17.聖バレンタインの夜
二月のボストンは雪に見舞われる日が多く野外での活動はかなり制限される。
映画やスポーツ観戦など屋内での娯楽を楽しみながらボスト二アンたちは春の
到来を待つ。
アレックスの次の公演、イースター・チャリティーコンサートの日程が決まった。
今回は事故や病気で身体の自由を奪われた障害者、生まれつきハンディキャップ
を持つ子供たちを招待することになった。それは、めぐみのピアニストとしての
復活を願うアレックスたちから彼女へのエールでもあった。
「アレックス… 私、やってみるわ」
めぐみは彼らの暖かい気持に応えるため、そして障害を持つ子供たちに少しでも
勇気を与えることができるならと、コンサートの参加を承諾した。
それと、もう一つ彼女にピアノを続ける決心をさせたものがある。それは、
タカユキだった。彼のあまりに熱心な説得と、あのバイオリン演奏に心を
動かされた。
「そうか、それは良かった。じゃ、さっそく来週からレッスン開始だ」
「また、アカデミーのピアノを使わせてもらってもいいの?」
「もちろんさ、ジムも前のように協力したいって申し出てくれてる。それに、
今回はタカユキも参加することになってね。君がいつでも練習できるようにって、
公演までの二か月間ピアノのあるスタジオを借りるそうだ。」
めぐみには、彼がそこまで自分のためにしてくれる理由がいまだに解らなかった。
「ねえ、アレックス、タカユキさんってどういう人なの? 新婚なんでしょ?
それに、仕事とか…」
「心配しなくてもいいよ。彼は日本では半端じゃない金持ちらしいから。
君のピアノを心から愛する凄いスポンサーが現れたと思えばいいさ」
「でも… 」
めぐみはまだ納得がいかなかった。
「ほんとにこれ左手だけで弾いてるのか? 俺みたいな凡人からすると
ピアニストというよりは、まるで曲芸師だな」
「でしょ、私はとてもこんな風には無理だけどね」
ラベルのCDを聴きながら健介はしきりに感心している。
めぐみがピアノを再開したことを健介は心から喜んでいる。
彼女に笑顔が戻り、事故前のような生き生きとした姿を見るのが嬉しかった。
「けどさ、そのタカユキとかいう人、いったい何者? 二か月も家を留守にして
チャリティーコンサートに参加するなんて…」
「アレックスの話だと、すごいお金持ちらしいわ」
「もしかして、メグに一目惚れした大富豪の爺さんだったりして…」
冷やかすようにめぐみの顔を伺った。
「いやーだ、そんなわけないでしょ。それに、彼は新婚ホヤホヤで、ケンと同じ
くらいか、もしかしたら年下かもよ」
「へえ、そうなんだ…」
アレックスの友人だと聞いていたので、てっきり彼と同年配の男を想像していた
健介は少し意外な気がした。
「ああ、そうそう、来週の金曜、ナイトシフトなんだ。まったくついてない
よな、せっかく今年はバレンタインデーと週末が重なったというのに…」
月に一度、夕方から深夜、深夜から朝までの当直が廻ってくる。
「仕方ないわよ、お仕事なんだもん」
「この埋め合わせはきっとするからさ」
健介は済まなそうに言った。
アメリカのバレンタインデーは日本のように女性から男性限定でチョコを贈る
習慣はない。愛する人たちに自分の思いや感謝を伝えるという意味合いが強く、
恋人、夫婦、親子、祖父母と孫、友人、今ではペット宛てへと、カード類も
豊富に揃っている。その日は花やスイーツなどの贈り物をしたり、夫婦や恋人
同士は外食のディナーを楽しんだりする。
* * * * * * *
「ああ、ごめんなさい、どうしてもここでドジっちゃう…」
めぐみは大きな溜息をついた。
火木金の週三日、崇之が借りたスタジオでのレッスンが始まった。
コンサートでめぐみはピアノ協奏曲と、バイオリンとピアノのためのオリジナル曲の二曲を演奏する。オリジナル曲はピアノのパートを特に左手のピアニストに考慮し、崇之が自ら作曲したもので “希望” というタイトルがつけられた。
「大丈夫、そんなに焦らなくても。まだ時間はたっぷりあるから。
今日はこれくらいにしよう。今夜は彼とバレンタインのディナーなんだろ?」
「残念ながら、彼、深夜まで仕事なの。」
「そうなんだ… じゃあ、これから僕とつき合ってくれる?」
楽譜を片付けているめぐみに向かって言った。
「……」
「バレンタインデーにお互い一人の夕食なんて侘しすぎるよ。そう思はない?」
「でも…」
めぐみは戸惑った。
「心配しなくても、シンデレラにならないうちに、ちゃんと家まで送るから。
パリ直営の店が、ダウンタウンのホテル内にオープンしたんだ。フレンチ、
嫌いじゃないよね?」
「ええ…」
「悪い、待たせて」
「遅いじゃない! バレンタインのディナーはブロンドの妻と、夜のベッドは
大和撫子となんて、あなたも大したものね」
「そんなにいじめるなよ。さあ、行こうか」
三沢は杏子を促した。
「ちょっと待って! 彼女、あなたの隣人じゃない?」
エレベーターの手前まで来ると杏子は急に立ち止まった。
「ああ、確かにメグだ。連れの男だれだろ?」
「三ツ星レストランでバレンタインデーのディナーとは、さすが御曹司ね」
二人が最上階のレストランまで直通のエレベーターから降りてくるのを見て、
呟いた。
「木戸グループの次期CEOよ」
「木戸グループって、あの戦前の木戸財閥の?」
「だから言ったでしょ、ああいう虫も殺さないような大人しい顔して、やること
は凄いんだから。なんだか、すごーく面白くなってきたわ… 」
杏子は薄ら笑いを浮かべながら、三沢とホテルの部屋に消えて行った。
* * * * * * *
コンドミニアムの下に車が横付けされている。
運転席から男が出てきて助手席のドアを開けた。中から降りて来る女の姿を
見て、健介の足が止まった。二人は短い会話を交わすと男は運転席に戻り、
車はそのまま闇の向こうに走り去った。
「あれ、どうしたの? まだ十時前よ」
めぐみは少し驚いた様子で腕時計を見た。
「ボスの粋なはからいでね… ハッピー・バレンタイン!」
健介は真紅の薔薇の花束を差し出した。
「うわぁ、きれい! どうもありがと」
「いまのが、タカユキさん?」
車が走り去った方向に目を遣り、さりげなく聞いた。
「え? うん… ケンが今夜は仕事だって言ったら、みんなで食事に行こうって、
ことになったの」
車で送ってもらったのを見られたことに一瞬驚いたようだが、動揺した様子も
なく応えた。
「そっか… けど、やっぱ凄いよな、“BM” 乗り回すなんて。俺のポンコツ
とはえらい違いだ」
健介は無理に笑顔を作った。
「なんか、こっちにいる間だけリースしてるみたい」
「じゃあ、ディナーもさぞかし高級なとこへ連れて行ってもらったんだろうな?」
自分でも嫌になるくらい皮肉っぽい言い方になった。
「ううん… アレックスの知っているカジュアルなイタリアンのお店。
なんだか、ちょっと、ワイン飲み過ぎちゃったみたい…」
めぐみは俯きかげんに頬のあたりを抑えた。
外灯に照らし出された顔はほんのり上気し、普段とは違う何か艶めかしい色香が
漂っている。
「愛してるよ、メグ…」
いきなりめぐみの躰を抱きしめると荒々しく唇を奪った。
何か得体のしれない嫉妬心が身内に沸々と沸き上がり、健介は熱く高揚していた。




