1-10 奴隷の一日(午後)
「……ワク、カタワク、おい、カタワク、起きろ。そろそろ仕事始めるぜ」
その声に導かれ、堅枠大は目を開けた。
視界の端にマッコウの顔が見えた直後、脳が急激に働き出す。自分が今まで何をしていたのかを悟り、堅枠大は急いで上半身を起こした。
「はっ!? しまった! 寝てた! やべえやべえ! 仕事しねえと!」
「おいおい、そんなに慌ててたら水路に落ちちまうぜ? 落ち着けって」
立ち上がろうとしていた堅枠大を、マッコウは両手で押さえる。堅枠大の体はふらついていたが、マッコウのおかげで安定し、転倒は免れた。
堅枠大は座った状態で周囲を見渡した。
道路や水路では人々が活発に行き来している。空を見上げると、太陽の位置が先ほどとは少し変わっていた。
「俺、どれくらい寝てた?」
「それはもう、ぐっすりと。なかなか起きなかったぜ? 疲れてたんだな、お前」
マッコウは堅枠大に優しく微笑みかける。
しかし、堅枠大は彼と同じ表情にはなれなかった。日差しの変化から、おそらく一時間は眠ってしまっていたと考えられる。昼食から舟に戻ってきたのが午後一時前だとすると、今は午後二時。
昼休みを二時間も取ってしまったと悟り、堅枠大は顔面蒼白になった。
「そ、そうか。それより、早く仕事しないと!」
堅枠大は強烈な焦燥感を抱き、悲痛な声を上げた。
前の職場では、昼休みなど無いに等しかったのだ。昼に休んではいけないという強迫観念が、彼の中には強く根付いていた。
そんな彼に対し、マッコウは愉快そうに笑っていた。
「あははっ! 何をそんなに慌ててるんだか。安心しろよ。ちょうど今から午後の仕事始めだから。ちょっと体を伸ばしてから出発しようぜ」
マッコウはそう言って舟から降り、石畳の上でストレッチを始める。堅枠大は不安になりながらも、先輩に従って軽い運動をした。
ストレッチの後、二人は舟に乗り込んだ。
船尾のマッコウが、舟頭の堅枠大に声をかける。
「それじゃあ、今から都市を出て南の農耕地帯に行くぜ。門を抜けたらスピードを上げるから、落ちないように気を付けろよ」
「わ、わかった」
「よし、しゅっぱつしんこー!」
マッコウの元気な声とともに、舟は動き出した。
午前と同じように、堅枠大はマッコウの指示を受けて方向提示をした。他の舟とすれ違ったときは、挨拶代わりに小さく手を振った。
防壁には三種類の門があった。水路用、陸路用、そして水陸一体型。そのどれもが縦長の半楕円状の形で、開放されていた。門の付近には黒服の人間が数人立っている。
堅枠大たちは水路用の門を抜け、都市を出る。
その瞬間、周辺の景色が一気に変わった。
広大な土地に農場が広がり、辺り一面が緑色。木が点在し、ところどころに集落がある。農場の向こう側には森林が広がっていて、東の遥か遠くには高く険しい山々が連なっていた。
都市部から農耕地帯に移ったところで、舟は速度を増した。だが、堅枠大がバランスを崩すことはなかった。ほぼ直線上に進んでいるため、舟は曲折の多い都市部よりもむしろ安定していた。
右手を前に伸ばした状態で、堅枠大はマッコウに話しかける。
「これからどこまで行くんだ?」
「国境に近いところの、コーマス農場さ。そこで荷物を受け取ったり渡したり、注文をとったりするんだ。都市部と農耕地帯を結ぶのが、俺たちジャーガン国内水運の主な仕事なんだぜ。国境森林にまで行くこともあるけどな」
「え? でも、マッコウはしばらく都市部から出てなかったんだろ? なんで?」
「それはな、農耕地帯に行くのは二人一組っていう決まりがあるんだ。距離があるから、二人で安全を確かめ合ったり、荷物や注文のミスが無いよう二人で確認したりしなきゃいけない。だから、前の相棒がいなくなっちまったオレは、都市部を一人で回るしかなかったんだぜ」
「そうか。ちゃんとした理由があるんだな。でも、今日は都市部で仕事してたような……?」
「ああ、それは、仕事の説明も兼ねてジャーガンさんが回してくれたんだぜ」
堅枠大の質問に、マッコウは明るい声で応えていった。
午前の仕事を経たことで少し慣れてきたのか、堅枠大は仕事内容についての疑問が湧くようになっていた。
しかし、
(相棒がいなくなった理由は、訊かないでおこう。なんか怖いし。あと、奴隷の扱いとか、労働時間とか、給料とか、ジャーガンの本性とか……知らぬが仏ってやつ)
と、肝心なことを尋ねる勇気はいまだに湧いてこなかった。
