その頃
雷嘉は、イシードの所へ来てもうひと月、漸と約束した期間はもう、終わりだった。
なので犬神の宮へ帰らねばならず、イシードと共にベンガルの軍神達に連れられて、イゴールに目通りするために城へ上がっていた。
ヴァレリーも共に行かないかとイシードが誘っていたが、ヴァレリーはそれを断った。
どうやらまだ、全て話してくれない父親に対して、わだかまりがあるらしかった。
雷嘉も、ヴァレリーの話を聞いてから、あれこれ言ってみたものの、ヴァレリーには響いていないようだった。
イシードにも遠回しに、この際話してやったらどうかと言ってみたが、そちらも頑として譲らなかった。
なので、雷嘉にはどうしようもないのだ。
雷嘉が息をついて謁見の間へと入って行くと、正面の玉座にイゴールが座っていて、こちらを見ていた。
雷嘉は、イゴールの前に進み出て、イシードが隣りで膝をつくのを後目に、深々と頭を下げた。
「イゴール様。結界内をお許しくださいましてありがとうございました。これより犬神の宮へ飛び立とうと思います。」
イゴールは、頷いた。
「すっかり神が板についたの、雷嘉よ。犬であった時を覚えておるゆえ戸惑うが、こちらで育った事を忘れずこうして訪ねてくれるのは心強いことよ。漸殿は主を大切にしてくれておるようよな。迎えの軍神が、先ほど到着しておる。」
雷嘉は、驚いた顔をした。
「我に?迎えがでございますか。」
脇から、見知った顔が進み出た。
「…雷嘉。王からの命で、我が共に帰るために参った。一人では、長過ぎる道筋だと王が申されてな。」
それは、雷嘉とよく話す仲の良い瀬奈だった。
瀬奈とは犬神の宮に行った時から仲良くしていて、今では下位の軍神同士だったその初めより、お互いそこそこ序列を上げていた。
「瀬奈!来てくれたのか。」
イゴールは、言った。
「世話になったと漸殿より多くの品を持って来てくれた。来る時も主に持たせてくれていたのにな。犬神とは、臣下を大切にするらしい。」と、雷嘉をじっと見つめた。「こちらは今は大変で、結界も強化しておりあまり外からの神を中に入れぬようになっておる。それなのに雷嘉を受け入れてくれたと、漸殿は礼の書状をくれていた。主も戻ったら、王に礼を申すようにな。」
雷嘉は、頭を下げた。
「は。イゴール様には寛大にも我が親と慕うイシードに会う事をお許し頂き、誠にありがとうございました。王にも良くして頂いたこと、お話し申し上げまする。」
イゴールは、頷いた。
「ならば行くが良い。」と、イシードを見た。「…ヴァレリーはどうした。滅多に城に入って来られぬのに、この機会に来るとは言わなんだのか。」
イシードは、下を向いた。
「は…。あれは、最近物思いがあるようで。母親のことなど、詳しく聞きたいと申して…話してはおるのに、それ以上を求めるのです。我とてもう四百年以上前の事でございますし、覚えておらぬ事も多く。」
イゴールは、ふと何かに気付いた顔をした。
「…そういえば、主はどの人と婚姻したのだったか?あの頃、誰か側に居たかの。そういえば、イヴァンがかなり美しい女と仲が良いのだとか申しておったが…それとの子か?」
イシードは、下を向いたまま答えた。
「は。我は後にも先にも一人の女としか関係を持ってはおらぬので。とはいえ、とっくに亡くなっておりますが。」
イゴールは、頷いた。
「であろうの。まあ、主らは特殊な生まれであるから、人より神の方が良いぐらいだものな。とはいえ、人と婚姻したがる女神も居まいし。難しいの。」と、雷嘉を見た。「ではの、雷嘉。また戻るが良い。」
イゴールは、立ち上がった。
雷嘉は、また深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。」
イゴールは、そこから出て行った。
雷嘉は挨拶が無事に終わったとホッとして、イシードにも別れを告げて、瀬奈と共に漸の宮へと帰って行ったのだった。
漸は、もう寝ようとしていたところで維心からの書状を手に臣下を見下ろしていた。
膜の術は、まだ解けていないらしい。
何か情報が入ったら知らせるように、と、これは上位の宮に同じ文面で送られているものらしかった。
漸は、息をついた。
