月を見つけることだけを考えることにした。問題を後回しにしているだけだが、それでも恭一郎は最後まで五樹を疑うことをしたくなかったのだ。
「影、さん」
「おや、知り合いだったのかい」
「以前……影白支部で、その、鉢合わせたことがありまして」
五樹の背後に現れた人物は、前に事務所で見かけたことのある人物――いや、怪異の影と名乗った男だった。相変わらず周囲に怯えるようにおどおどとした態度を取る彼は、怪我をしたのか頭に包帯を巻いている。
そして五樹は菜月達が知り合いだったことに目を瞬かせているものの、しかし彼は『影が菜月をここに連れて来た』と平然と言ったのである。気絶させられる直前に感じた甘い匂いは、怪異である彼のものだったということだ。
「何で、あなたが私を……」
「僕が君を連れてくるように頼んだんだよ。僕は相馬君のことや……他の準備があったからね」
五樹はちらりと影の方を振り返り、頭を押さえてふらついている彼を椅子に座らせた。とても疲れたような様子の影に訝しげな目を向けた菜月は、二人から距離を取るように少し後ずさる。
何にせよ、この二人は菜月を気絶させてまでここまで連れて来たのだ。表立って呼び出さなかったということは、何か後ろ暗いことがあるに違いない。
「……悪いね、まだ安静にしていなくちゃいけない時に」
「いえ、構いません」
「音羽さん、彼には今まで色々と協力してもらって来たんだ。……相馬君の手術が成功したのも、彼の貢献が大きく関わっている」
「え?」
「怪異の生態というのは本来とても調べにくいものなんだ。何せ生きている間はこちらを狙ってくるし、死んだら死体も残らない。だからこそ、彼が協力してくれて本当に助かった」
「怪異の生態と手術が、関係あるんですか」
「怪異と異能者は、実は結構似通った部分があるんだ。特に脳の働き――異能を司ると言われる脳の一部がとても良く似ている。高遠君だってそうだ。あの子はハーフだけど、異能者と言われても殆ど違いなんてない。僕も言われなければ分からなかったしね。……だからこそ、異能者の脳の代わりとして、彼はとても有益な情報を与えてくれた」
淡々と語る五樹から視線を逸らした菜月が影を見つめる。それでは彼が頭に巻いている包帯は、その協力時に傷を負った結果なのだろうか。当然のように脳を調べたと言った五樹が恐ろしくて菜月はスカート越しにポケットに入っていた恭一郎の腕時計を無意識に握りしめていた。
五樹は、何が言いたいのだろう。菜月にこんな話をする意図が彼女には分からなかった。
「勿論ただで協力してもらった訳じゃない。彼がどうしても欲しいと望んだものがあってね、相馬君の手術が成功した暁にはそれを譲渡する約束をしていたんだ」
「……頭の中を調べられてまで欲しいもの、ですか?」
一応影は生きているものの、万が一のことがあったら命の危険もあったのではないだろうか。そこまでして欲しい物のために五樹に協力したのかと目を泳がせる影を見つめる。彼は仕切りに包帯越しに頭に触れており、その動きは落ち着きなく忙しない。
菜月が尋ねたことにも影は一切口を開くことはない。先程からずっと黙りつづけている彼は一体何を考えているのだろうか。
「音羽さん、彼のおかげで相馬君の手術が成功したと言ったね」
「……はい」
「手術が成功したおかげで相馬君から異能を切除することが出来た。……それを、彼に移植したんだ。彼が欲しいと望んだのは相馬君の異能、だったからね」
「――え」
五樹の言っている意味を一度受け止め損ねた菜月は、瞬きも忘れてただ影を茫然と見つめた。ドクドクと心臓が音を大きくするのを聞きながら、彼女の視線は包帯の巻かれた影の頭に集中する。
「その、包帯は」
「君をここへ連れて来てもらってからすぐに手術を行った。その時のものだよ」
「それじゃあ、いっくんの異能は」
「今は彼のものだ。すぐには使えないかもしれないが、理論上可能なはずだ」
「っどうして!」
恭一郎は自分の異能を嫌っていた。ようやく無くなったと安堵しただろうその異能が、まだ存在して他の誰かのものになったと知ったらどう思うだろうか。
勝手に移植したことを怒る? もう関係ないからと気にしない? 菜月には答えが分からないが、それでも彼女の心の内は大荒れだった。恭一郎のものであったものを、勝手に約束して取引に利用した五樹に黒い感情が芽生えたのだ。
菜月が強く五樹を睨み付けるが、しかし彼は意に介す様子もなく、むしろゆったりと微笑んで見せた。
「音羽さんは、相馬君の異能が無くなったことを不満に思っているのかい?」
「そんな訳ないです! ……いっくんがもう苦しまなくて済むのなら、それで」
「僕もだよ、相馬君が苦しむ姿はもう見たくなかった。彼から異能が無くなるのなら、僕は喜んで異能を差し出す。それだけだよ」
「……」
菜月は俯いて唇を噛み締める。五樹が言いたいことだって分かるのだ。菜月とてその選択を迫られたら彼と同じことをしていたかもしれない。何より恭一郎のことを優先する菜月である。彼が助かるならばと考えても可笑しくは無かった。
静かになった菜月を見た五樹は一度優しげに目を細めた後、不意にその表情を消して彼女に向かってゆっくりと歩み寄った。
「音羽さん、次は君の話だ」
俯いていた菜月が声に反応して顔を上げると、想像以上に近くにいた五樹に驚いて足を滑らせる。冷たい床に尻餅を着いた菜月を見た五樹は、無表情のまま彼女に語りかけるように話し始めた。
「君は突然異能に目覚めて嫌だったと思ったことはないのかい? 怪異に襲われて戦うことを強いられて……沢山痛い思いもしてきただろう」
「先生、何を」
「今の状況を変えたいと……普通の人間に戻りたいとは思わないか? 相馬君のように、誰かに異能を譲渡して平和な生活に戻れるとしたら、それを選ぶかな」
座り込む菜月に、五樹は右手を差し出す。それは彼女を助けるようにも……何かを奪い取ろうとするようにも見えた。