堅枠大は方向提示の役割を果たしながら、時折マッコウと無難な雑談をした。あの農場では小麦を作っているだとか、あの農場の作る肉は美味いだとか、あの村には美人が多いだとか、本当に当たり障りのない内容だった。
それから一時間ほど進み、二人は国境付近の目的に到着した。
木造小屋の近くに船着き場があった。都市部とは違い、それの足場や階段は木で作られていた。
二人は舟を泊め、手ぶらで足場に降りた。
それから階段を上ると、広い畑があった。畑の様子は土色のなかに緑がまばらに見える程度で、作物の丈はかなり短い。どうやら、小麦の苗のようなものを植えていて、栽培開始からあまり日が経っていないようだ。
畑には十数人が散在していて、それぞれ作業をしている。かなりの頻度で魔法使用時に似た光が発生しているが、それが何のための魔法なのかは堅枠大には想像もつかなかった。
堅枠大とマッコウは数歩前に出る。
そのとき、倉庫の近くで作業をしていた老人二人が彼らの存在に気付いた。
老いた男女と目が合った直後、マッコウが二人に向けて大きく手を振る。
「バーンさーん! アリィさーん! お久しぶりでーす!」
彼が大きな声でそう言うと、二人の老人はクワを置いて作業を中断し、マッコウと堅枠大のところに向けて歩き出した。
堅枠大とマッコウも同時に歩き出す。
一メートルほどまで距離が縮まったところで、四人は足を止めた。
老男性が最初に口を開く。
「おうおう。マッコウさんか。一か月ぶりじゃな」
彼は白い歯を見せてマッコウに笑いかける。
その老男性はマッコウよりも少し身長が高く、背筋はまっすぐに伸びている。頭髪は無いが、顎には五センチほどの白い髭がある。緩い白シャツの隙間からは鍛えられた筋肉が見えていた。
「おやおや、懐かしい顔だねぇ。今日から中距離水運に復帰かい?」
その次に、老女性が穏やかな笑みを浮かべてマッコウに問いかけた。
彼女は堅枠大より五センチほど身長が低く、こちらも腰は曲がっていない。白い長髪は頭頂で団子状にまとめられている。緩い白シャツにベージュの薄い上着を羽織っていて、健康的な肉付きをしていた。
二人とも、ズボンと長靴は黒色で、土が少し付いている。
農作業中だった二人に対し、マッコウは言葉を返す。
「ええ。最初の二週間は都市の中だけでもよかったんですけど、やっぱり農耕地帯と都市を行き来したくなりまして。昨日、新しい相棒が見つかって中距離水運に戻れたので、ご挨拶しに来ました」
彼はそう言うと、今度は堅枠大に体を向け、右手で老男女を指し示す。
「この男の人がバーンさんで、女の人がアリィさん。二人は夫婦で、元は国境警備の軍人さん。今はこのコーマス農場で農耕奴隷として働いてるんだ。オレたちジャーガン国内水運とのやり取りや、農場の警備も担当してるんだぜ」
マッコウはどこか得意げに二人の老夫婦を紹介した。
堅枠大はバーンとアリィに向けて小さく頭を下げる。
「昨日、この国に来ました。カタワクです。以後、よろしくお願いします」
彼が簡単に自己紹介をして頭を上げると、バーンが右手を差し出してきた。
「カタワクさんじゃな。これからよろしく頼むぞ」
「カタワクさんだね。これからよろしくねぇ」
バーンに続き、妻のアリィも右手を伸ばしてきた。堅枠大はそれに応え、二人と握手を交わした。
握手が終わったところで、バーンが堅枠大に話しかける。
「カタワクさんは、出身はどこじゃ? 翻訳魔法を使っているようじゃが、かすかに聞こえてくるその言葉は聞き覚えが無いのう。かなり遠くのほうか?」
「いえ、それが、お恥ずかしながら、自分がどこから来たのか忘れていまして。記憶のほとんどが抜けているようです。遠くのほうから、というのは間違いなさそうですが」
堅枠大は非常時要員のアスラから受けた助言に従い、この老夫婦に対しても自分が記憶喪失であると偽った。
自然な様子を装ったのが功を奏したのか、バーンとアリィは少し気の毒そうな目をした。二人が彼の言葉を疑う様子は無い。
アリィは堅枠大に対して心配そうな表情を浮かべた。
「あらあらそうだったのかい。それは大変だったねぇ。でも、これからはヒューライ国の一員として暮らすんだろ? だったら自分がどこから来たのかなんて気にする必要もないよ」
彼女の顔が優しい笑みに変わる。
同様に、夫のバーンも堅枠大を歓迎するかのように目を細めた。
それだけで、堅枠大にとっては大きな慰みになった。この国に来て二日目で、まだ右も左もわからない。そのうえ、奴隷という身分になってしまっている。そのような状態でも、自分を受け入れてくれる同胞の存在というのは何物にも代えがたい救済だった。
