代替わり
ベンガルの城では、大会合からこちら、実は大変にゴタゴタしていた。
なぜなら、イゴールがイグナートに代を譲ると言い出したからだ。
長い在位期間とはいえ、イゴールは他の王達と同じで、老いが止まっていてまだ若い姿でいる。
それなのに、さっさと王座を譲ってしまうなど、何の準備もしていなかった臣下にもイグナートにも、衝撃だったのだ。
まだ、引き継ぎなども満足に行なってはいない。
なのに、イゴールはもう、離宮に引き籠もって、出て来ようとしなかった。
そんなわけで、政務は必然的にイグナートが代わりに行なっていて、まだ正式に譲位されたわけでもないのに、分からないことだらけでどうしようもなかった。
離宮には、毎日臣下が必死に説得に行っているが、イゴールはどこへ行ったのか居ない事も多く、話にならない。
噂を聞き付けたフレデリクやアルファンスの使者もやって来て書状を渡そうとするが、イゴールは一向に出て来ようともしなかった。
そんな状態なので、イグナートは困り果てていた。
臣下は、こうなったらイグナートも妃を迎えて後を残さねばとか言い出して、近隣の城の皇女達を選別し始める始末で、今は政務でいっぱいいっぱいのイグナートには、面倒この上なかった。
堪らず皇子の立ち合いで仲良くなったヴェネジクトに、分からないところを訊ねる文を出して、教えを乞う事にした。
何しろ、イゴールは全く返事も返さず、イグナートにも会ってくれようとしないのだ。
ヴァルラムが、アキムから報告を受けていると、ヴェネジクトが入って来て頭を下げた。
ヴァルラムは、ヴェネジクトを見た。
「どうした。訓練場に居たのではないのか。」
ヴェネジクトは、頷いた。
「は。ですがお知らせしておかねばならぬとこちらへ参りました。」
ヴァルラムは、頷いてアキムを見た。
「…イラリオンが慣れて来ておるのなら良い。サイラスにはくれぐれも、エフィムとヴァルヴァラの婚姻が終わるまでは何も言うなと伝えよ。」
アキムは、頭を下げた。
「は!ではそのように。」
アキムは出て行く。
ヴェネジクトは、それを見送って言った。
「龍王から返事が来ましたか。」
ヴァルラムは、頷いた。
「あちらはよう弁えておるわ。確かにおかしな噂が流れて、婚姻が頓挫するような事があってはならぬから。」と、ヴェネジクトを見た。「それで。主は何を話そうと来たのだ。」
ヴェネジクトは、頷いて胸から書を出した。
「先ほどイグナートから。このような文が参りまして。」
ヴァルラムは、それを受け取った。
そして、中を見て額に手を置いた。
「…イゴールがごねておるのか。」
ヴェネジクトは、頷く。
「は。大会合から戻ってこの方、代替わりを言い出して離宮に引っ込み、誰にも会わずにイグナートへの引き継ぎもないらしく。イグナートは困り切って我に助けを求めておりまする。」
ヴァルラムは、息をついた。
「別に代替わりも良いが、それなら順を追ってやらねばの。うちのように下剋上であるなら別だが、あちらは世襲制なのだろう。イグナートも覚悟を持って学んでおかねばならぬのに、主に助けてくれとは情けないことよ。」
ヴェネジクトは、苦笑した。
「は。確かにそのように。ですが、イグナートには気の毒であるし、我の友でございますので…放置もできませず。当面指示は出してやろうと思うております。よろしいでしょうか。」
ヴァルラムは、頷いた。
「良い。こちらに良いように決めさせる事もできるゆえ、我らにとり良い事はあっても悪い事にはならぬ。とはいえ、イグナートはそれで良いのか。一族はそれでなくとも不安定で、未だに王の許可なく外に出てはならぬと見張る必要かあろう。それではイグナートが、完璧に臣下を見張っておるとは思えぬのだが。」
ヴェネジクトは、息をついた。
「はい。それはそのように。何しろ軍神から報告をもらって、既にフラフラ出ておる若者が居たのだとか。すぐにベンガル城の軍神に知らせて中に篭めさせましたが、恐らくあれは氷山の一角ではないかと。」
ヴァルラムは、盛大にため息をついた。
「全く、どいつもこいつもいろいろな事を起こしおってからに!我とて我が領地だけを案じておりたいわ!」
急に投げやりな様子になったヴァルラムに驚いたヴェネジクトだったが、しかし気持ちは分かる。
