1.「実は俺、転生者なんです。(キリッ)」
今日は、お決まりの流れだと思っていた。
我がケンドリック伯爵家の庭で、わたくしは婚約者であるブラッド様を待つ。彼が厭う黒髪は結って後ろへ流し、帽子で少しでも隠しておいて。
家格は侯爵家であるあちらの方が上。
きっと彼はいつも通りに遅刻して、いつものように謝らず、不遜な態度で席につく。
紅茶もお茶菓子も来る度に違う好みを言って文句をつけ、話を広げるつもりもなく、決め台詞は「やはりつまらんな」――になると、思っていた。
「お、お嬢様!ブラッド様がお見えになりました!」
「嘘でしょう?まだ五分前よ。人違いかしら、それとも時計が壊れていて?」
「いえ、本当に……!」
わたくしが十歳、彼が十二歳の時に婚約してからもう八年。
会う時には淑女として微笑みを保っていたつもりだけど、こちらとしても冷めているし、諦めている。
魔力量の少ない私に婿入りしてくださるのだから、多少の我慢はしてみせる……そう、覚悟していたのに。
「すしっ、し、失礼します!」
「…ブラッド様……」
あの目立つ赤い短髪に高い背丈は確かに、間違いなくブラッド様だ。
集団幻覚かと瞬きしたり目をすがめて見たけれど、見えるものに変わりはない。まさか本当に本物?
目を伏せた彼は妙にぎくしゃくした動きで歩いて、頭でも打ったのか小ぶりの綺麗な花束と菓子包みを手にしていた。
大変だわ、きっと風邪でも引いて高熱を出している。わたくしは執事にサッと手振りをして医者を手配させた。
少しでも体調が悪いと会うのを中止にしていたのに、その判断すらできないほど思考が回らないのか。これは異常事態だと、流石に立ち上がって近付いた。
顔色が悪く見えた彼は、近付いてみるとだらだらと汗をかいている。やはり熱。
「大丈夫ですか、ブラッド様!」
「……せ、セラフィーナ…嬢、ですか?」
「え?ええ、そうですが…」
記憶の混濁まであるの?というか、わたくしの名を呼んだ上に、「嬢」?そして敬語?
見上げた先、彷徨っていた金の瞳がこちらを向いて止まり、困惑した様子のわたくしが映る。ひゅっと風のような音がした。彼の喉が鳴ったのだと気付いたのは、一拍後で。
「ええぇ……すごく可愛い…」
「はい?」
「あッ!」
まずい、という顔で己の口を塞ぎ、ブラッド様が一歩――いえ、五歩ほど下がった。遠い。
真っ青になって片方の手のひらをこちらに向けている。
「すみません。俺が言ったらセクハラですよね。ごめんなさい」
「………?あの、」
「じゃなくてその、今日は謝罪しに来ました!」
「謝罪?」
一度でも謝ったら死ぬのですかと言いたくなるくらいに謝らない、貴方が?
九十度に腰を折って花束と菓子包みを差し出している。わたくしの誕生日にすら何も贈らない、貴方が?
