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一息つこうと思ったその時、カラカラとラーメン屋の戸が開く。
反射的に声が出た。
「いらっしゃいませ」
こんどの客は男だ。年は三十代といったところか。ジーンズにサンダルというラフな格好に、よれよれのワイシャツを着て、黒の野球帽をかぶっていた。四月でそれは寒いだろうが、なぜだか男は首から上が赤く、少し汗ばんでいる。よく観察すると、見かけたことのある顔だ。月に二度ほど来店し、いちばん安い醤油ラーメンを頼む男で、たしかここの上の階に住んでいた。
……上の階に住んでいた?
悪い予感に背筋を凍らせている僕に気づく様子もなく、男は申し訳なさそうに帽子を脱ぐ。
「なあ、人を探してるんだけどよぉ。身なりが良くて、こんくらいの背の子供、知らないか?」
手のひらを下に向けて、身長を再現する。カウンターから身を乗り出して見てみると、その子は僕の胸元あたりに頭がくるようだ。
ちらりと横を見る。ちょこんと座ったレイカは、僕の視線に気付いて立ち上がろうとした。このまま立ち上がれば、頭がちょうど胸元あたりにきそう。
「あっ、あの男よ。わたくしをゆうか……うぐっ」
とっさに僕はレイカの頭を押さえつけた。
「なっ、なにする、んん!」
ついでに口も押さえる。
自分から誘拐犯の前に出て行ってどうするのか。この娘に策などないだろう。もちろん僕にも良いアイディアなんてない。
男の視線が僕の挙動に向けられていることに気づく。あきらかに怪しんでいる目だ。
「えっと、そう! その女の子の特徴は?」
とっさのひらめきで、気を逸らそうと試みる。
「特徴か。そうだな、まず目つきが悪い」
運良く男は話に乗ってくれた。
レイカが悪い目つきで僕を睨みつけている。食って掛かろうとするので、がっちり両手で頭を固定した。
「次に口が悪い」
レイカが暴言を吐き出すのを必死で押さえこんだ。
「他には」
「あっ、もういいです」
「えっいいの?」
「はい。もう限界なんで」
これ以上はレイカが何をしでかすかわからない。
「そうかぁ……」
なにかを悟ったらしく、踵を返し店の戸に手をかける。
ジーンズの尻ポケットから黒い柄が見えた。あれは紛れも無くナイフだ。
男は少しだけ戸を開けて、去り際に振り返る。
「大事な奴なんだ。もし見つけたら教えてくれ」
承知した旨を二つ返事で伝えると、男は戸を開けて出て行った。
男の姿が見えなくなるのを見届けて、大きく深呼吸する。心臓が高鳴っていることにようやく気がついた。店内はしばらくぶりの静寂を取り戻したように感じる。
「あ、レイカ」
僕は胸元に押さえ付けたレイカの存在を忘れていた。顔を真っ赤にして、小刻みにジタバタしている。パッと解放したら、何度も何度も呼吸を繰り返した。
「ごめん」
「はぁはぁ。やっぱり……」
レイカは乱れた髪を整えて、改まって僕に向き合った。例によって三白眼が僕をじろりと睨んでいる。
「あなた、あの男の一味ですわね!」
びし! と人差し指を僕に差した。
やれやれ、いったいどんな勘違いだ。
「あまつさえ、わたくしを秘匿するとは……さては、二重誘拐をするつもりなのかしら!?」
手の甲で口を隠し、ぐいっと上体をのけぞる。
「信じられませんわ!」
「それはこっちのセリフだ!」
と、突っ込んだ時、店先からふたたび男の声がした。
とっさに自分の口をふさぐ。僕につられたのか、レイカも自分の口に手を当てていた。
無言で男を見ていると、男の方から話を切り出す。
「言い忘れていた。そいつの名前なんだが、えー、レイ……レア……」
男は帽子のつばをいじくりながら、貧乏ゆすりを始める。見たところ、名前を思い出せないらしい。
僕は言わなきゃいいのにその名を口にしてしまう。
「レイカ」
「そうそう、それ……おい」
男の声色が変わる。
「お前、なんでその名前を知ってるんだ?」
本当に不思議そうな顔で、僕に疑いをかけた。
さーっと血の気が引く。おしまいだ。腕っぷしに自信はない。相手は誘拐犯だぞ。ナイフだって隠していた。
「それに、女だってことは伝えてないはずだ」
あの時、僕は子供を探している男に対し、女の子の特徴を訊いた。たしかに男は子供が女であるとは一言も口にしていない。
男は右手を尻ポケットのある方に回す。
……応戦? それとも全力で逃げるか?
