2-7 約束
その日、“炎”はとても苛々していた。理由はあってないようなものだ、何故なら彼は殆ど毎日いらついているのだから。
怪異の一生は長い。特に力の強い個体ともなると何百年も生き続け、炎もまた何百年もこの世を生きる羽目になっていた。炎は強い。他の怪異などまったく相手にもならず、命を狙われてもすぐに返り討ちにしてしまう。だからこそ余計に無為な生を伸ばす結果になり、そして目的も喜びも何もなく生きる日々は彼に苛立ちしか与えなかった。
「つまんねえな」
何のために生きているのか。長く生きる中でそう自分に問いかけた数は数えきれない。しかし自分で死ぬのは論外、彼の命を狙ってくる愚かな怪異や異能者どもにくれてやる命なんてない。
そうして暗い夜道をふらふらと歩き、暇つぶしに目についた怪異を燃やしていた時だった。
「ちょっと待ってください!」
怪異達の断末魔が響いた夜道にそぐわない呑気な女の声が聞こえたのは。
「あ?」
「助けてくれてありがとうございます! これ食べて下さい!」
自分に声を掛けて来た存在が珍しくてそのまま攻撃もせずに振り返った炎は、眼前に紙袋を突きつけられてそれを反射的に手に取ってしまった。
「それじゃ、ありがとうございました!」
紙袋を受け取るとようやく女の顔が炎の目に映る。印象にも残らないような顔立ちの、どこにでも居そうな人間の女である。彼女は元気よく炎にお礼を言うと、そのまま慌ただしげに夜道をどたばたと走り去って行った。
「……」
彼は後に自分に問うことになる、何故きまぐれにあの時女を殺さなかったのかと。正直な所、思考を停止させていた日々が長すぎて咄嗟に起こった出来事に対処出来なかったというのが本音だ。
彼の手には女が渡して行った紙袋がある。炎が何とはなしにその袋を開けると、そこには茶色の楕円形の物体がいくつか袋に収められていた。何やら香ばしい匂いのするそれらは人間の食べ物のようで、彼は興味を引かれてそのまま一つ口に運んでみる。
温かいそれは食べると表面が僅かにさくっと音を立て、そして中にはどろりとした固形物がごろごろと入っている。中身は少々辛いが、それを包む周囲が淡白な味なので気にならない。
「……ほお」
まずくはない、恐らく。怪異の炎にとって基本的に食べ物など必要ない。時々人間や異能者を好んで食べる怪異もいるが、炎は別段興味はなかった。
無言で食べ続けその紙袋の中身が空になった頃には、腹が温かくなったからだろうか、炎は何となく満たされた気分になった気がした。
「てめえが炎だな! 死ね!」
その気分は目の前に現れた新たな怪異によって一瞬で破壊されたが。
それから一週間程たったある日、炎はまた暇つぶしに目に付く怪異を焼き尽くしていた。
別に怪異に恨みがある訳ではないが、己の命を狙ってくるのは異能者よりも圧倒的に同族の怪異の方が多いのだ。苛立ちは自然とそちらに向けられる。
「すみません! この前の人ですよね?」
そんな炎の背後から、またもや女の声が聞こえて来た。もう日が沈みかけている時間帯、炎の元までその影を伸ばして声を掛けてきた女は、この前紙袋を渡して来た人間だった。
「何だてめえは」
「あ、覚えていませんか? この前助けてもらったんですけど」
「妙な物は貰ったが、俺はお前を助けた覚えはない」
「助けてくれたじゃないですか! 私がよく分からない化け物に襲われてた時に、炎でずばーっと」
炎はまったく気付いていなかったものの、どうやら女を襲っていた怪異を偶然にも暇つぶしで一緒に燃やしてしまっていたらしい。
炎は沈む夕日で逆光になっている女を見る。まるで太陽に燃やされているような彼女は、小さな荷物を肩に掛け他には何も手にしていなかった。
