1-18 学びの喜び
それからの堅枠大は週四日働き、週二日学校に通うという日々を過ごしていた。水運奴隷と再教育学校の両立は意外と簡単で、彼の生活はさらに充実していった。
彼はヒューライ語と魔法だけでなく、余裕のある日は他の科目も受講していた。メインの二つ以外は一時間だけの飛び入り参加だったが、話の流れがわからなくても歴史や文化などに触れるのは楽しいものだった。
堅枠大の印象に特に残ったのは、体育の授業だった。
体育では陸上競技や球技の他、戦闘訓練も行われている。彼が参加したのは戦闘訓練で、その日は受け身のとり方や木剣の素振りを練習し、最後は受講者どうしで模擬戦をした。
堅枠大は週二受講の林業奴隷の男と対戦し、十秒もしないうちに負けてしまった。その男性は圧倒的な強さで勝ち進み、受講者トーナメントで優勝した。
その後は、講師の退役軍人と林業奴隷の男が模範試合として剣を交えた。奴隷男性は積極的に攻めたが、講師はその攻撃を軽々といなし、結果として奴隷男性は負けてしまった。
退役軍人はその男性のことを新兵程度の強さはあると評価して軍にスカウトしたが、男性は「林業に誇りがある。アンタと戦うのが楽しみなだけ。いつか勝ってやりますよ」とってそれを断っていた。どうやら、このやり取りはいつものことのようだった。
ちなみに、講師の退役軍人は今でも第一線で活躍できるほどの強さがあるらしかった。その彼が言うには、国王親衛隊の戦士は五人の兵士を同時に相手にできる程度の力があり、その中でもアスラという最強の戦士は精鋭の兵士十人を相手にしても圧勝できるとのことだった。
堅枠大はこの体育の授業で、一般人と兵士の力の差を実感した。
やはり、餅は餅屋ということなのだろう。
そして、時間はあっという間に過ぎて二か月後、八月。
ヒューライ国の夏は、少し暑い程度の気温であり、雨はそれほど多くはないが決して水不足にはならないくらいの降水量はある。そのため、日本の蒸し暑い夏と比べれば遥かに快適だった。
服装も夏仕様に変わり、ほとんどの人が半袖の服を着ている。王宮関係の人間が身に着ける役職を知らせるマントも、夏には短い肩掛けのケープに変わっていた。
快晴の土曜日。この日も堅枠大は再教育学校に通っていた。
彼の学習は順調で、確実にその力を伸ばしていた。
ヒューライ語の授業では、一か月で文字と数字をすべて覚え、次の一か月で簡単な単語をそれなりに暗記し、今は基本的な文法の学習に入っていた。
「ブージ、ハー、カタワク。ハー、エーマ、マッコウ?」
堅枠大はそう言いながら、紙にヒューライ文字を書いていく。ちなみにこれは、『私はカタワク。あなたはマッコウですか?』という意味だ。
彼が一通り例文を書いたところで、講師のフーカ先生が彼の隣に立ち止まった。
彼女は明るい笑みを浮かべて堅枠大に話しかける。
「うん! カタワクさんも、ヒューライ語が少しできるようになってきましたね。その調子です!」
「いやいや、まだまだですよ」
講師の言葉に、堅枠大は本心で応えた。
現時点では、基本的な例文や単語を覚えるので精一杯だった。読み方はともかく、綴りがなかなか覚えられない。まるで英語を学習し始めた中学一年生の時に戻ったかのようだった。
ヒューライ語の語順は基本的に英語と同じで文法は英語よりも単純だということは、彼はなんとなくわかってきていた。
堅枠大はヒューライ語学習に対して前向きな気持ちでいた。誰かに頼らなくても文字が読めるようになりたい。できれば翻訳魔法に頼らなくても大丈夫なようになりたい。
その目標に向かって、彼はヒューライ語の勉強を続けた。
また、魔法の授業では。
「火よ、起きろ」
堅枠大が手に魔力を込めてそう唱えると、右手の人差し指の先に小さな火が灯った。その火は数秒後に消えた。
「次……水よ、来い」
続いて彼がそう言うと、空中に数ミリリットルの水滴が現れ、彼の手のひらに落ちた。
「次……風よ、吹け」
そう念じると、彼の周りにだけ微弱な風が起こり、その頬を撫でていった。
「最後、土よ、動け」
彼は机に置いてある器に向けて念を送った。すると、容器の中に入れられている土の一部が、少しだけ盛り上がった。
四つの魔法を実行し終え、堅枠大は背もたれに体を預けて額の汗を手の甲で拭った。
「ふぅ。こんなもんかな」
「素晴らしい。もう四大属性を使えるようになったのですね」
堅枠大の隣で見ていた国家魔法士のカオン講師が、夏前と同じ白いローブ姿で、音を鳴らさずに拍手をする。
講師の褒め方は控えめだったが、堅枠大は照れくさくなった。