なので苦笑した。
「確かにその通りでありますな。放置して置いたら置いたで島に迷惑が掛かった時、真っ先にこちらに問い合わせて来るでしょうし。覇権を握るというのも、誠にいろいろ面倒なことで。」
ヴァルラムは、頷いた。
「誠にそうよ。我は別に、全部を支配したいなどと思うたことはないのだ。ただ、面倒なことを言って来る、上から目線の種族が居ったら面倒だからと押さえつけておったら、こうして上位に立ってしもておっただけで。相変わらずレオニートはのんびりとしておって主導権を握ろうなどとは思うてもおらぬので、何でも我に丸投げであるしな。たいがい嫌になって来ておる。」
あの折、我があれだけコンドルに並ばれるのが、嫌だったのがなんだったのかと思うわ。
ヴェネジクトは、今の状況を見て、そう思った。
上に立つのは、得なことばかりではない。
つくづく、月の宮へ行く前の自分が恥ずかしく思えて来て、ヴェネジクトは若かった、と思い起こして立ち尽くしていたのだった。
ヴァルヴァラは、その日結局臣下達が来客に対応していたので、政務には携わることがなかった。
やることが無いといろいろ頭に上って来て、それでも父に会うという事実を忘れていたいと、訓練場に出て久方ぶりに皆と立ち合った。
もちろん、女王となったのは誰より手練れであったからなので、ヴァルヴァラに敵う神は一人も居なかったが、それでも体を動かしていると無心になれる。
忘れていても時は容赦なく過ぎて行き、その日の訓練が終わって皆が宿舎へと引き揚げて行く時間になると、ヴァルヴァラは仕方なく王の居間へと戻って行った。
すると、そこには文を手にした、アンジェラが待っていた。
「ヴァルヴァラ様。」
アンジェラは、膝をついて言う。
ヴァルヴァラは、小さく息をついて、言った。
「…参るか。」
アンジェラは、手にしていた文を差し出した。
「その前に、昼に命じられました御文のお返事を預かって参りました。」
エフィムからか。
ヴァルヴァラは、それを忘れていたと思った。
臣下が昼を過ぎても会合の間に詰めていて、まだマトヴェイの臣下と話し合っているようだったので、暇に空かせてエフィムに文を送ったのだ。
エフィムには、隠し事はしていなかった。
なので、朝アンジェラから聞いたことは、全て隠さずに書いて送った。
ヴァルヴァラは、その返事の文を受け取って、急いで中を見た。
エフィムからは、驚いたがまだ誰にも言わぬ方が良い、と真っ先に書いて来ていた。
自分の漏らしているので、他の誰かにも気軽に明かしているのではないかと慌てたようだ。
ヴァルヴァラは、苦笑した。
…主以外には、こんなことは言わぬわ。
そう思って読み進めて行くと、ヴァルヴァラが父に会うのが心に重い、と書いていたのを案じていて、それならばとにかく、母が甲冑で過ごしていることが多かったのならドレスを、ドレスで過ごしていることが多かったなら甲冑を着て、父に会いに行け、と書いてあった。
少しでも、母と雰囲気が違うように見えるように、せめて服装を変えて印象を良くしていくのを考えてはどうか、と、エフィムなりに考えてくれているようだ。
そういえば、母はほとんど甲冑姿で、部屋で寛いでいる時ですら、甲冑の下に着る軽い下着のようなブラウスとパンツだけで過ごしていた。
ヴァルヴァラはいつも、普通にドレスを着せられていたが、なので外へ任務に出る他の軍神達も、必然的にそんな恰好でうろうろとしていることが多かった。
それを思い出して、ヴァルヴァラは言った。
「…アンジェラ、しばし待て。」アンジェラが、顔を上げると、ヴァルヴァラは続けた。「着替えて参る。このままでは、父上に失礼であろう。せめて外出用のドレスに着替えて参るゆえ。」
アンジェラは、頭を下げた。
「は。ですが、外出用となると侍女達はどこへ出掛けるのだと言い出しませぬか。」
そうだった。
ヴァルヴァラは、言い直した。
「では、部屋着に着替えて参る。」
アンジェラは、答えた。
「は。お待ち申し上げております。」
ヴァルヴァラは、頷いて急いで奥へと引っ込んだ。
姿ばかりで長年の怨嗟は変わらぬかと思ったが、それでも少しはヴァルヴァラの気持ちもそれで軽くなる。
エフィムは、やはり頼りになるとヴァルヴァラは思っていた。




