2話
船から出ると、憂鬱だった気分が別のなにかに覆いかぶさられた。
真っ赤な太陽が海と大地を照らしている。船と港を繋ぐ橋から見下ろした海は驚くほど澄んでいて、すっと奥まで見渡せるような気になる。水平線から落ちる太陽が、なにか、じーんとした気持ちを俺に沸かせてくるのだ。荘厳な美しさがそこにはあった。
俺は軽く感動をしながら、最後尾からゆっくりと船から下りる。年季の入った防波堤に足を下ろした。
「いやあ、よく来たねえ! 待ってたよ!」
船を下りると、快活な声に呼び止められた。俺はそちらを振り返る。
浅黒く焼けた顔の、半そで長ズボン姿の女性がこっちに向かって手を振っている。
誰だかは一瞬で分かった。俺も手を振り返す。
「理恵おばさん。久しぶり」
「ほんにねえ! サクちゃんも大きくなって」
小柄な体格で俺の胸辺りまでの身長しかないのだが、とにかく何故か存在感があるので、人垣にいてもすぐに分かった。朗らかな笑顔は簡単に、俺に誰かを彷彿とさせる。母だ。いや、この場合、母が、おばさんに似ていると言うべきか。理恵おばさんは俺の母の姉に当たる人だから。
歳も離れて、喋り方も性格も顔も身長も全く違う二人だが、どこか似ている。
ちなみに俺の名前は相沢 策。変な名前だ。祖父の名前が佐久助だったので一文字取るという非常に迷惑な被害をこうむり、以後俺は逢う人には大概その経緯を説明する羽目になってしまっている。
「おばさんは変わりませんね。小さい頃にあったときと全然」
「やだね、もうおばちゃんよ。サクちゃんは見違えたけどね。男前になってる」
おばさんは日焼けした手を差し出すと、こう言ってくれた。
「役ノ島にようこそサクちゃん。よろしく」
「はいっ。こちらこそよろしくお願いします」
俺も握り返して、挨拶をする。
はじめて逢った頃とおばさんは本当に全然変わらなくて俺は、少しだけ安心した。防波堤から港町の宮浦町の波止場まで歩く途中、おばさんと幾つか話をした。
「フェリーで来て正解だったよ。飛行機は風が強くて上空まで来たのにも戻っていったからねえ」
「俺の場合、単にお金を節約しただけなんですけどね。フェリーだと子供料金で千二百円。飛行機は高すぎますよ」
さらに追記すると、俺は飛行機が嫌いだ。羽田から鹿児島までは仕方ないとしても、何度も飛行機に乗り換えるのは、正直御免だった。どうも、子供の頃、飛行機に関して良くない思い出があるらしく、乗る度に、何故か憂鬱な気分になるからだ。こちらは恥ずかしいので言わないが。
「それにしてもサクちゃん。本島からこっちの学園に来たがる子なんてあんまり居ないよ。皆出て行っちゃうから」
おばさんは少し意外そうな顔でそう言う。
「色々事情がありまして………母親には大反対されましたけど」
「へえ、恵美が」
「………はい」
「この島には、あの子も思うところがあるのかもねえ」
遠くを眺めるような視線で、おばさんは静かに独白していた。
「おばさんには色々迷惑かけて、本当にすいませんでした」
俺はおばさんに頭を下げた。
「いいのよ。おじいさんの家なんて誰も使ってないんだし。定期的に掃除はしてたから汚くはないと思うよ。………じゃけど、サクちゃん。しっかりと恵美と話し合ったの?」
「…………」
理恵おばちゃんは痛い所を的確に突いてくる。母と性格は全然違うのだけど、そういう所はよく似ている。まっすぐな目でじっとこちらを見つめてくると、全部見透かされている気がしてくる。
「すごく反対されましたけど、最後は俺の好きなようにしろって言ってくれました」
おばさんはなにもかも悟った顔で苦笑を浮かべた。
「うちの家系の奴はみんな、言い出したら頑固なんだから。どうせ喧嘩別れでもしてきたんだろ?」
正解。穏やかな会話にするはずが、お互いヒートアップして結局、最終的に殴りあいにまで発展してました。といってもこっちが一方的に殴られるだけなのだが。母は強い。
「私が口出すことでもないし、好きにすればいいのさ。じゃけど、電話はしてあげなさいよ」
「はい。母の怒りがさめたら。でも、気まずいんですよ。………義妹がいるので」
俺は、初めて義妹と逢った日のことを思い出してゲンナリする。全然、会話は弾まないし、目も合わせてくれないし合ったと思えばすぐに逸らされてしまう。あの気まずい時間の味わったとき、すでに、家を出る選択肢は俺の頭の中にあったのかもしれない。
「そうか。聞いた話だと結構上手くいってるって聞いてたんだけどね」
「母って、すぐ物事を楽観視するんです。大体、外食行ったら、前触れもなしに恋人とその娘を連れ来ますか普通に考えて」
サプライズにも限度があるだろ。
―――俺は超普段着だったのに向こうはめかしこんで来てるし。
飯がつがつ食ってたら突然、目の前に座って挨拶されても困るから! 後は若い二人だけで、ねっ、じゃねえんだよ! 気まずいわ!