「とは言っても、ほんのちょっとだけですけどね」
「ほんのちょっと、でもたいしたものです。カタワクさんの努力の賜物ですよ」
カオンは穏やかに笑う。
彼は少し考えるようなそぶりを見せた後、机に置かれていた空のガラスコップを手に取った。彼はコップを顔の前まで持ち上げ、両手で支える。
「水よ、このコップを四分の三程度にまで満たせ」
カオン講師は何気ない顔でそう唱える。
その直後、コップの底に水が現れた。みるみるうちに水位が上がっていき、やがて彼の言う通りになった。
カオン先生は何一つ疲れた様子を見せずに、水の注がれたコップを堅枠大の前にそっと置いた。
「では、次はこの水を冷やしてみてください。カタワクさんには氷の適性があるようですから、ある程度はできると思います」
「わかりました」
堅枠大は慣れた様子でコップに左手を伸ばし、人差し指と中指を水に浸した。その後、深呼吸をする。
「水よ、冷たくなれ」
彼は指先に意識を集中させ、コップの中の水が凍るイメージを浮かべた。
すると、水が少しずつ冷たくなっていった。堅枠大は歯を食いしばり、額に汗を滲ませながら、水の中に魔力を送り込もうとする。
彼は必死だった。
だが、いくら頑張っても、水はそれ以上冷たくはならなかった。
「そこまで」
カオン講師の穏やかな声が堅枠大の集中を切る。
「はぁ! はぁはぁ……」
いつの間にか呼吸が止まっていたようだった。意識が分散したことで口が自然と息を吸い込み、それからは堰を切ったかのように肺が酸素を求め始めた。
堅枠大は水から指を抜き、全身の力を抜いた。
その直後にとてつもない疲労感が襲ってきて、彼は机に両肘をついてしまった。顔を下に向け、荒い呼吸をすることしかできない。
そんな堅枠大を、カオン講師は嬉しそうな笑みを浮かべて見ていた。
カオンは両手でコップを持ち上げ、小さく頷く。
「この前よりも冷たくなりましたね。このままいけば、水を凍らせるのはもちろんのこと、水に触れなくても温度を下げられるようになるかもしれませんね」
「はぁ、はぁ……はい。ありがとうございます」
堅枠大は顔を上げて講師を見る。
カオン先生は少しだけ口元を上げて彼に応え、そのままコップを持って教壇のほうへと歩き始めた。
堅枠大は呼吸を整えながら、講師の背中を見てこれまでの魔法の授業を思い出す。
最初は四大属性の訓練に四苦八苦していた。受講開始から一か月経つと、水滴を呼べる程度には水魔法が安定した。その頃にカオン講師が堅枠大の氷魔法適性を見抜き、四大属性の訓練と並行して氷魔法の練習が始まった。すると、彼は水以外の基本属性も使えるようになっていった。そして、今に至る。
カオン講師が教壇に上がり、受講者たちに体を向ける。
講義終了を知らせる鐘はまだ鳴っていない。いつも慌てて授業を終えている彼にしては、こうして余裕をもって締めくくるのは珍しいことだった。
「では、そろそろ終了の時間です。が、今日は少しだけ特異体質についてお話しておこうと思います」
どうやら、話をしたいがために、彼は訓練の見回りを早めに終えたようだ。
カオン講師は咳払いをし、話し始めた。
「実は、魔法には二種類あります。習得型と特異体質型です。今みなさんが訓練しているのは習得型ですね。習得型のほうが一般的ですし、魔法のほぼすべてが習得型と言って問題ありません」
彼はここで、わずかに表情を険しくした。
「ですが、一万人に一人という割合で、特殊な魔法を使える人間が存在します。それが特異体質型です。生まれつきがほとんどですが、まれにその体質を後天的に得てしまう人もいるようです。特異体質型の魔法は人それぞれで、例を挙げれば、異様なほどに身体能力を強化できる、死ぬまで若いままでいられる、といったものです」
講師の話に、堅枠大はなぜか引きつけられていた。
その理由もわからないまま、カオンの話は続く。
「特異体質型の魔法については、その数の少なさや種類の多さが原因で、ほとんど研究が進んでいません。使い方次第では強力な武器にもなるようですし、迷惑なだけという事例もあるようです」
そう言って、カオン講師は表情を和らげた。
「とまあ、これはおまけ話なので、頭の片隅に置くなり聞き捨てるなりしてください。我々魔法士にはともかく、一般の方々にはあまり関係の無い話ですから。ですが、もし特異体質を得てしまった場合には、近くの診療所に行ってくださいね」
彼は冗談めいた口調でわずかに笑みを浮かべた。
受講者たちもつられて少しだけ笑う。
そこで、ちょうど授業終了の鐘が鳴った。




