ベンガル城
「王!」イゴールは、目を開いた。声は続けた。「王、お目覚めくださいませ!先触れが参って…龍王がこちらへ向かっておるのでございます!」
イゴールは、飛び起きた。
…もう来たのか!
「…着替える!」
昨夜、時を取ったら押し掛けて来るやもと、思っていた折も折なのだ。
まだあれは昨日の出来事であるのに、もうやって来た。
居間へと出て行くと、重臣のアントーニが狼狽えていた。
「王!イグナート様がとりあえず到着口へ向かってくださっておりますが、急ぎお出迎えを!龍王が来るなど…しかも先触れは義心で!ドラゴン城からこちらへ向かっておると申すのです!」
ならばもう着く。
イゴールは、侍女達が差し出した服に手を通しながら、言った。
「どうせヴァレリーの事であろうて。とにかく向かう!イグナートには応接間へ案内せよと申せ!それから、軍神にヴァレリーの様子を見てこさせておけ!」
アントーニは、頭を下げた。
「は!」
そうして、アントーニは転がるように出て行った。
窓の外は、どことなく薄っすらと白んで来ている。
イゴールは着替えを済ませて、急いで応接間へと向かったのだった。
出迎えなど不要だろう。
イゴールは、思っていた。
こんな夜明け前に来るのだから、それなりにあちらも無理を通していることが分かっているはずなのだ。
そして、イグナートが迎えに出ている。
それだけで充分ではないか。
イゴールからしたら、まるで配下のように扱われるのは、癪に障る。
ヴァルラムにでさえ、意見を言える立場の自分が、遠く島を統治している龍王に、媚びへつらうのもおかしな話なのだ。
アントーニからは、ヴァレリーはまた寝ていたと知らせを受けていた。
応接間で座って待っていると、そこへイグナートが恐縮したような顔付きで、大きな気の集まりを率いてやって来ていた。
イグナートは、イゴールの顔を見てホッとしたような顔をした。
「父上。ヴァルラム殿、維心殿、炎嘉殿、漸殿、それから雷嘉を連れて参りました。」
その後ろからは、義心も入って来ている。
イゴールは、頷いた。
「…このような時間から参られるとは、何事ぞ。ヴァレリーのことなら、今確認したがまだ目を覚ましておらぬと報告があった。」
炎嘉が、言った。
「これでもこちらは気を遣ったのだ。サイラスの城にも立ち寄って来たしの。島では今昼過ぎぞ。時差があるゆえそこは諦めよ。此度は、ヴァレリーのこともあるが、それよりまずは主があの、アマゾネスの禁書を読んだと聞いた。ゆえ、その中身を仔細に話してもらおうと来たのよ。」
そっちか。
イゴールは、仕方なく頷いた。
「…座るが良い。」と、皆が対面の席へと座るのを見守ってから、言った。「呪文は教えるわけには行かぬ。我ら、それのせいでここまで迷惑掛けられておるゆえな。」
維心が言った。
「分かっておる。我らはそんなもの知りとうないし、知りたければ今は月の宮へ問い合わせたら良い話。それより、主とヴァレリーが読んだというその中身の、他の部分を聞きたいと思うたのだ。別に、ヴァルヴァラから禁書を取り上げて読めば良いだけの話なのだが、それをすると心ならずも呪文まで見ることになろう。それは避けたいゆえ、主に聞こうとなったのだ。」
イゴールは、息をついた。
「…分かった。ならば、ここへ。」と、胸から懐紙を何枚か出すと、そこに手を翳した。「我の記憶、呪文の所以外をここに転写しようぞ。それを見るが良い。」
イゴールは、目を閉じて力を放った。
すると、目の前の懐紙の上に、ジワッと文字が浮き出て来てそれを埋め始めた。
こちらは横書きなので、縦にフワッと動いた懐紙が、次々と埋まって行くのが見えた。
それはこちらの文字で、炎嘉は目を細めた。
「…こちらの文字には慣れぬのにこれは、美しい文字だとわかる。我らにも読みやすいわ。」
維心が頷く。
「これは、ヴァレーリアの筆跡そのままか?」
イゴールは、転写を終えて目を開いた。
「見たそのままぞ。今も言うたように、呪文の部分は写しておらぬ。読むが良い。」
皆が、それを食い入るように見つめた。
そこには、こう書いてあった。
『我の後に続く我が子のためにこれを書き記す。必ず一人で確認し、頭に入れた後は焼き消す事を命じる。
まず、膜の呪文。
それはベンガルの血を引く誰かに、唱えさせる必要がある。
これは諸刃の剣であるので、使用した後は最新の注意を払い、事を成した後には呪文を知ったそのベンガルは始末せよ。
呪文は以下に書き記す。