「…宮を開いてこの方、いろいろな事があるの。平穏に暮らしておった昔が懐かしいわ。」
伯が、言った。
「は…。しかしながらもう、神世に出ておるのでございますから。ここはしっかり我が宮でも、何かできることはないかと考えて行動しておくべきでは。」
漸は、頷いた。
「分かっておるわ。」と、書状を伯に放って寄越した。「それで?瀬奈はまだか。あちらは今頃朝であるな。雷嘉が北に居たし、何か聞いておらぬか戻って来たら、主らが聞いておけ。それで情報があれば良し、無ければ我らにあちらの事情など知る由もない。とにかく、やることはやったと維心が思えば良いわけであるから。」
伯は、慌てて書状を受け止めて軽く漸を睨んだ。
「…では、そのように。とにかくしっかりなさってくださいませ、そのように適当な感じではなりませぬ。また王としてどうかと言われたらどうなさるのですか?我らの王は漸様よりないのでございますよ?」
漸は、鬱陶しそうに手を振った。
「ああ、分かった分かった!寝ようという時に送って来るからこうなのだ。朝には雷嘉に報告させよ。分かったの。」
伯は、頷いた。
「は。ではそのように。」
まだ不満げだったが、こんな時に何を言っても漸は変わらないだろう。
伯は、ため息をついて居間を出て行ったのだった。
次の日の朝、雷嘉は少し眠そうにしながら王の居間へと伯に連れられてやって来た。
どうやら時差ボケをしているようで、雷嘉にしてみたらあちらで夜が明けて帰って来たらこちらは夜、そしてまた夜が明けたという感じになっているのだろう。
長い夜を越えた感じになっている雷嘉に、漸は言った。
「なんぞ。昨夜は寝ておらぬのか。」
雷嘉は、下げていた頭を上げた。
「は。眠れず夜を過ごして今でございまして。」
漸は、苦笑した。
「早う取り戻せ。それで、あちらはどうだった?イゴールは譲位するとか言うて呆けてしもうてと聞いておったが。」
雷嘉は、首を振った。
「帰りにご挨拶に伺った時にも、王座に居られました。特に変わったご様子はなく、王によろしくと仰っておりました。あちらに居た時には、軍神達に命じてよう我の様子を聞いてくださり、いろいろ気遣ってくださいまして。王に於かれましては、いろいろな品をお送りくださり、ありがとうございます。」
漸は、頷いた。
「何が正解なのかわからぬし、何でも礼を持たせておったら文句もないかと思うて。未だに礼儀云々分からぬところがあってな。どうせ蔵には唸るほど物があるのだ、いくらでも持って参れば良いのよ。」
ということは、別に気を遣ってくださったわけではないのか。
雷嘉は思ったが、頭を上げた。
「は。ありがとうございます。」
漸は、言った。
「ところで…例の膜のことぞ。聞いておろう、ベンガルの術者を模倣した仙術の。あれのことは聞いたか?」
雷嘉は、首を傾げた。
「いえ…あちらでは、仙術という言葉自体を発する事も禁じられるような状態で。我は人里からすこし離れた森の中の屋敷に居りましたし、城の様子は全く分からずで。最後にご挨拶に上がった時も、特に術の事は何も。」
漸は、頷いた。
「そうか。ならば良い。維心が何かあったら言えとそれは煩うてな。我が何もしておらぬと思われてはならぬし、主に聞いただけなのだ。では、あちらは皆壮健か。イシードはどうだった?それから…その息子も。」
雷嘉は答えた。
「はい。特に変わりなくやっておりました。人であるのに長生きであるからか、息子のヴァレリーの方は少し、生きる意味を見失っておるような無気力な感じが気になりましたが、我にはどうしようもなく。それでも犬達の事はきちんと世話してくれておりましたし、時が解決するのかなと。」
漸は、ふーんと興味もなさげに言った。
「人なのに長生きとな。想像もつかぬわ。我なら遊び回って好きに過ごすがの。そんなもの、考えても仕方がないではないか。次に会ったらそう言ってやるが良い。」
それは王がそういうご性質だから。
雷嘉は思ったが、頷いた。
「は。ではそのように。」
漸は、伸びをして言った。
「では、主は下がって良い。少し寝て来い。」と、伯を見た。「伯、政務ぞ。早う終わらせよう。」
そうして、犬神の宮は動き出した。
雷嘉は、漸の言葉に甘えて、宿舎へ帰って寝ることにしたのだった。