俺は思わず思いのリビドーが暴発する。今でもあの沈黙を思い出すと悶えたくなる。窒息死するかと思った。全く、家の母親の思考は大概どうかしている。
「はははっ! さすが恵美、よくやるねぇ!」
「………いや、さすがって」
忘れてた、この人もその家系の一人だった。そもそも女傑家系である家はとにかく女の地位が高い。 親戚は少ないけど皆が皆ちょっと(謙遜表現)変わっている方が多く、比較的まともな部類の理恵おばさんだが、間違いなく家の血脈ではあるのだ。とにかく豪胆で大雑把。
「はっはっは、ま、がんばりなっ! サクちゃん!」
背中を勢いよく叩かれる。痛い。
「は、はいっ」
****
おばさんの灰色のバンに荷物を乗せ、ゆっくりと島の端を走っていく。荷物といっても旅行に必要な手荷物は少なく、大体の生活用品は飛行機に乗っけて先に送ってある。つまりほとんど手ぶらに近い。飛行機が引き返してしまったので、届くのは明日以降になるが、田舎といっても必要最低限の必需品店はあるらしいので、(車で飛ばせば島のどこにでも三時間以内にいけるらしい)不安にはならなかった。
島は本当に森ばっかりで、見渡す限り森、森、森、海、といった風情。病院や大きなスーパーがあったりもするのだが、その横は全部、森。
鹿、猿、狸注意の看板を時折見かける。
俺はじっととその光景をながめていた。どこか懐かしい気分になったのは、ずっと昔の記憶かなにかだろう。
宮浦、二奏、二つの町が続く。正直に言ってしまうと、どこもあんまり景色は変わらない。
俺の目的地はさらに先にある永川だった。もう、そう遠くないと思う。
永川の先にはもう街はない。山と海に囲まれた場所で、その先には現役の灯台が一本ぽつんっとあるだけだ。
段々と日が暮れて、夜になっていく。六時半になると辺りは本当に真っ暗になってしまった。
俺は話す会話も一段落着いて、少し手持ち無沙汰になると、さっき船に乗っていたときにあった出来事を思い出した。
よく考えてみればまず間違いなく幻覚の類なのだろうが、あんなリアルな幻覚、本当にあるのだろうか。結局、俺は船員に相談する事もなく、現場に戻ることもしなかった。馬鹿にされるのがオチだろうし、現場に戻るのは何故か気が引けた。まさかいるとは思えなかったが。
俺は、たぶん、白昼夢でも見ていたに違いない。
あるはずがないと感じながらも、俺は車の窓を閉めて風を遮ってから、それとなく、おばさんに訊いてみた。
「おばさん。この島で外国人はよく見かけますか」
夜道に鼻歌を歌いながら運転していたおばさんは、怪訝な顔をした。
「なんだい急に。うんにゃ、そんなに多くはないよ。自然は綺麗だけど、大して珍しいものもないから」
なんだか訊くのが恥ずかしい気もしたが思い切って訊く。
「じゃ、話変えますけど。………この島に怪物とかっています?」
「怪物ぅ?」
おばさんは今度こそ、目を丸くする。
そして大声で笑う。
「ははははは! おう、いるかもねえ! ここは森が多いし、見ての通り夜は真っ暗だ。もしかしたら居るかもしれないよ!」
そう言って、にぃ、とこちらに向かって目を細める。子供に言うみたいに言われると少し腹が立ったが、その対応に不安が晴れたのは事実だった。
「おばさんは、見たことはないんですか、お化け」
俺は少し、安心しながら言った。しかし、おばさんはこんな事を言う。
「ないねえ。じゃけど、おる気はしてる」
「へ」
「だって、サクちゃん、あんたのおじいさんがこの島に来た理由、知ってるだろ?」
俺は、思い出して、頷く。
「まあ、うん。…………『妖怪に逢いに行く』、でしょ」
俺は若干憮然としながら言った。
「だけど、これって――」
「おっと、真相は誰も知らないことさね」
おばさんは文句を言いかけた俺を遮るように言う。
「おじいさんは、確かに家族を捨てて一人こんな辺鄙な場所に引っ込んだ。理由はサクちゃんの言った通り。もしかして、本当に妖怪に逢いに行ったのかもしれないし、ただ家族を見捨てただけなのかもしれない。私だってそのことはずっと恨んでる。じゃけど、真相はおじいさんだけが知っていることさ」
「……うす」
俺は、それ以上は言わなかった。結局、俺は当事者ではなかったし、語るべき言葉もないからだ。
「ま、ロクデナシだったのは間違いないね。ははははっ」
おばさんはまったく気にしていないとばかりに大声で笑った。
それから、少し経った。
永町に近づいたとき、なにか音が聴こえてきた。
あお―――――ん。あお―――ん。
「………おばさん、なにか聞こえない?」
あおーん。あお―――ん。
「ほんとだ。なんだろう。野犬かね」
役ノ島の道の多くは山の麓に隣接している場合が多い。というよりもほとんどがそうだ。暗い鬱蒼とした山から響くような遠吠えが、何度も何度も聞こえる。今、通っている場所もそうだが、屈折した細い道にぽつぽつと街頭があるだけのこの場所は、酷く薄暗く、山の方は全く見えない。
あおーん。あお――――ん。
「こ、こんな事よくあるの?」
「うんにゃ、初めてだね。タヌキなら最近ちょっと問題になってるんだけど」
前を向いたまま、おばさんは少し驚いた顔でそう言う。俺は周囲を見渡しながら、その遠吠えがどこから響いているのか探した。車のライトと電灯だけが頼りの暗い道では、全然意味のない行為かもしれないが。
がさがさっ。
車脇のすぐ隣にあったクワズイモの群生がばさばさと揺れた。ざざっと、車のライトの横明かりに照らされた真っ白い固まりが走り抜けていくのが見えた。
「今、なんかいませんでした?」
「見てなかった。鹿かなにかじゃないかい」
「いや、もっと大きかったような……まるで」
あおーん。あおーん。
遠吠えが、山に木霊し続ける。俺は、今見た物を吟味しながら、落ち着くべく、静かに息を吐いて目をつぶった。疲れているんだ。そうに決まっている。
まるで、大きな狼みたいだった。俺はその言葉を飲み込んだ。