武器は? 包丁は厨房の奥だ。掃除用具はもっと手前にあるが、それでも遠い。取りに戻る仕草をすれば、背中から刃を突き立てられるだろう。得策とはいえない。
カウンターの上には雑誌と卓上電話のみ。すべては間違い電話がいけないのだ。警察は僕の言ってることを信じてくれそうにないし、……いや、そうか。僕は早合点していた。この男はまだ僕を疑っている状態なのだ。
「いや、すいません。僕の恋人がレイカって言うんですよ。だからつい」
もちろん嘘、しかも命がけの。
声が震えなくて本当に良かった。
男は両腕を組み、こちらをじっくりと観察する。居心地の悪い沈黙が続いて、男は興味を失ったように体の力を抜いた。
「ふぅん。恋人がいるようには見えないけどなぁ」
最後に余計なことを言いながら、お店を出て行った。
僕はお嬢様から手を離し、しぼむようにしゃがむ。厨房側のカウンターの下は飲み物のケース置き場だ。そこから一本くらい拝借したい気分だった。
丸くなった僕の背を、レイカがぽかぽかと殴る。
「痛い痛い。だから僕は二重誘拐したんじゃないって」
殴るのがとまると、背中にほのかな温かさを感じた。
「いいえ。貴方様はわたくしを誘拐犯から救ってくださった……将来の旦那さま」
「えっ?」
耳を疑う。それとも、変なことに遭遇しすぎて、頭がおかしくなってしまったか。
でも、背中に感じる体温は疑うべくもない。
レイカの手が僕の肩に乗っていた。
振り向くと、体をくねくねさせて、頬を赤らめている。
「い、いえ。ごめんなさい。その、わたくし、殿方に恋人と言われるのは初めてで……」
「おーい、店員さーん!」
「えっ」
客席から男の声がした。
あわててカウンターから顔を出すと、先ほどの男の姿が見えた。
「えっ、はいっ、……えっ!?」
今、店を出たんじゃなかったのか?
でも、ここには男がいる。
なぜ。
思考がフリーズする。
男は店内に他の客が誰もいないことを確認する。テーブル席のイスに腰をかけようとして、尻のポケットに手を伸ばした。その時、男と目が合う。
僕は視線を逸らせず、じっと見返してしまった。
そのせいか身じろぎし、後ろに回した手とは逆の手で手刀を切る。
「いや、ちょっとね」
「……はい」
そう、ポケットにはナイフが入っているのだ。ナイフを持った男と素手の僕、勝ち目はないのは僕の方で間違いない。
傍らのお嬢様をうかがう。僕の手にひしっとしがみついていた。目をうるうるさせ、熱い視線を僕に向けている。
うん。決めた。
この子だけは守ろう。
僕は心に一筋の道を見つけた。もはやその道を行くしかない。
来るなら来い。刺される覚悟はできていた。男に視線を移す。
ふたたび目が合い、慌ててポケットから手を離した。立ったままメニュー表を手に取ると、僕の方をじっと見て告げる。
「醤油ラーメンを一つ」
……ど、どういうことだ?
「醤油ラーメンを一つだと?」
「なにかいけなかったのか?」
僕の剣幕に押されたのか、男は驚いた顔をしていた。
いや、驚いたのは僕の方だ。ナイフを出すんじゃないのか。
「な、なぜ醤油ラーメンを?」
「えっ」
男はメニューをもう一度たしかめて、ためらいがちに口を開く。
「だってここ、ラーメン屋だろ?」
「……あぁ」
間違いない。
男は一人の客としてここに来ている。そして、いつも通り店で一番安い醤油ラーメンを頼んだにすぎなかった。
手を握ると、レイカの小さな手が握り返してくる。
動揺しているのは僕だけじゃない。ラーメン屋にラーメンを食べに来ただけの男もそうだった。こんな状況になったのも、僕が誘拐犯からの間違い電話を受け取って、誘拐されたレイカが僕のいるお店にやってきたからだ。
ただし、僕のやることは変わらない。レイカを守るのだ。
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