2-8 炎の子
「本当に、お前らは俺の運命を狂わせるのが大好きだな」
困ったやつらだ、と炎は自嘲気味に笑って己の胸を突き刺した怪異の顔を掴む。断末魔も抵抗も、何一つ出来ぬまま一瞬でその怪異は炎に燃やされ、残ったのは炎の体を貫通する槍のような長い凶器だけだった。
致命傷だと悟った炎はその凶器を思い切り引き抜き、そして力が入らなくなってそのまま地面に倒れ込んだ。炎が倒れた所でようやく我に返った空は、ずりずりと体を引き摺って仰向けに倒れた炎の傍に寄る。そして炎の傷を見た空もまた、もうこの男は助からないのだと漠然と理解し、気が付けば握り込んだ両手を震わせていた。
「おかしいだろ、何であんたが、俺を庇うんだよ……!」
「言った、だろ。約束だからさ」
「約束、って」
「さあ……知りたきゃ、てめえが死んでから母ちゃんに聞いてみな」
炎の言葉に、空は目を見開いて硬直する。空を庇った理由が母親との何かしらの約束だというのなら、やはり炎は家族を裏切ってなど――。
ぐるぐる高速回転する思考に振り回されていた空は、ふと自分の顔が何かに照らされていることに気が付いた。その光に釣られるままに返り血で汚れた顔を動かすと、そこにはビルの隙間から微かに白い光が漏れていたのだ。
夜明けだ。怪異の活動時間は終わる。そして、致命傷を受けて間もなく命を落とすこの男も、消える。
空と同じように薄目を開けて日の出を見た炎もまた、どこか憑き物が落ちたかのように優しく微笑んだ。
「太陽、か。……はは、一日過ぎちまったな。せっかく俺の命をてめえにくれてやろうと思って来てやったのによ」
「一日……って!」
一瞬意味が分からないと困惑していた空は、やがて日付を思い出しその言葉の意味を理解した。昨日が一体何の日だったのかと、思い出した。
「馬鹿だろお前……自分の命を、子供の誕生日プレゼントにするなんて」
「俺がやれるものなんてもうそれくらいしかねえよ。……後は全部、あいつに上げちまったからな」
まるで砂時計の砂が落ちるように、残り時間を示すように炎の体が足元からゆっくりと消えていく。それを見た空は唇を噛み締め、目尻から零れ落ちそうになる雫を乱暴に拳で拭った。泣き顔などこの男の前では絶対に見せるものか、と空は強い眼差しで炎を見る。
「長かった……ようやく、あいつの元に行ける」
「……父、さん」
「お前の顔は暫く見たくねえ……当分、こっち来るなよ。俺と陽子の、自慢の、馬鹿息子……」
足が消え、体が消え、腕が消え、そして全てが消えそうになった最後の瞬間、炎の視界に入ったのは澄み渡る綺麗な空だった。
「そ、ら」
その言葉を残して、何百年も生きた怪異は跡形もなく姿を消した。
「……クソ親父め」
たった一人になったその場所で、空は震える声で悪態を吐く。遠くから雅と八雲が焦ったように彼の名前を呼ぶのが聞こえ、空はそちらに顔を向ける。
けれど、何故か二人の姿は酷く滲んでぼやけて、空は彼らを碌に見ることなんて出来なかった。
「なつ、五樹先生の所から薬の追加貰ってきた」
「ありがとう」
怪異による事務所の襲撃から一瞬間、各々思う所があったり色々なことがあったが、菜月はというと、無理やり異能を使いすぎた所為で風邪を悪化させ、数日40度の熱と戦っていた。
ようやく熱もある程度落ち着いて来たものの、体力は落ち体も重いままだ。せっかく雅に警棒の使い方を習ったのに、と思いながら菜月は自室に恭一郎を招き入れた。
恭一郎は連日菜月のお見舞いに来ている。今日のように五樹から薬を貰って来たり、何も用事が無くても彼女の傍を離れない。八雲には許可を取っているらしく、税理士事務所の方のバイトは休んでいるとのことだ。
「おばさんが林檎切ってたから貰って来たが、食べるか?」
「うん」
「体は起こすな。まだ頭痛いだろ」
林檎を食べようと菜月がベッドから上半身を起こした所で恭一郎が制止する。ぴたりと動きを止めた彼女に、彼はフォークで林檎を小さく切り分けてからその一つを菜月の口元に運んだ。
何のことは無い、昔から風邪を引くと恭一郎は必ずやることなので菜月も意識しないようにしながら林檎を口にする。いくつか食べて「もういい」と菜月が首を振ると、彼は無言で頷いてそのままベッドの傍で持ってきた本を捲り始めた。
「……」
静かになった部屋で恭一郎の横顔を視界に入れてぼうっとしていた菜月の脳裏に、ふと事務所が襲撃された夜のことが過ぎる。あの惨劇が未だに彼女の頭の中から離れてくれないでいる。
怪異同士がお互いに狂ったように凶器を振い、殺し合う。少し前まで徒党を組んでこちらを狙って来た怪異達が、だ。普通ではありえないその理由は、菜月には分かっている。
「どうした」
「……別に」
じっと見られていることに気が付いたのか、本から顔を上げた恭一郎が不思議そうに菜月に視線を向ける。
怪異達を同士討ちさせたのは恭一郎だ。彼の能力を把握出来ているわけではないが、それでも絶対にそうだという確信が彼女の中にはあった。酷く苦しそうな声で菜月の目を塞いでその惨状を隠そうとした彼は、一体何を思っていたのか。
「ねえ、いっくん」
「何だ」