「お気遣いありがとうございます。いろいろとお世話になります」
彼は精一杯の気持ちを込めて小さく頭を下げた。
その横で、マッコウが思い出したかのように両手を叩く。
「そうだ! 仕事を忘れてた。いけねえいけねえ。バーンさん、アリィさん、今日は何かありますか?」
彼がそう言うと、バーンも同じく両手を叩いた。
「そうじゃったそうじゃった。挨拶した後にそのまま帰すところじゃった。危ない危ない。いろいろ頼まれておったわい」
バーンは目を大きく開き、笑いながら腰に両手を当てる。
彼は小走りで小屋に入り、一分も経たないうちに戻って来た。バーンの右手にはA4サイズほどの茶色い封筒があった。
バーンはそれを堅枠大に差し出す。
「これに、ワシらの農場が注文したいものが書かれておるからの。代金は荷物を受け取るときに渡すわい。ああ、あと、ちゃんと防水魔法はかけておるみたいじゃから、安心して持って帰ってくれい」
「承知しました」
堅枠大は封筒を両手で受け取り、小さく一礼した。
その後、マッコウがアリィに話しかける。
「今日は何か送る物とかあります? いつも通り引き受けますよ」
「いやあ、今日は無いねぇ。また今度頼むとするよ」
アリィがそう言って微笑むと、マッコウは少し安心したように口元を緩めた。能天気に見える彼でも、追加の仕事が無いのは嬉しいようだ。
「そうですか。それでは、今日はこれで」
「もう帰るのかい? せっかくだから、お茶くらい飲んでいかないかい?」
アリィは堅枠大を一瞥して、残念そうな表情を浮かべる。彼女としては、新しい仕事仲間との交流を深めたいのだろう。
だが、マッコウは右手を自分の後頭部に当てて申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「そうしたいところですが、今日はカタワクに国の案内をしなきゃいけませんので。特に、都市のほうはこれからの生活に関わりますから」
「ああ! 確かにそうだねぇ。それじゃあ、仕方ないねぇ」
アリィは満面の笑みで白い歯を見せる。
マッコウは右手を下ろし、明るい表情に戻った。
「お茶のほうは、また荷物を届けに来たときにでもご馳走になります。では、アリィさん、バーンさん。お二人とも引き続きお仕事頑張ってくださいね」
「おうよ!」
「そちらもねぇ」
マッコウは老夫婦と簡単な挨拶をして、舟に向かって歩き出した。バーンとアリィも手足を伸ばしながら、農作業再開の準備を始めていた。
堅枠大は困惑したが、これで仕事の話は終わったのだとすぐに察した。彼はマッコウの背中を見た後、老夫婦に向かって頭を下げる。
「そ、それでは、失礼いたします」
彼はそう言って、マッコウの後を追った。
二人は階段を下り、船着き場の木板を歩いて舟に乗る。封筒は舟の中央に置き、軽い石を乗せて固定した。舟尾にマッコウが立ち、舟の先頭には堅枠大が座る。
二人が定位置についたところで、安全確認をして都市に向けて出航した。
出発してからすぐに、マッコウは堅枠大に話しかける。
「カタワク~、あんなに堅っ苦しくしなくていいんだぜぇ? もっと肩の力抜いて気楽に行こうぜ!」
その言葉に堅枠大は眉をひそめた。
ここが日本とは違うということくらい、彼はわかっていた。マッコウや周囲の人々が口から出す言葉遣いから、日本ほどの丁寧さは必要ないと判断していた。だからこそ、彼は少しくだけて話すようにしていたのだが、どうやらそれでも過剰なようだ。
「ああ、すまん。つい癖で。いや、覚えてないけど。もしかしたら、体に染みついちゃってるのかもな」
堅枠大は文化の違いを、身をもって感じた。
そんな彼に、マッコウは笑い声混じりに言葉を返す。
「記憶がなくても反射的にやっちまうのかぁ~。カタワクがもと居た所って、堅っ苦しい場所だったんだなぁ」
「ハハッ、そうかもな……」
堅枠大は適当に返事をして、口を閉ざした。
そうかもな、ではなく、そうだったのだ。そう思うと、彼の脳裏に元の世界での出来事が浮かび上がってきた。
(気楽に行こうぜ! なんて言っても無駄だぞ。どうせ、これから深夜まで働かされるんだろ? そろそろジャーガンとかいう奴が本性現して、怒鳴り散らして暴力振るいまくるんだろ? マッコウの能天気さは現実逃避なんだろ? 上司の目が無い今が天国みたいなもんなんだろ? なあ、そうなんだろ? 退役軍人が奴隷に堕ちるような国なんだぞ? 下っ端に優しいわけないだろうが。なあ、そうだろ!)
堅枠大の表情が一瞬にして曇る。
これから待ち受ける労働を予想して、彼は舟上で小さく震え続けた。