「……この前の、今日は持ってないのか」
「カレーパンですか? 今日はないですけど……もしかして気に入ってくれたんですか!」
「別に、変な物だったから気になっただけだ」
「変なものって、酷いですね。カレーパンは無いですけど、ラスクならありますよ。食べます?」
「らすく?」
「知らないんですか? 美味しいですよ」
せっかくですから座って食べましょう、と女は暗い路地にいる炎に臆することなく近付き、そしてその腕をぐいぐいと引っ張っていく。
炎は無言で彼女に促されるまま足を動かしたが、何の警戒もしない女を背後から見下ろして「愚かな人間もいたものだ」と小さく呟いた。あの炎を見た癖に、自分が腕を引く男が一瞬にして自分を消し炭にするなんて思いもないのだろうか、と。
彼女を殺さない理由は所詮きまぐれだ。つまらない日常を過ごす炎がほんの少し、珍しい食べ物と変な人間に興味を持っただけ。それだけだった。
既に街灯の明かりが照らし始めた公園のベンチに座らされた炎は、がさがさと鞄を漁った女から楕円の板状の何かが入った透明の袋を手渡された。
「ラスクですよ。甘くて美味しいですから」
「ふうん」
思った以上に軽かったラスクというものを炎が口の中に放り込む。ざくざくと固いそれを彼が咀嚼していると、隣に座った女が期待を込めたような顔で「どうですか?」と尋ねてきた。しかし人間の食べ物などついこの前食べたばかりの炎には味の善し悪しなど分かる訳もなく「変な味だ」とラスクを飲み込んで淡々と告げる。
「ええ、自信作だったのに……」
「お前が作ったのか」
「そうですよ。この前のカレーパンも私が作ったんです。パン屋で働いていて、もうすぐ独立して自分のお店を出そうと思ってるんですから! ……って、文句付けておいて結局全部食べてるじゃないですか」
女の話を聞きながらも食べる手を止めていなかった炎は、いつの間にかラスクを全て食べてしまっていたことに、空の袋に手を入れてからようやく気が付いた。
あ、と小さく呟いた炎に女は嬉しそうに笑った。
「完食ありがとうございます。……えっと、何て呼べばいいですか?」
「……好きにすればいい」
どうせもう会うこともないだろう、と思いながらそう言った炎に、女は暫く悩んでいたが、やがて何か思いついたかのように手を打った。
「ラスク大好きさんって呼んでもいいですか?」
「……は?」
「あ、嫌でした? でもカレーパンも気にしてましたよね? じゃあカレーパンさんの方が」
「炎、と呼べ」
こいつ食べ物のことしか頭にないのか。
とんでもない名前を付けられそうになった炎は、強い口調で怪異の連中に呼ばれている名を口にする。別に自分と認識できるのなら何でもよかったが、カレーパンとやらで呼ばれた日にはうっかり女を反射的に燃やしてしまいそうだった。
……そんなことが無ければ、燃やさないとでも言うのだろうか。今まで何の理由がなくても人間も怪異も燃やして来た癖に、と炎は自分の思考に疑問を抱いた。
「……お前は?」
思考を打ち切るようにして出た言葉は、正直炎にとってはどうでもいいことだった。しかし女はにこりと笑って「申し遅れました」と口を開く。
「高遠陽子。高くて遠い、太陽の子ですよ」
どうしてこうなった、と炎は何度目かになる後悔にため息を吐いた。
「おとうさん、あそんでー」
「一人で勝手に遊んでろ」
「やだ!」
クソガキが、と舌打ちをする炎にも怯えることなく、子供――高遠空は炎の背中によじ登ろうと奮闘し始める。
炎が思うに、気が付いたらこうなっていたとしか言いようがない。冗長に過ごしてきた今までとは違い、矢のごとく過ぎ去った日々を思い返して炎は頭を抱えたくなった。
