18.疑念
朝、オフィスに着くと一番にメールをチェックするのが健介の日課になっている。
今朝PCを開くと不審なEメールが入っていた。
『貴方はあの女の本性を知らない。
可愛い顔の仮面の下には、男の心を弄び翻弄し平然と
欺き裏切る魔性の女。
エリート医師の次は富豪の若きバイオリニスト・・・
聖バレンタインの夜の目撃者より』
明らかにめぐみを中傷する悪意に満ちた文面である。
はじめは単なる悪質な悪戯だと思った。が、だとしたら、誰がいったい何の
ために・・・
「ドクター、ドクター・アリーガ! 501号のスミスさんの検査結果が
送られてきましたよ」
「ああ、分かった、ありがとう」
健介はナースの声で我に返った。
その後は仕事に追われメールのことはすっかり忘れていた。
「よう、ケン!」
ロビーの待合室にいたアレックスが声をかけてきた。
電話やメールのやり取りだけで彼と会うのは久しぶりだった。
「アレックス、どこか悪いの?」
「いや、ちょっと風邪気味でね。念のためにインフルエンザの注射を打って
もらおうと思って。先週ケープへ行ったのが悪かったかな、なにせこっちより
だいぶ気温が低いからね… あっ、そうそう、リズが君たちによろしく
言ってたよ」
『りズの家』には紅葉見物以来行っていない。
「またぜひお邪魔したいな、僕たちからもよろしく伝えて。相変わらず、毎週
行ってるんでしょ?」
「それが、忙しくてここんとこ、ちょっとご無沙汰だったもんだから、
バレンタインデーにその分埋め合わせしたってわけさ」
「えっ? 先週の金曜はメグたちと食事に行ったんじゃなかった?」
「いや、あの日は昼過ぎには皆と別れてケープに向かったから、僕は行って
ないよ。
あの後みんなで行ったんじゃないのかな」
「そう…」
健介はあの夜のことを思い起こした。
めぐみは確かにアレックスと彼の行きつけの店へ行ったと言った・・・
タカユキの車から降りてきためぐみの姿、上気した顔、そして、今朝送られてきた
メールの文面が頭の中で激しく交錯した。
* * * * * * *
「やっぱり、私には無理! 片手でピアノを弾くなんて曲芸師みたいな真似、絶対
できないわ」
めぐみはさっきから何度も同じところで躓き苛立っていた。
演奏会を一か月後にひかえ、思い通りに弾けないことに強い焦りを感じている。
「今日はもう、よそう。二、三日ピアノから離れて、コンサートのことも忘れて
リラックスした方がいいかもしれないな。ボス響、戻っているから気分転換に
週末にでも彼と二人で行ってくれば?」
「…」
「バレンタインデーの夜につき合ってもらったお礼だよ」
そう言うとシンフォニー・ホールでのチケットを二枚めぐみに渡した。
「ありがとう、タカユキさん」
「どういたしまして。あっ、もし万が一彼の都合がつかない時は、電話くれれば
すっ飛んでいくから。じゃ!」
悪戯っぽくウィンクするとスタジオを出て行った。
(ケン、いっしょに行ってくれるかしら…)
ジャズやR&Bを好みクラシックの苦手な健介の顔を思い浮かべながら、
チケットを握りしめた。
タカユキの思いやりが嬉しかった。彼にはいつも心の中を見透かされているような
気がする。彼のバイオリンは常にめぐみのピアノを優しくリードしてくれる。
まるで、ずっと昔からパートナーであったかのように阿吽の呼吸で息が合う。
その一体感に陶酔して行く自分に気づき、演奏中にはっとすることがある。
あのバレンタインの夜、二人だけで食事に行ったことを健介に正直に言えなかった。
不思議なくらいすらすらと嘘をついてしまった。そんな自分に嫌悪感すら覚える。
めぐみは自分の中で芽生えたタカユキに対する感情にどう対処したら良いのか
困惑していた。