温田見厚3
そして、市岡はがらんとした空き部屋のガラス窓の向こう側に、ゆらりと何かが揺れるのを見つけた。さらにはその側に見えたものに、驚愕して手にしていたカバンを思わず落とし、叫び声を上げてしまう。
「ぬっ、温田見くんっ!」
屋上にいたのであろう彼の姿が、そこからすうっと降って来た。その全貌が市岡の目に映った時、彼は戦慄を覚えた。
「あっ……そんなっ!」
飛び降りる温田見の側にいたもの。それは、その彼に手を差し伸べて微笑む「時計塔の千夜」だった。
千夜に誘い込まれるように落ちて行くその表情は、心の底から幸せそうに笑っている。まるでそうすることに一欠片の迷いもないかのような、まっすぐな喜びを秘めた目をしていた。
三階建とはいえ、屋上だ。そこから落ちれば無事ではいられないことくらい、温田見にはわかるだろう。それなのに、そうしたくて堪らないといった表情で、彼は落ちていったのだ。
ラグビーをしていた温田見の大きな体が、腕を伸ばして千夜の手を取ろうとするかのように、何もない空間へと伸びていた。
ちょうど体育館側から昇った朝日に時計塔が照らされ始める時刻で、温田見と千夜の姿はまるで何かの絵画を見ているような幻想的な雰囲気を醸し出していた。
市岡は、迂闊にも一瞬その美しさに目を奪われてしまった。言葉を発することも出来ずに、ただ二人を見ていたのだ。自分が立っている入り口とは反対、三階の部屋の窓から一階の部屋の窓に至るまで、ただ眺めてしまった。
そして、そのままゆっくりと落下していく温田見を見ているだけの自分に気がついた頃には、絶望した彼は目を覆ってしゃがみ込むことしか出来なくなっていた。
「わあああああ!」
温田見は、そのまま通路の上へと落ちた。第三寮と駐車場の間の通路は、舗装されていない。土の上に落ちた人間が叩きつけられる音は鈍く重く、それが耳に届くとともに市岡は総毛だった。
「お、落ちた? 落ちたよね、今……。温田見くん……温田見くんがっ……」
震える体もそのままに、市岡はただ独言ることしか出来ない。落ちて行く二人を見た頭は、混乱を極めていた。
「どうしよう、い、行かないと。ちゃんと確認……。でも……」
本来の市岡の性格ならば、おそらく死に物狂いで駆け寄って、何かしらの声かけをしようとするだろう。
だが、彼にはそれは出来なかった。必死に足を動かそうとしても、その場を動くことができずにいた。
「並木くん……」
そこにあの「時計塔の千夜」がからんでいる、それが市岡にとっては何よりも大きな問題だった。