あれから、何となく陽子を殺さぬまま日々は過ぎた。時々彼女に会ってはパンを渡されて感想を聞かれ、そのうち自然と彼女の家に入り浸るようになった。路地裏よりは余程居心地の良い場所であったそこは、今では陽子が経営するパン屋に場所を移し、そして何故か「働かざるもの食うべからず!」と炎までもがパン生地を捏ねさせられている。
忘れもしないあの日、あれが自分の運命を大きく狂わせてしまったと炎は思った。陽子の家に入り浸るだけならば、まだそこから元の生活に戻ることが出来たのだから。
『ねえ炎さん、私今日誕生日なんです』
『誕生日?』
『生まれた日! 誕生日には皆にお祝いしてもらったり、プレゼントとかもらったりするの』
『……ほお』
『それで、欲しいものがあるんです』
『ずうずうしいぞお前。大体俺が用意できるものなんて』
『炎さんのこれからの数十年間、私に下さい』
何故あの時に好きにしろと言ってしまったのか。長く生きる中で数十年なんて僅かな時間だと軽く考えてしまった結果、今では炎は陽子にこき使われ、空に遊具扱いをされる羽目になっている。
炎は自分が怪異なのだと、人間ではないときちんと陽子に伝えていた。怪異がどんな存在なのか、人間に危害を及ぼすものなのだと告げたにも関わらず彼女は炎から距離を置くことは一切なかった。
とうとう炎の肩まで到達した空を振り払うとあっという間に床までごろごろと転がる。しかし空はそれすらも楽しいようにけらけらと笑い「もう一回!」と再度背中をよじ登り始めた。
「鬱陶しいガキだ……」
空、という名前は炎が名付けた。というのも、流石の炎でも陽子のネーミングセンスで我が子の名前が決まるのはあまりにも不憫だと思ってしまったからだ。
日中外に出られない怪異である炎にとって、太陽も青空も、自分には殆ど馴染みのない縁遠いものだ。だが炎にとってのその二つは、こんなにも身近にある。
人間の真似事のように働いて、家庭を築いて。それが綱渡りの生活であることなど炎は百も承知だった。だが、どうせあと数十年で終わると見て見ぬふりをした。もう少しすれば、また以前のつまらない生活に戻るだけだと目も耳を塞いで生きた。
それが、この結果だ。
もう日は沈んだし買い出しよろしく、と陽子に無理やり追い出された炎は、行きつけの店でいくつかの食材を買って帰宅する。空が先に帰って来ていれば自分が行かなくてもよかったとぶつぶつ文句を言いながら扉を開けた玄関は、少し前に家を出た時とは打って変わり酷く土だらけになっていた。
炎は靴も脱がずにすぐさま家の中に飛び込み、そして荒らされたリビングで陽子が串刺しにされているのを見た瞬間、何も考えられなくなった。
「炎!」
部屋の中に居たのは怪異が二体。そのうちの一体が鋭い爪を伸ばして陽子の胸をえぐるように突き刺している。彼女の足元には大量の鮮血が零れ落ち、たった今刺されたのだと分かった。
しかし炎はそんなに悠長に分析などしていられない。その光景を見た瞬間、二体の怪異は一瞬にして消えた。いや、炎によって一瞬で焼き尽くされたのだ。
呆気なかった。復讐など一瞬で終わってしまった。炎は血の海に倒れ込んだ陽子を抱え起こし、そして力なく垂れる片手を掴んだ。
「……陽子」
「ほ、のお、さん」
くたり、と冷たく動かなかった手が、炎の呼び掛けに応えるようにゆっくり、ゆっくりと彼の手を握り返す。弱々しく目を開けた陽子は炎に向かって小さく微笑み「私、死んじゃうみたいです」と喉を必死に震わせた。
「そうだな……俺の所為で、お前は死ぬ」
