2-6 血の争い
「なつ!」
それは唐突に起こった。事務所の中で周囲を警戒していた恭一郎は突如大きく割られた窓ガラスに目を見開き、そしてその大量のガラス片が降り注ぐ前に反射的に菜月に覆い被さる。
「いっくん!」
「……っ」
急に視界が埋め尽くされた菜月には一瞬何が起こったのか分からなかった。しかし今まで静かだった事務所内に響いた下品な笑い声と気持ちの悪い血の匂いに、菜月は恭一郎の肩から顔を出して愕然とした。
派手に割られた窓から侵入してくる五体もの怪異、降り注いだガラス片によって傷ついた家具、そして彼女を庇って背中を血だらけにした恭一郎を視界に捉えた彼女はその惨状に悲鳴すら出なかった。
「外のと違って弱そうなやつらだ」
「異能者二人、相当な手柄だぞ? 炎への手土産にしよう」
「……させ、るか」
好き勝手に話す怪異達の言葉を聞いて、何とか意識を繋いでいた恭一郎が体を起こそうとする。バラバラと背中から滑り落ちるガラスは血塗れで、床にも大量の血が流れ落ちている。
菜月は無理やり立ち上がろうとする恭一郎を抱きしめ、彼女達を見下す怪異らを睨み付けて振り絞るように異能を発動させた。
「なつ、やめろ」
「やめない!」
割れそうなくらい頭が痛い。視界はぶれて今すぐ意識が途切れてしまいそうだったが、菜月は大声を出して必死に恭一郎の怪我を治そうとする。初めは菜月の力にも抗えなかった恭一郎が彼女を引きはがすことが出来るようなった頃には、背中の傷は殆ど塞がり痛みは引いていた。
しかし恭一郎に代わるようにぐったりと彼に倒れ込んでいた菜月に、彼はその体を受け止めながら酷く苦々しく顔を歪めた。
「馬鹿だ、お前は」
今まで血塗れだった人間があっという間に治る光景を見た怪異達は笑うのを止め、怪我を治した菜月に向けて一斉に飛び掛かって来る。
「殺せ!」
菜月を先に殺した方がいいと判断した怪異達が爪や武器を振りかざす。五体の怪異が彼女に向けた凶器は一切の躊躇いもなく振り下ろされたが、しかしそれらはどれ一つとして菜月の体に触れることはなかった。
意識を朦朧とさせた菜月を抱えた恭一郎は、飛び掛かって来る怪異達を表情を消して視界に入れる。彼女を強く抱きしめながら、恭一郎は地を這うような低い声で目の前に迫る怪異達に静かに呟いた。
「死ね」
「……う」
菜月の目が僅かに開く。耳には騒がしい怒声や悲鳴が入り混じり、聞いていて気持ちのよいものではないそれに彼女は何が起こっているのかとゆっくり頭を傾けてその先を見た。
「――え」
酷い光景だった。大量の血飛沫が飛び、断末魔が響き、そして致命傷を受けたものから塵になって消えていく。つい今まで菜月達を襲おうとしていた怪異達が、まるで狂ったかのようにお互いを傷付けて殺し合いを繰り広げていたのだから。
怪異は死ねば塵になって死体も残らない。しかしそれまで人間と同じように血は流れるし痛みもあるらしい。全身を傷だらけにし叫びながら味方を攻撃する怪異に、菜月は視線を逸らせなくなっていた。
だが、不意にその惨状は彼女の目に映らなくなる。突然目元が温かい闇に包まれた菜月はすぐ傍から聞こえて来た耳に慣れた声に、ようやく状況を理解することになった。
「見るな」
「……いっ」
「見るんじゃない」
恭一郎の手に視界を覆われた菜月は、そのまま頭を抱えられて視界を封じられる。しかし彼女の頭の中には今見てしまった怪異達の姿が嫌でも目の奥に焼き付いていた。
「うわああああ!」
見えなくてもその声はずっと聞こえ続けている。怪異の悲鳴と殺し合う音だけがずっと耳に入って来る。
「見るな」
何度も何度も、反論を許さないその声はどこか悲痛なものとして聞こえ、菜月は無意識に恭一郎に縋るように――守るように強く彼を抱き返した。