毒でも入っているのかと疑いながら、ひとまず受け取るだけ、受け取った。
「ブラッドは……いや俺っ…は、今まで貴女に散々、失礼な態度を取っていて。今更許せないでしょうし、許してほしいとは言わないのですが、ただ、謝らないといけないって……」
「……ブラッド様。頭を強く打たれたのですか?」
「いやそうですよね!そういう反応になりますよね……!本当にこいつ、いや俺、駄目で……何でこんな奴に育ったんでしょうっていうか、絶対アイツのせいだろっていうか…」
何やらブツブツ独り言を始めてしまった。
本当にどうしたのかしら。ひとまず座ってくださいと勧めると、らしくもなくぺこぺこと頭を下げながら着席した。
正直、「どちら様ですか」と聞きたい。
「紅茶でも飲んで、安静になさってください。その……今、お医者様を呼んでいますから…」
「あっ、医者はいいです!俺、家でもう診てもらったので。異常なしって。」
「ないでしょうか?異常。」
「……元々の俺を知ってると、異常だなって思うのは、わかるんですけど。ここは堪えてもらって。」
随分と無茶を言う。
赤の他人が見た目だけ完璧に変装したのだと言われた方が、まだ信じられた。
ブラッド様はもっと不機嫌にしているのが普通なのに。
「とにかくセラフィーナ嬢、今まで本当にすみませんでした!」
「……頭が追い付かないのですが、その心境の変化は何があったのでしょう。」
「昨日?だかに頭を強く打ったみたいで――」
「やはりそうなのですね。」
「今朝目が覚めたのですが、記憶喪失というか……周りから、自分が大体どんな人間だったか聞きました。婚約者がいるというのも実は驚いたのですが…」
へにゃりと眉尻を下げ、しゅんと俯き気味に話すブラッド様……失礼だけど、気持ち悪いわね。
今までの記憶と矛盾し過ぎていて、見ているこちらの頭がおかしくなりそう。
「俺は随分ひどい態度だったようで、とにかく謝らなければと。」
「……事情はわかりました。記憶喪失となれば、今日は中止にするよう言われなかったのですか?」
「言われましたが、俺としては情報がほしい部分もあったんです。」
足を組まず横を向かず頬杖をつかず、真面目な顔をして敬語で話すブラッド様……悪いけど、気味が悪いわね。
生き別れの双子の弟とすげ替えられてしまったのでは?聞いているこちらの気が狂いそう。
何だか頭が痛くなって、音のないため息をついてしまった。
少しこめかみを押さえると、心配そうな声がする。
「セラフィーナ嬢……?」
貴方はそんな声でわたくしを呼ばないし、そんな気遣わしげな顔はできない。
よほどひどく頭を打ったのでしょうけれど……なぜ?どんな状況で打ったのか、この方は覚えているのかしら。
「やっぱり、元の俺と違いすぎて変、ですかね。」
「とても違和感があるのは否定できませんが……貴方がわたくしの名を呼ばなくなって久しいものでしたし、《嬢》などとは最初からつけていなかった。敬語ももちろん、必要のないものです。貴方の方が家格が上ですから」
「それはその……申し訳なく思うんですが、直した方がいいんでしょうか。」
わたくしに聞くの?
本当にどういうつもりなのだとつい、眉根を寄せてしまって。いけないと自制する。
見なさい、このブラッド様のBの字もない弱々しい顔を。
この方は記憶を失っている。ふざけているのではなく、本当に困って…………、どこまで、記憶を失ったのかしら。
「…その質問に答える前に。」
「は、はい。」
「どこまでの記憶を失っておいでですか?」
「それが、大体はわからなくてですね…」
こんな質問は本来、他家へ出かけさせる前に邸内で確認し、自覚させ、学ばせておくべきだわ。
記憶のないこの方が一人で来られるわけはない。少なくとも侯爵家の馬車まで案内した者がいるはず。
「貴方は自分の行いを知って、謝罪の意思を持って花束とお菓子を用意してくださいました。人付き合いの中では常識的な事です。しかし、自分が侯爵家でこちらが伯爵家と知っていて、その敬語。貴族社会での常識はいかがでしょう?」
「細かい部分はよくわかってない……です。公爵家が一番上とか、序列は知ってるはずです。」
「この国の名は言えますか?ご自分の魔力については。」
「えっ、この世界魔法があるタイプなんですか?」
きょとんと目を丸くして、ブラッド様が聞き返してきた。
魔法があるタイプ。すぐ失言に気付いたようで、「あっ」とか「いやその」としどろもどろになっている。
こんなに狼狽えるブラッド様は見た事がないかもしれない。明日正気に――いえ、記憶が戻ったら、怒り狂ったりしないかしら。
「魔法の事もお忘れなのですね。国の名もわからないと。」
「すみませんわかりません……」
「…そういえば、愛剣はどうされたのです?」
「愛犬?いや、屋敷には犬はいなかっ…たと思います。……俺が変わったのを察して、隠れちゃったんですかね。」
どうなっているのだろう。
婿入り予定の家とはいえ、こんな状態の人をろくな護衛もなしに出歩かせるなんて。
普段のブラッド様に護衛がいなかったのは、本人の警戒心と強さが理由だったはず……。
「……すみません、セラフィーナ嬢。」
「どうして謝るのですか?」
「俺は今まで散々、貴女にご迷惑をかけたでしょうに…俺などのために、そうして悩ませてしまって。もし望まぬ婚約なら、解消――」
聞き捨てならない。
膝に置いていた扇を取り、閉じた先端を下に向けてテーブルをコンと叩く。ブラッド様がわたくしを見た。
「記憶はない、わかっています。貴族社会の事もよくわかっていない、だとしても――いいえ、だからこそ。家同士で決められた婚約について、容易く口にするものではありません。」
「……すみません。教えてくれてありがとうございます」
「…変な心地ですね、ブラッド様にお礼を言われるのは。わたくしから貴方に何か注意するのは、随分と昔に諦めたものです。」
「こ、これからは何でも言ってください。俺にできる事なら直していくので…」
この先ずっとこうなのかしら?
