アン①
私が9歳の頃、私のお父さんが死んだ。
それは人生が天から地面に落ちてしまうような、そんな衝撃の瞬間だった。優しくて男前の自慢の商人だったお父さんは、居なくなって、私と母は貧乏になった。
若い頃から隣町どころかその先の街から、お母さんを見に来る人であふれるほどの輝く美貌を持つ母は仕事なんてしたことなかったから、頑張って仕事をしたけどお父さんの商店は人に取られて、ほんの少しのお金を手に私と母は身を寄せ合って生きた。
そのうち母は、知り合いを頼り、その美貌を生かして、貴族も通う洒落た酒場で働き始めたが、今まで働いたこともない母は本当につらそうだった。ひっそりと泣く母を私は何度も見てきた。
そんなある日、母が笑顔で帰ってきた。
「素敵な人と出会って結婚することになった。もう大丈夫だよ」って母が泣いてて、思わず「パパは?」と聞きそうな気持ちをぐっと堪えた。
そうして、馬車に揺られて着いたのはお城みたいな豪華なお家で、何もかもがキラキラ輝いててびっくりだった。
新しくパパになったおじさんに「今日から君のお父様だよ。君は今日から僕のお姫様になるんだよ」と言われたのは、12歳の冬。
寒くて、お腹の空いてた毎日にお別れをした日。
「誰なの?」
冷ややかに私たち親子を見る。
聖女イリスティアお姉様に出会った日だった。
ーーーそれから、4年後
「お姉様、お加減はいかがですか?」
私は扉の隙間から、椅子に腰掛けて、窓から庭を静かに眺める聖女――イリスティアお姉様に声をかけた。返ってきたのは、ため息ひとつ。
「……今は一人にして」
「でも、朝食も召し上がっていないと聞きました。せめてスープだけでも」
「聞こえないの? いらないと言っているでしょう」
刺々しい声。私は俯いて、けれど笑みを絶やさず、そっと扉を閉めた。
またこう言われてしまった。
廊下を歩きながら、私は自分の胸に手を当てる。悲しい、でも仕方がない。お姉様はいつもこうだ。少し体調を崩すたびに苛立って、誰にも当たり散らす。私はただ、お姉様の力になりたいだけなのに。
――そうやってワガママばかり言ってるから、みんなに嫌われるのよ。
心の奥で、ふとそんな言葉が浮かぶ。私は慌ててその声を打ち消した。いけない、いけない。そんな風に思ってはいけない。お姉様はきっと、お辛いことがたくさんおありなのだから。
私は幼い頃から、そう自分に言い聞かせてきた。母上がこの家に嫁いでから、私はイリスティア様の妹になった。血の繋がりはなくとも、姉として慕おう、力になろうと、ずっとそう思って生きてきた。だが、私の努力は報われることなくお姉様の態度は変わらない。
『貴方が妹ですって?ありえないわ。身の程を知りなさい
貴方は、伯爵様が再婚でお連れになった女性が連れてきただけのただの平民よ。お姉様などと呼ばれたくないわ』
何度も言われてきた言葉が胸に刺さる。けれど、私にはわかっていた。私が「妹」を名乗るのは、本来おこがましいことなのだ。わかっているはずなのに、それでも胸の奥がちくりと痛むのだった。
お姉様は、今も私を妹と認めていない。
スープを持ち厨房に戻ると、侍女のマルタが心配そうな顔で私を迎えた。
「アン様、また邪険にされたのですか? 聖女様も、いくらなんでも……」
「そんなことを言ってはだめよ、マルタ。お姉様はお加減が優れないだけなの」
私はスープの入った器を返却しながら、努めて明るく笑ってみせた。マルタは何か言いたそうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
自室に戻り、一人になったところで、私はようやく肩の力を抜く。
本当に、疲れる人。
苛立ちを隠すことに、私はもう慣れてしまった。表向きは健気な妹を演じ、心の中では愚痴をこぼす。誰にも見せない、私だけの本音。それの何がいけないというのだろう。お姉様の八つ当たりに、いつまでも黙って耐えている自分を、私は密かに誇りに思っていた。
こんなにも尽くしているのに。こんなにも頑張っているのに。
だいたい、お姉様は体調不良だと言って寝込んでいるくせに、教会の祈りの儀式にはちゃんと出席する。ほら、やろうと思えばできるんじゃない。私なんて、風邪をひいたことなんてほとんどないし、多少熱があったって仕事は休まない。それくらいの根性、貴族なら尚更あって然るべきだと思うのに。お姉様の不機嫌には、屋敷中のものが辟易している。
窓の外では、セドリック様の乗った馬車が、正門をくぐっていくのが見えた。今日もお見舞いに来てくださったのだろう。イリスティアお姉様の婚約者でありながら、いつも私にまで優しい言葉をかけてくださる、あの心の広い方。
私はそっと窓辺に寄り、馬車が近づいてくるのを、笑顔で見つめて、気合を入れ直して立ち上がる。弱気なままではいられない。
よしっとひと声かけて私は、イリスティアお姉様の婚約者であるセドリック様の迎えに駆け出した。