「はい」
菜月が右手を恭一郎に向かって差し出すと、彼は「またか」とため息を吐いて彼女の手を握った。これもずっと昔から、彼女が風邪を引いた時は必ずしてもらっていたことだ。
「ありがとう」
「いつまで子供のつもりなんだ、まったく」
ぶつぶつと文句は出るものの、その手は決して離れることはない。菜月は右手の温もりに安心してそっと目を閉じる。
恭一郎は菜月に隠し事をしている。異能者だったことも隠していたし、そして今も菜月に何かを気付かれないように必死になっている。本音を言えば気になって仕方がないが、それでも彼女は結局何も聞くことなく、今日も恭一郎の手を握ってゆっくりと眠りに入って行った。
「……好き」
だからこそ、彼がどんなことを隠していても菜月は受け入れるつもりだった。
殆ど夢の世界に入っている菜月の言葉に、恭一郎は握る手に僅かに力を込める。そして菜月に届かぬ様に、酷くか細く弱々しい声で彼女に言葉を返した。
「知ってる。……知ってるに、決まってる」
「空、早く行こうよ!」
「おい、ちょっと待てって」
空の腕を引いて前方を走る雅の背中を見ながら、空は小さくため息を吐いた。
今日は二人で菜月の見舞いに行く予定で、空は待ち合わせ場所にした事務所で雅が来るのを待ちながら仕事に埋もれてぐったりしている八雲と話をしていた。しかしそこへ突然勢いよく扉を開けた現れた雅は「八雲さんおはようございます! 空、行くよ!」と二人に口を開かせる暇も与えずに空を引き摺って事務所を出たのである。
「おい、雅!」
「……何」
空が声を掛けるとようやく彼女の足は止まったものの、しかし返事は先ほどの元気の良さはどこへ行ったのか、とても小さく素っ気ないものだった。
空はそんな彼女にどうしたものかと頭を捻る。彼女の言動の理由は分かっているのだ。分かっているからこそ、空にはどうすればいいのか分からない。
一瞬間前、空にとって人生を大きく変える出来事が起こった。父親のこと、母親のこと、怪異のこと、異能者の皆のこと。それらは空に大きな影響を残して行った。けれど全てが終わって冷静になった時、雅も空も、すっかり忘れていたことを互いに思い出したのだ。
あの事件の最中、空は雅に想いを告げられた。二人ともそれを強く意識してしまってからは、どうにも以前のように話すことが出来なくなってしまっていたのだ。空にしてみれば、怪異の血を引く自分が人間を愛するのは父親の二の舞になってしまうのではないかと恐れ、それらしい感情を考えない様にしてきた。だからこそ彼女の言葉は青天の霹靂だったのである。
しかし父親が本当に母親を愛していたことを何となく理解し、怪異でも構わないと言ってくれた雅の言葉を聞き、空も一歩前に進んでみようと思った。……思ったが、対処が出来るとは言っていない。空が彼女に抱く感情はまだ恋愛と呼ぶには未熟過ぎるのである。
「これ、お前に」
「何?」
空は鞄から小さな袋を取り出すと、それを雅に差し出す。緊張のためか空と目を合わせない為にうろうろしていた彼女の視線が袋に向き、雅は不思議そうにそれを受け取った。
「この前色々迷惑掛けたから、それのお詫びっていうか」
「これは……ペンダント?」
「ああ。結局見れなかっただろ? 俺はあんまりセンスないし無難なものにしたけど」
雅が袋を開けると、そこには小さなシルバーのコインが重ねられたデザインのペンダントが入っていた。彼女は思わず勢いよく顔を上げ、そしてようやく今日初めてまともに空の顔を見る。
「どうだ? 気に入らないなら別に」
「あ、ありがとう! すごく嬉しい。大事にするから!」
「ならいいんだが……だったら尚更事務所で見せれば良かったな。気に入ったらそのまま八雲さんにGPS付けてもらえたんだが」
ほら、俺のはもう付いてる。と空が自分の首元から色違いである赤み掛かったゴールドのペンダントを引き出して雅に見せると、途端に彼女はピシリ、と時間が止まったかのように硬直した。
「雅?」
「……お、お揃い!?」
「あ」
そういえばそうだった、と今になってようやく――というよりも色違いなのは勿論分かっていたが、告白された相手にわざわざお揃いの物を渡したという事実に――気付いた空は妙に恥ずかしい気持ちになって来る。
「い、いやわざとじゃ……」
「わざとじゃないって、それ私と同じは嫌だって言ってる!?」
「いや、そうは言ってないだろ!」
気恥ずかしさを誤魔化すように言った言葉は何故か逆に雅の怒りに触れてしまったようで、「空が嫌だって言ってももう返さないからね!」と怒鳴りながら再び彼女は走り出してしまった。今度は空を置いて。
「……嫌な訳、ないだろうが」
一人になった空がぽつりと呟く。嫌だったら初めから自分と同じものなど選んでいない。
なんだか妙に暑くなってきた、と九月に入っても一向に衰えない太陽の熱に空は顔を上げて雲一つない青空を眺めた。
太陽は今日も元気にこちらを焼こうと付け狙っているかのようにじりじりと燃えている。まるで、あの炎のように。
「……行けたかよ、母さんの元に」
二章終了です。
次章開始はまた一週間くらい開くと思います。




