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第1話 突然の内容証明



私の取り柄なんて、真面目なことくらいしかない。


子供の頃からずっとそう言われてきたし、自分でもそう思っていた。


午前8時30分。


始業30分前には出社し、自分のデスクを拭き上げ、部内の加湿器に水を補充する。

 誰もが見落とすような給湯室のシンクの水垢まで落とすのが、入社して2年経った今でも変わらない私のルーティンだ。


「おはよう、三上さん。いつも早いねえ」


「おはようございます。習慣ですので」


先輩社員に挨拶を返し、パソコンを立ち上げる。


特別に仕事ができるわけでもないし、愛嬌があるタイプでもない。

 彼氏いない歴=年齢の、地味で冴えない事務員。


それでも、この平穏な生活が好きだった。

 大きなトラブルもなく、毎月決まったお給料をもらって、つつましく暮らす。


そんな「当たり前の日常」が、今日この瞬間まで、ずっと続いていくと信じていたのだ。


内線電話が鳴ったのは、昼休みが終わった直後のことだった。


『総務の黒田だ。三上くん、至急、第一応接室へ来なさい』


受話器越しの声は、普段の事務的なものとは明らかに違っていた。

 低く、押し殺したような怒気を含んでいる。


私は首を傾げた。何かミスをしただろうか。

 不安を覚えつつも、私はすぐに席を立ち、応接室へと向かった。


まさかその扉の向こうに、人生をひっくり返すほどの地獄が待っているとも知らずに。


***


応接室の重いドアを閉めた途端、ドン、とテーブルを叩く音が響いた。


ビクリと肩を震わせる私に、黒田部長は侮蔑の色を隠そうともせずに鼻を鳴らす。


「座れ。……まったく、見かけによらん女だな」


「え……? あ、あの、何のことでしょうか」


訳がわからず、恐る恐る革張りのソファの端に腰を下ろす。


黒田部長は、手元にあった白い封筒を、汚いものを扱うように指先で弾き、私の前へと滑らせた。

 封筒の口は、すでに無惨に破り捨てられていた。


「これ、開いてますけど……」


「中身を確認させてもらった。会社気付で届いたもんだからな。管理職として当然の権利だ」


悪びれもせず言い放つ部長の言葉に、喉が引きつる。


宛名には間違いなく『三上ヒカリ様』とあったはずだ。

 個人の信書を勝手に開封するなんて、明らかにルール違反だ。


けれど、今の私には「それは違法です」と指摘する勇気なんてなかった。

 部長の剣幕に気圧され、身体が小さく縮こまる。


震える手で、中身を取り出す。


1枚の書類。

 一番上に書かれていたのは、太く、無機質なゴシック体の文字だった。


『通知書』

『不貞行為に基づく慰謝料請求』


頭が真っ白になった。


文字の意味が理解できない。

 フテイ? イシャリョウ?


読み進めると、そこには信じられない文言が並んでいた。


『貴殿は、通知人の配偶者である藤堂トモヤと不貞関係にあり――』

『精神的苦痛への慰謝料として、金300万円を請求する』


「身に覚えがあるだろう。藤堂カオル……相手の奥さんの名前だ」


「ち、違います……! 私、そんなこと……誰かと間違えて」


「とぼけるな!」


反論しようとした言葉は、部長の怒声によって叩き潰された。


心臓が早鐘を打ち、呼吸がうまくできない。

 視界が急速に滲んでいく。


「べ、弁護士の名前も書いてあります……間違いじゃ」


「弁護士がついているから言っているんだ! プロが証拠もなしにこんなもん送ってくるわけがないだろうが」


「で、でも、ほんとうに……私、彼氏だって今まで……」


「お前の男事情なんぞ知らん! 問題なのは、こんな恥ずかしい書面を会社に送りつけられたことだ!」


黒田部長は立ち上がり、私を見下ろした。

 その目は、社員を見る目ではなく、排除すべき害虫を見る目だった。


「会社に内容証明だぞ? 噂になったらどうする。うちはコンプライアンスにうるさいんだ。不倫騒動を起こすような女を雇っておく余裕はない」


「そ、そんな……」


「退職届を書け。日付は今日付だ。本来なら懲戒解雇モノだが、自己都合退職扱いにして経歴に傷がつかないよう配慮してやる。それが会社からのせめてもの情けだと思え」


涙が溢れて止まらなかった。

 違うのに。私は何もしていないのに。


けれど、圧倒的な「大人の理屈」と「怒号」の前に、私の言葉はあまりにも無力で、喉の奥で音になる前に消えてしまった。


抵抗することもできず、私は差し出された退職届の雛形に、震える手で名前を書き込むしかなかった。


***


私物を詰め込んだ段ボール箱を抱え、会社の通用口を出る。


背後で自動ドアが閉まる音が、まるで「二度と来るな」と拒絶しているように聞こえた。


デスクを片付けている間、同僚たちは誰も声をかけてこなかった。

 遠巻きにこちらを見て、ヒソヒソと何かを囁き合っているだけ。黒田部長の大声は、フロア中に響いていたのだろう。


あんなに真面目に働いてきたのに。

 たった1枚の紙切れで、私の居場所はあっけなく消滅してしまった。


「なんで……私が……」


ビル風が冷たく頬を刺す。

 手の中には、クシャクシャになった通知書のコピーが握りしめられている。


300万円なんて大金、持っているわけがない。

 職も失った。

 明日からの生活はどうすればいい?


――助けて。

 誰か、嘘だと言って。


独りぼっちの路上で、すがるようにスマホを取り出した。

 連絡先の一番上に表示されている名前をタップする。


『実家・母』


お母さんなら、きっと信じてくれる。

 お兄ちゃんだって、エリート公務員だ。弁護士相手にどうすればいいか、きっと助言をくれるはずだ。


家族だけは、私の味方でいてくれる。


プルルル、プルルル。


呼び出し音が鳴る中、私は祈るような気持ちでスマホを耳に押し当てた。


それが、さらなる地獄への入り口だとも知らずに。

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