5-脱皮
翌日は土曜日で疲れているのかなかなか起きてこない夫を起こしにいった。
「もう起きたら? 朝ご飯できてるよ」
うーんと言って寝返った枕の上に茶色い滓がぺろりと落ちている。なにこれ? 日焼けで剥けた皮のようだ。ねぇ、ちょっと。顔の皮膚がパーティグッズによくある透明の仮面をつけたようになっている。説明しにくいが、非常に薄いプラスチックの皮膚が顔じゅうに張り付いている感じだ。その一部、生え際あたりが少し砕けていて、その滓が枕の上に落ちたらしい。
「ちょっと、顔の皮がめくれているよ」
うん? と言って眉をあげて瞼を開こうとする夫の目の周りのプラスチックがぺきぺきと言ってひび割れる。
「ほらぁ、なによその顔は」
「な、なにが? 俺の顔がどうかした?」
触ってみると柔らかくない。ほんとうにプラスチックの仮面のような固い手触りで少し気味が悪い。
「なんだよ、おかしな顔をして」
ふわぁあと伸びをして欠伸の大口を開ける。口の周りの皮がぱりぱりっと崩れ落ちる。
「うわぁ。なによそれ」
若いころ、海水浴で日焼けした数日後、背中の皮がぺりぺり剥けた。面白がってその皮をできるだけ大きい面積になるように上手に剥がした。するとカードサイズくらいの皮が剥けて、皮膚の皺まで転写されたような薄皮が自分の分身のように思えて大事に置いておきたくなった。だが、柔らかい状態で剥がれた皮膚はすぐに水分を失ってパリパリのゴミになった。いま夫の顔に張り付いて、さらに崩れ落ちようとしている皮は、柔らかい状態ではなくパリパリのタイプで、ちょうど蝉の抜け殻みたいだ。夫が顔を動かす度にパラパラと崩れ落ちてベッドの上に散らばっていく。どうせなら仮面のままで上手に剥がれてくれたら顔の魚拓みたいなものがとれるのに。皮は剥がれてどんどん取れていく。剥がれ落ちた皮の下から新しい夫が姿を現しつつある。
真黒に日焼けした皮がはがれると、その下には元の白い肌が現れるものだ。酸化した錆が取れたように、幾分新しくなった感じの肌が現れて元通りの姿を取り戻すというものだ。ところがひと皮剥けた夫の顔はそうではなかった。新しい皮膚というよりは、くたびれきった皮膚。違う生き物に生まれ変わった皮膚。皺だらけで、垂れ下っていて、シミがいっぱいあって、そうだ、これは老人の皮膚だ。日焼けした皮の下から老人の皮膚が生まれ出た。しかも、顔だけだと思っていたプラスチックは、首から下、パジャマの中にまで続いていた。パジャマの中を通り抜けて袖口から出ている手や裾から出ている足の甲にまでプラスチックが張り付いていて、夫がベッドから立ち上がるとそれらの全てが順番に崩れ落ちていくのだった。
トイレを済ませて出てきたのは、もはや昨夜の夫ではなかった。たった一晩で百年が過ぎてしまったかのような、浦島太郎が玉手箱を開けてしまった後のような、老人の姿。皮膚だけではなく、こころなしか腰も曲がり、よたよたと重心を失ってペンギン歩きをする八十を優に越えた老人。わたしは田辺さんの話を思い出した。やっぱりそういうことだったんだ。
老齢というものは、少しずつやってくるものだとばかり思っていた。祖父母は最初から年寄りだったし、両親だってしばらく見ないうちにいつのまにか年寄りになっていた。それに、自分たちが老けていくのを目にするのははじめてなのだし。いつまでも若さは続いていく、いや続いてほしいというのは単なる願いにしか過ぎない。
「おい、俺、なんだか変かな。なんか今日はふらふらするんだけど」
食卓に向って廊下を行く夫がふにゃふにゃ言っている。いま見たことを言ってやるべきなのだろうか。本人は気がついていないのだろうか。老いはいつかは来るものだ。それが徐々に来ようと、いきなり来ようと、それは関係ないのかもしれない。
「コーヒーがいい? 紅茶がいい?」
なにごともなかったように問いかける。
「そうだな、やっぱりコーヒーの香りをかぎたいかな」
そう言うと思って実はもうコーヒーメーカーをスタンバイさせている。
「サラダ食べてて。いまトースト焼くから」
言って夫に背を向ける。
「ああ、わかった」
夫はサラダをこなそうと箸を持ったようだが、その手を止めてわたしに言った。
「おや、おまえ、なんだそれ?」
「え? なあに?」
「首の後ろに」
「わたしの? 首の後ろがどうしたの?」
「なんか、赤いできものが……できてるぞ」
了




