25.春の嵐(3)
亜希は、記憶を取り戻したこと、崇之のことを含め過去のすべてを包み隠さず
打ち明ける決心をした。例えそれが愛する人を失う結果を招くとしても、これ
以上健介を欺いたまま、めぐみとして生きることに耐えられなかった。
「私、あなたに話さなければならないことがあるの……」
亜希はおもむろに切り出した。
「もう、その必要はないよ。君は彼のところへ行ったほうがいい」
冷ややかな醒めた口調だった。
「お願いケン、私の話を聞いて」
「お互いもう無理をするのはよそう。彼は俺なんかよりずっと君に相応しい
相手だ。俺にはクラッシクを愛するような高尚な趣味はないし、どこの馬の
骨とも分からないような男と一緒になるより、サラブレッドと好きな音楽を
やりながら一生贅沢な暮らしをすればいいじゃないか!」
「それ、本気で言ってるの?」
亜希は目に涙を溜め健介の顔をみつめた。
「マリエといるとさ、なんか落ち着くんだ。きっと、ああいうのが俺には
相応しい相手なんだろうな。それに… 子供ができたらしい、俺の子だ」
「子供?」
「ああ、これで分かっただろう、俺の正体が。君を平気で裏切って女を
孕ませるような酷い男になんか構わず、さっさと愛する男のもとへ行けよ。」
亜希にくるりと背を向けると、健介は窓の外に目を遣ったまま沈黙した。
(あなたの中に、もう私の居場所はないのね…)
昔の恋人に心が傾いている間に健介の心も身体も自分からすっかり離れて
しまった。当然の報いかもしれない。
「ごめんなさい、こんなことになってしまって…
今まで、ほんとうにありがとう」
亜希はか細い声で言うと、健介の背に一礼し静かに部屋を出て行った。
玄関のドアの閉まる音が健介の心に響いた。
今、追いかければ間に合う。好きだ、行かないでくれと叫びながら連れ戻したい。
愛する女をあの男から奪い返したい・・・
そんな衝動を健介は必死で堪えた。
* * * * * * *
「メグっ!?」
ドアのチャイムが鳴った。
健介は小走りで玄関へ行き、彼女の名を呼びながら勢いよくドアを開けた。
「あの… サイン、お願いします」
宅配便の若い男が困惑したようにそっと小包を健介の前に差し出した。
ワシントンの日本大使館から健介宛てに届いた小包には書簡が添付されていた。
半年前、匿名で大使館あてに日本のパスポート、写真、位牌の入った小包みが
送られてきた。パスポートの写真と年齢、そして入国時の指紋から、健介が
大使館に問い合わせていた身元不明の女性と確認されたため、身元保証人である
彼のもとに返還するという趣旨のことが書かれてあった。
めぐみがワシントンの病院に運ばれた時、彼女の写真と指紋それに身体的特徴、
事故当時の状況を記したメモを地元警察と日本大使館に届け出ていた。
健介はパスポートを恐る恐る開いてみた。
パスポートの写真は確かにめぐみだった。位牌には戒名と享年三歳と記されて
いる。開閉式の小さな写真フレームの中には男の子の遺影と家族写真が納め
られていた。幸せそうな一家の写真を見た健介は驚愕し一瞬、頭の中が真っ白に
なった。赤ん坊を抱いためぐみを中心に、初老の女性、小さな女の子、そして、
あの高村耕平が写っているではないか・・・
気持ちを落ち着かせるように、冷蔵庫から缶ビールを取り出し一気に流し込んだ。
これまでの話を時系列に頭の中で整理した。
高村は妻と死別し一人娘を妻の母親に預けていると聞いた。おそらくあの写真の
女の子と初老の女性がその二人だろう。現在は独身で杏子というガールフレンド
がいる。めぐみが抱いている赤ん坊が亡くなった男の子なら、父親はおそらく
高村耕平・・・と言うことは、めぐみと高村は夫婦だった。何らかの事情で離婚
した後、めぐみは木戸崇之と恋に落ち婚約する。が、結婚寸前に二人は引き裂か
れた。絶望しためぐみは渡米し、あの事故で記憶を失った。
そして、偶然にもここボストンで過去の二人の男たちと再会した。
めぐみに向ける高村の暖かい眼差し、事故の際、彼女の病歴を熟知したERでの
適切な処置、二人に共通する奇妙な寿司の食べ方・・・
今まで何となく腑に落ちなかった事柄が、これですべて納得できる。
二本目のビールを取りに立ち上がろうとした瞬間、テーブルの上の写真の入った
フレームが床に落ちた。中からきちんと畳まれた古ぼけた便箋のようなものが
飛び出した。
その手紙を読み終えると健介の頭の中はさらに混乱し、大きな溜息をついた。
手紙の主は “Takuya” という名のめぐみを愛する第三の男である。
昔の男のラブレターを、なぜ家族写真といっしょに大事に取って置く必要が
あるのか・・・
(男の心を弄ぶ魔性の女…)
いつかPCに送られてきたメールの文面が頭を過ぎった。
健介は慌ててそれを打ち消すように頭を左右に振った。
テーブルの上の写真、位牌、手紙を暫くの間じっと見つめていた。
めぐみがショーンやアンジェラに注ぐあの優しい眼差しは、やはり母親のもの
だった。彼女にとって子供の遺品はかけがえのないものだろう・・・
健介は箱の中に位牌や写真を元通りに戻した。そして、車のキーを握りしめると
地下の駐車場に降りた。
向かった先は木戸崇之が長期滞在しているダウンタウンのホテルだった。
「木戸様は、先週チェックアウトされています。確か、日本に帰国されたと
伺っておりますが…。」
ホテルのフロントが慇懃に応えた。




