16.過去への誘い(3)
めぐみは、チェスナッツ・ヒルの閑静な住宅街にあるアレックスのアトリエ兼
自宅に来ていた。
「メグ、君にどうしても会いたいという男がいるんだ… 」
「……」
「覚えてる、タカユキのこと?」
「ええ…」
「君がピアノを断念したことを知って、とても残念がってる。彼も僕やリズ同様、
どうしてももう一度メグのピアノを聴きたいと切望している一人なんだ。」
「アレックス、気持ちは嬉しいけど私はもう無理。弾きたくても、この指が
動いてくれないんだもの…」
くやしそうに右手の拳を握りしめた。
「右手がダメでも左手があるじゃない!」
いつの間にかリビングルームに入って来た崇之は、両手に抱えきれないほどの
楽譜の束をテーブルの上に置いた。
第一次世界大戦で右手を失ったピアニストの要請で、モーリス・ラベルが作曲
したと言われる『左手のための協奏曲』をはじめ、左手のためのピアノ曲の
楽譜ばかりだった。
「うわっ、タカユキ、それにしてもよくこれだけ集めたもんだなあ…」
手に取りながらアレックスはしきりに感心している。
「…おっと、もう子供たちが来る時間だ。君たちはここでゆっくりしてると
いいよ」
二人をリビングルームに残しアレックスは慌ててアトリエへ向かった。
「こんなの、私には絶対無理だわ。」
楽譜の一つに目を通しためぐみは首を大きく左右に振った。
「大丈夫、君なら絶対できる!」
崇之は力強く言い放った。
「でも、なぜ、そんなに…」
たった一度会っただけの彼の真剣な眼差しがめぐみにはどうしても理解でき
ない。
「君のピアノには、聴く者の心に響く何かがある。リズの心に若くして逝った
愛娘を思い起こさせたように、アレックスの心に最愛の恋人を甦らせたように。
聴く者それぞれの心を癒し満たしてくれる何かが… 」
崇之は胸にこみ上げてくる感情を払いのけるように立ち上がり窓際に歩み
寄った。
「あ、そうだ、この間の『さすらい人』のお返しに、僕のバイオリン、聴いて
くれる?」
気を取り直すように、部屋の隅に置いたあったバイオリンケースを持ち上げた。
「あの曲は、タカユキさんの心に、いったい何を思い起こさせたのかしら?」
めぐみは悪戯っぽい表情を浮かべる。
「さあ… 忘れようとしても忘れられない初恋の人、かな?」
崇之も同じように悪戯っぽく応えた。
崇之のバイオリンから甘く切ないメロディーが静かに流れる・・・
イタリアのトスカーナ地方に古くから伝わる詩にフォーレが曲をつけた歌曲、
『夢のあとに』
--夢の中の幻想的な世界で出逢った美しい女と激しい
恋に落ちる男…やがて夢から覚め無情にも一人現実に
取り残された男は、女の幻を追い求め嘆き悲しむーー
情感溢れる物悲しく優美な旋律がめぐみの心に深く沁み入り、ピアノを断念して
以来心の奥底にできた空洞を徐々に埋めていく・・・
それはやがて全身に広がり、心地よい甘美な快感となって躰を優しくつつんで
くれる。
まるで愛する男に抱かれているかのように、身も心も潤い満たされていく・・・
(やめないで…!)
曲が終わりに近づきクライマックスを迎えると、めぐみは心の中で思わず叫んで
いた。
* * * * * * *
気が付くと、マリエのアパートのカウチに横たわっていた。
飲み慣れない日本酒をたて続けに何杯も飲まされたせいか、一気に酔いが
回った。彼女の肩に摑まって店を出たところまでは覚えているが、その後の
記憶がまるでない。
「どう、気分は?」
「……」
マリエはいきなり服を脱ぎはじめた。
強い体臭と安物の香水が入り混じった強烈な匂いが鼻をつく。
朦朧とする健介の眼前に一糸纏わぬマリエの裸体があった。
父親から譲り受けた褐色の肌の色が豊満な肉体をスリムに引き締め、黒人特有の
シャープでしなやかなフォルムを創っている。
痩せぎすの十五歳の少女の面影はどこにも残っていない。
「あんたのフィアンセと違って、あたしはプロ並みよ。ケンを天国に連れてって
あげる」
いきなり健介の股間のものを握りしめると深い胸の谷間に擦りつけた。
「よ、よせよ…」
彼女の大胆な行動を制止しようとする健介の感情を無視するかのように、身体は
次第に自由を奪われ理性を失っていく。呼吸は荒々しく乱れ下半身はすでに激しく
波打っている。
「ケン、アンタがずっと好きだった……Fu*k me...」
マリエは淫らな言葉を口にしながら恍惚とした表情を浮かべる。
女体の中に吸い込まれた下肢はまるで全身の血流がその一点に集結したかの
ように充満し、マリエの中で一気に放出された。
鮮烈な快感が全身を貫き健介は思わず野獣の雄叫びのような声を発した。
マリエは盛りのついた雌猫のような呻き声を洩らすと、放心したように健介の
上に覆いかぶさった。
「どう、ケン? 人形のように可愛いあんたのカノジョとじゃ、こうはいかない
でしょ? 今度はもっとイイことして、あ・げ・る」
煙草をくわえ旨そうに一服すると天井に向け大きく煙りを吐いた。
その仕草は、いつか見た映画の中に出て来る娼婦の姿そのものだった。
健介は堪らない気持ちになった。
「泊まっていけばいいのに…」
「おまえとはもう二度と逢わない」
「ケン、アンタは必ずまたここへ戻って来るわ」
マリエは卑猥な笑みを浮かべながら二本目の煙草に火をつけた。