マシとは言えるかもしれないけれど、調子が狂う。
「面倒をかけて申し訳ないんですが、本当にイチから教えてもらえると助かります。スマホにメモってでも覚え――…スマホないんだった。」
「……スマホ、ですか?」
「なんでもないです!」
人間の記憶とは難しい。ブラッド様と話す度に、記憶の状況がわからなくなる。
わたくしの困り具合が伝わってしまったのか、ブラッド様は周囲を気にするように視線を泳がせ、口の横に手をあてた。
「あの……可能なら、使用人さん達を少し遠ざけてもらってもいいですか?誓って変な事はしないので。より内密の話というか。」
「……わかりました。」
手振りをすると、皆は一つ頷いて私達から距離を取る。
様子は見えても声は届かない遠さだ。ブラッド様は緊張を紛らわせるように紅茶をグビグビと飲み干し――なんという無作法――、わたくしを見た。
「実は俺、転生者なんです。」
「…転生」
「一旦!一旦その、最後まで聞いてもらえたら。」
おかしいのはわかってますと慌てた様子で言われ、不服ながらも口を閉じる。
これから何を聞かされるのだろう。
「こことは違う世界、いわゆる異世界で生きて死にました。住んでいた国は日本と言って、貴族だ平民だという身分差のないところです。俺は二十二歳の新卒で、入った会社がブラックで残業で――…って言ってもわからないですよね。」
「…労働環境が悪い職場だったと?」
「そう!そういう事です。過労でフラフラして、トラック…」
「《トラックに轢かれて死んで、気が付いたら異世界のベッドの上だった》」
「はい!おまけに美形の別人になってるし……って、え?」
深く、ため息をついた。
ブラッド様の悪質な冗談?ふざけているのだろうか。いや、あの方は冗談でもこんな素振りはできない。自分を美形と言ったりもしないし。
本当に記憶喪失でこうなったのなら、お可哀想なこと。
どこで内容を知ったのだろう、あのブラッド様が。
「ええと……セラフィーナ嬢?顔が怖いような……」
「…失礼。貴方がふざけていない…はずだという事は、わかるのですが。内容があまりにも。」
「どういう事です?」
かたんと、席を立った。
見下ろした先のブラッド様は困惑しきりで、それでも「悪質なこと」と言いたくなるくらい、彼の言う内容はひどいのだ。
「それ、小説で流行っている設定ですよね?」
「へ?」
「お忘れなのかもしれませんが、そのせいで近年、十三歳から十四歳くらいの子供がなる病があります。」
「設定…いや事実……」
ブラッド様はもう二十歳。
とうに完治――いえ、この病については「卒業」と呼ぶのだったか。終わっているべき年齢だというのに、嘆かわしい。
わたくしはため息をついて、呆然と椅子に座ったままの彼に向き直った。
視線に憐みを込めて。
「チューニ病に、なってしまったのですね。ブラッド様」
「ちっ…!?」
「おいたわしいこと……ですがわたくしとしても、婚約者がチューニ病になったという事実と向き合う時間が必要です。」
「ちが、違うんです。俺は本当に」
「本日はお引き取り下さい。」
静かに淑女の礼をして、わたくしは踵を返した。
少しでも心配したのが馬鹿らしくなる。演技ではないとしても……いえ、そんな病ならいっそ、悪質な冗談だった方が良かったのかもしれない。
わたくしは、チューニ病の男性を夫にせねばならないのか……まったく、頭が痛い。
治し方を調べなくては。
「皆、ブラッド様がお帰りよ。お見送りを」
「はい、お嬢様。」
「それと……念のため、護衛をつけて差し上げて。」