この膜は、その術を受けた本神の気を使って膜を形成し、外からの気の補充はできなくなる。
膜を破ろうともがき苦しむとその分死期が早まることになる。
気が尽きれば、相手は死んで膜も消える。
解くためには術者を殺すしかない。
今のところ対抗術は見付かっておらぬが、我が最近に臣下より提出を受けた魔法陣が、どうも膜の呪文の構造と似ておるように思う。
これは空間を捻じ曲げ、その力で相手を攻撃するという、防ぐ事はまず難しい魔法陣であるが、その空間を操る辺り、膜の呪文と波動が被っていると感じる。
ゆえに、どうしても対抗術を編み出したい時には、これを参考にするが良い。我には時がなく、それを作る事ができぬゆえ、後を主らに託す。
最後に、ヴァルヴァラよ。
孤独な立場に産み落として不憫であると常に思うておった。
主の兄は確かに生きており、ベンガルの結界内にその父親に育てられておるので、何かの折に見付かった時には、必ず助けてやって欲しい。
我は、愛しておらぬ男との間に成した主のことも、確かに愛していたとこの最期の時に思う。
我と同じく不自由な生を歩まねばならぬ主が、誰より己に近しく感じておるぞ。
願わくば、主が王座に就きたくないのなら、島へ逃げても良いかと思うておる。
臣下達は血眼になって探そうが、はぐれの神を受け入れている、月の宮という場所ならば、上手く潜めるのではないかと思う。
月の宮王はどんな罪を犯していても、心より反省しておれば受け入れてくれる心の広い王なのだと聞く。
主は罪などないのだから、我らの事を全て話して、この書を差し出し、保護を求めてはどうだろう。 我にはもう、時がないゆえできぬが、最近にそれを知った。
主だけでも思うように幸福に生きよ。
我はそれを黄泉から見て、己が解放された心地になろうほどに。
先に楽になる我を許して欲しい。
愛する我が娘よ。
どうか主は幸福に。』
…ヴァレーリアは、逃げたかったのか。
皆が、それを読んで思った。
ヴァレーリアにとって、もう王座などどうでも良かったのだ。
それでも最期まで女王として振る舞い、逝った。
自分の娘には、そんな生き方はさせたくないと願っていたのだ。
だが、ヴァルヴァラはこの書を読まぬ間に臣下に推されて王座に就いた。
今頃黄泉で、どう思いながら見ているのだろうか。
炎嘉が、言った。
「…王座の面倒さは、知っておるつもりよ。我とて王座など要らぬと思うておったが、一族で一番気が大きく優秀に生まれついて臣下に求められては離れる事はできぬ。己の身を恨みたくもなる。維心もそうだろう。」
維心は、ため息をついた。
「その通りぞ。我は前世、次はそこそこの気の神に生まれて、誰かに仕えて気楽に生きたいと願って生きたが、結局また王よ。回りがそれを許さぬ力を持って生まれ、王座を蹴る事もできぬ。誰がこんな面倒な地位を欲しいなどと思うのだ。真っ当な王ほど、王座など要らぬと思うておるはずよ。」
ヴァルラムは、言った。
「我らは下剋上の世であるゆえ、そうと決められて王なのではないが、愚かな王には仕えられぬのよ。主らも臣下に生まれたら分かるわ。己が仕える王が愚かであったら、先が見えておとなしゅう仕えてなどおれぬ。どう生まれても、結局王になるのだ。それは生まれついて持つ力もだが、頭の回転の速さも原因よ。ならば始めから、王であった方が面倒はない。」
そういう考えもあるのか。
維心と炎嘉は、思って聞いていた。
イゴールが、言った。
「…それで。空が白んで来ておるが、どうするつもりよ。ヴァレリーは寝ておるし、無理に叩き起こすか?」
炎嘉が、言った。
「別に、寝ておっても良いわ。」と、立ち上がった。「記憶の玉を取れば良い。それを、主が再生するのだ。呪文の部分を消して、我らに見せよ。そうしたら、あやつがどのように考えてあのような事をしたのか分かる。」
その手があったか。
イゴールは、つられて立ち上がりながら、言った。
「ならば、ヴァルヴァラも。あやつは我に、ヴァレリーから話を聞いて、沙汰を話し合いたいと言うて来ておった。この際全てまとめてやった方が良い。」
炎嘉は、また椅子に座った。
「…ならば、早うヴァルヴァラに書状を。我らは暇ではないのだ、わざわざこんな所まで来ておるのに。時を取ると時差ボケしてあちらの政務に支障が出る。急げ。」
こちらの事情には気を遣わぬくせに。
イゴールは思ったが、イグナートに頷きかけて、そうしてヴァルヴァラに書状を書いて送ったのだった。