怪異の声は徐々に少なくなり、やがて最後に一つの大きな断末魔を残して消えた。
「はっ、さっきよりはマシになってんじゃねえか」
「黙れ」
空は額の汗を拭いながら炎を睨み付ける。先程のように全身に火傷を負っている訳ではないがそれでもあちこち怪我をしている空に対し、炎は余裕綽々といった様子で片足に体重を掛けてのんびりと構えもしていない。
強いのだ。空が今まで相手にして来た怪異とは次元の違う相手である。炎を前にしてもなんとか冷静さを残しながら戦っている空はそれでも何とか彼に食らいついているものの、二人の戦闘に巻き込まれたりとばっちりの炎を受けた周囲の怪異は全滅していた。
しかしその状況に、空は違和感しか覚えなかった。
「あんた、俺を殺す気があるのか!」
炎ほどの力のある怪異が本気を出せば、恐らく空など一瞬の内に灰になる。しかし彼は空を煽るばかりで全く実力を出そうとせず、そして何より空を掠めるように繰り出した炎は、決まって他の怪異に直撃して消し去っている。
「お前こそ、大口叩いておいて本当に俺を殺せるのか? そんなちゃちな炎で怪我させられると思ったら大間違いだ。俺の血を引くんならもっとましな攻撃をしてみろ」
けらけらと笑う炎が空に向かって小さな火球をいくつもいくつも嗾ける。それらを壁のようにした炎で相殺した空は、そのまま異能を維持した状態で炎に向かって体ごと勢いを付けて突撃した。
「だああああっ!」
当然、空自身も一緒に炎の壁に突っ込むことになる。目の前の熱の塊に恐れることなく飛び込んだ空は、炎の体を強く吹き飛ばして堅いコンクリートに叩き付けた。火傷した体を気にすることなく倒れた炎を押さえ付けた空は片手で胸倉を掴み、異能を消したもう一方の右手で思い切り炎の顔面を殴り飛ばした。
「っ」
「あの時は答えを聞かなかった……何で、母さんを殺した。どうして、今頃俺の前に現れた!」
もう一発、只の拳で炎を殴りつけた空はその右手をコンクリートに感情のままに叩き付けた。
目の前で口から血を流している炎の顔を見て、空は幼い頃の家族を思い出す。あの頃と変わらない顔をしたこの男のことを、しかし昔はずっと空は彼を慕っていた。大雑把だったが異能の使い方を教わり、空が遊びたいとせがむと必ず文句を付ける癖に最終的に折れて遊んでくれた。二人は本当になかよしね、と母親に言われるくらい。
だからこそ、あの裏切りを見た瞬間の絶望は計り知れないものだった。変貌した父親の姿に空は恐怖を抱き、そして慕っていた感情は残らず憎悪へと変貌した。
あの出来事が起こる前の全ては嘘だったのか。口は悪いが母親も空も大事にしてくれたと思っていたのは間違いだったのか。一度絶望して全てを諦めた癖に、空はまたその疑問を繰り返す。
「答えろよ! 何で……」
どうして今、碌な抵抗もせずに殺されそうになっているんだ。
炎くらいの怪異ならば――いや、然程実力がない怪異だって、隙だらけで異能も使わずに殴る空にくらいあっという間に反撃できる。それなのに炎は、切れた唇を楽しそうに歪ませて空が怒鳴る姿を見ているだけなのだ。
だからこそ、空は次に振り上げるべき拳を動かすことが出来ずにいる。異能を使って焼き尽くすこともしないまま、ただ炎に向かって疑問を提示することしか出来ない。
何か理由があったのだと、彼がそう口にするのを期待するかのように。
「何でだと? そりゃあ決まってる」
「な――」
突如空の視界がぐるりと反転する。腕を掴まれて強く引かれた空は、場所を交換するようにコンクリートに体を叩きつけられ、頭を打った。
次の瞬間、ぐさり、と何かが刺さる生々しい音が聞こえたかと思うと、空の顔に大量の鮮血が降り注いだ。