怪異の、そして炎の傍にいることによる危険性については陽子も理解していた。炎の命を狙うものは多く傍に居れば必ず巻き込まれる日が来ると、彼女自身も承知だった。
それでも、炎と共にありたかったのだ。
「お願いが、あります」
「ああ」
「私の代わりに、空を守って……立派に、強い子に、してください。私達の、自慢の子に……。あと、もうひとつ」
「言ってみろ」
「空がちゃんと、成長するまで……あなたも死んだら、駄目です、から」
天国で見張っていますからね、と陽子は最後の力を振り絞るように炎の背に腕を回して、微笑んで口を開く。
「―――」
しかしそれは声にはならず、彼女は炎の腕の中でゆっくりと目を閉じた。重みが増した陽子の体を強く抱きしめた炎は、彼女の体をそっと床に寝かせる。そして彼女の最期の言葉を頭の中に巡らせた。
しあわせでした、というその言葉を。
「約束する。……俺も、あんたに会えて幸せだった」
己の炎で、彼は陽子の体を天国へ送った。
それから炎は、陽子に会う前と同じような生活に戻った。
陽子を火葬した直後に帰って来た空に火を嗾け、己から遠ざけた炎は彼が異能者に拾われるのを確認した後影白町を後にした。
空を立派に、強い子にと陽子と約束した炎だったが、実際問題彼の傍に居れば確実に空は陽子の二の舞になる。更に言ってしまえば戸籍のない炎では人間社会で空を守っていくことは難しく、炎の存在が公になれば空は人間からも弾かれて生きて行かなければならない。そうなれば無事に成長出来るとは思えなかった。
空には力の使い方を教えてある。だから異能者としてなら受け入れられるだろうと、空を保護した男に無責任に全てを任せる他なかった。
そして数年、炎はまるで抜け殻のように生きた。彼女との約束がなければ恐らくとっくに自ら死を選んでいただろう。しかしそんな彼に、ある時怪異の中の噂話が耳に入って来た。
『影白町に異能者が増えた』そんな話だった。
炎にとっては他の異能者が増えようが至極どうでもいいことだったが、彼が近くにいることも知らずにべらべらと話す怪異達の話題が少しずつずれて、他の異能者の話題になった時、炎は無意識に動きを止めた。
「あとは……そうだな、恐ろしいぐらい強ええ炎のガキがいるって言ってたな」
「炎のガキ? それこそ本物の“炎”より強いのか?」
「だったら潰し合ってくれたら助かるんだけどなあ」
げらげら笑う怪異達の声を聞きながら、くく、と炎もまた小さく笑いを溢した。炎のガキ、確かに間違っていないな、と。
恐ろしいくらい強い、と怪異の間で噂になるくらい成長したのなら。
「俺を殺せるくらい強くなってたら、それはもう立派に成長したってことだな」
空が成長するまで炎は死ねない。ならば自分を殺せるくらいの強い男になったら、その時はあいつの手で殺されてやろう、と炎はこの数年ずっと考えていた。空は自分を酷く憎んでいるだろうから、きっと会いに行けば炎の望み通りになる。
だからこそ影白町に戻って来た。案の定空は炎のことを見た瞬間に殺気を剥き出しにして襲い掛かり、その力を彼に向けた。自分を越えるほどの力など正直持っていなかったが、けれど二度目に戦った空は真っ直ぐな強い目で炎を見て、そして全力でぶつかって来た。
もう十分だと思ったのだ。これで自慢の子だと陽子が言わないはずがない。そう思ったからこそ炎は力不足でも空に殺されるのを待った。
だが炎は、実際に空に殺されることはなかった。
「何でだと? そりゃあ決まってる」
背後から空を狙った怪異の生き残り、その凶刃から咄嗟に空を庇った炎は血を吐き出しながら、空を振り返って苦笑した。怪異の自分が、随分人間臭い柵に捕らわれてしまったものだ。
「約束だから、仕方ねえよ」




