その事実
維月が奥へと入って行くと、ソフィアが驚いたような顔をして、慌てて寝台から降りて頭を下げた。
「維月様!お越しになっておられるとは知りませず…ご挨拶もなしに。」
維月は、首を振った。
「今参りましたの。ソフィア様、大変な事でありました。案じてずっと見ておりましたの。なので、全て我は知っております。これよりは、月の宮で仕えると決めたのですね。」
ソフィアは、顔を上げた。
「はい。蒼様にはご迷惑をお掛け致しますが、お言葉に甘えてお世話になろうと思うております。」
維月は、頷いた。
「ならばそれで。全てご承知の上でのことだと思うておりますから。」
ソフィアは、顔を上げた。
「…はい。月の宮から出ることはできず、また婚姻は障りがあってできぬと申す事でありますわね。」
維月は、また頷いた。
「その通りです。我の力は霧を留めますが、それでも外から直接に触れると霧の影響を受けぬわけには行きませぬから。あくまでも、あなた様を侵食せぬための膜でしかなく、他を守るための膜ではありませぬ。そこのところは、重々ご承知頂いて。もし、それを分かっていながら他と通じる事があれば、我らは霧をあなた様の身から引き揚げさせる事になりまする。それはすなわち、あなた様の死を意味します。そこのところはしっかりご理解頂かねばなりませぬ。」
ソフィアは、苦笑した。
「…そも、我にとり婚姻も己を縛るものと疎ましく思うておりました。」維月が驚いた顔をすると、ソフィアは続けた。「今であるので申し上げますが、イゴール様との事も、本来受けるつもりはありませんでした。が、連日強く求められましたし、何より母を見返してやりたいと魔が差して。後に後悔致しました。妃とはやはり、王に縛られ許可無しに何もできぬ不自由な地位。我を縛る者が母から王に変わっただけでありましたの。せっかくにベンガルの土地に引き取られて自由になりましたのに、己からまたそんな不自由な地位になったことを、ずっと疎ましく思うて…それでも、降りる事は許されませぬし、務めておりましただけ。こうなったのも、運命のように思います。蒼様は、女であるからと立ち合いをする我を疎まず、修練の相手をしてくださった大変にお心の広い王。我は、蒼様の御為に、できれば軍神としてお仕えしたいと思うておりますの。新たな生に、希望こそあれ、絶望などございませぬ。」
そうだったのだ。
維月は、思った。
イゴールはソフィアを見初めて愛しているようだったが、ソフィアは全くそうではなかったのだ。
確かに月の宮には少ないが女の軍神も居て、蒼はそれを嫌がらない。
何しろ蒼の価値観は、人のそれで神とは全く違うのだ。
維月は、微笑んで頷いた。
「あなた様が生きにくいと思うていらした世であるのなら、それを捨てて月の宮で一人、生きて参るのも良いかと思いますわ。」と、手を上げた。「では、月の宮には我が片割れ陽の月の浄化の力が常降り注いでおりまする。それから御身の霧の臓器が消えぬよう、我の膜で保護して保つように致しましょう。横になって、楽になさって。」
ソフィアは、言われた通りに寝台に座ると、そこに横になった。
維月は、腹の中の霧を探りながら、それを包む膜を形成し始めた。
イゴールが、言った。
「…そも、あやつは我の妃であるのが縛りと感じておったようよ。」イゴールは、横を向いて誰でも視線を合わせずに淡々と言った。「母親の次は我という心地であったようだ。ゆえ、何もかもから解放されて月の宮で生き直したいと申した。どちらにせよもう、あやつを側に置く事はできぬし、それでと決めた。もとよりあれをどうしても側にと、考えておったのは我だけだったのだ。仲睦まじく過ごしておったと思うておったのに…そうではなかった。」
維心は、黙っている。
炎嘉が、気の毒そうに言った。
「まあ…王にありがちなことよ。己が王であるから、否と申す女は居らぬと。仮にそうでも娶って側に置いたら、もう心も己のものだと思うもの。が、あれらも務めであり拒まぬだけで、その心まで自由にはできぬ。気の毒なことではあるが、また己を慕ってくれる女を探せば良いではないか。」
焔が、ため息をついた。
「まあ…イゴールの心地は分かるつもりよ。とはいえ、我は拒まれた事はないが、前世生きておった時でも、大勢居た妃達の幾人が誠に我を想うておったのか、今では分からぬ。こちらも愛していたわけではなかったしな。王と妃の関係とはそんなもの。一線を引いておったほうがいくらか楽ぞ。維心とて、維月と何度仲違いした。その度にお互い傷付いて、大騒ぎして回りを巻き込んでの。愛情があるととかく面倒が起こりがちぞ。愛しておるのなら、より慎重に娶るべきだと我は思う。」
焔にしては真面目な事を言う。
炎嘉が驚いていると、維心は息をついた。
「我らは確かに愛し合って共におるので、焔が言うように拗れた時にはお互い大変な事になる。我は維月を愛し、その心がこちらに向くのを長く待った。維月自身が愛しておらねば嫁いでくれぬ価値観の持ち主であったから余計にの。なので、主のような行き違いはないが、だからこそお互いに、その気持ちの確認だけは欠かせぬし、努力をせねば関係を維持することができぬ。あっさりと手にして、それで己のものだと思いこむことは、この際やめにした方が良いぞ、イゴール。そのように辛い事にもなるのだからの。相手の心は、娶るだけでは得る事はできぬと思うた方が良い。妃は務めなのだ。肝心なのはその後のことぞ。」
イゴールは、まだこちらを見ずに何度も頷いた。
「分かっておる。今はもう。ただ、愛した女が夢幻であったのかと、ただ愕然としておるだけぞ。もう…全てが偽りなのかと、何も信じられぬ心地ぞ。」
イゴールは愛されていると思っていたのだ。
ヴァルラムが、息をついた。
「一昔前の価値観ぞ。イゴールよ、我とて妃は居らぬが、それは己が虚しいだけの関係は、持たぬ方が良いと思うでおるから。」維心達がヴァルラムを見ると、ヴァルラムは続けた。「我とて前世…愛した女が居った。が、それは既に誰かの妃であって、我のものにはなり得なかった。その後、確かに愛したと思うておった別の相手を娶り、子を成したがそれでもそれは幻だったと後に気付いた。何かが違う…そう、我はまだ、最初に愛した女を愛していたのだ。娶った女はそれでも大切にしたが、いつも気の毒に思うておったものよ。我が己を愛しているのだと思うたまま、それは逝った。今では、心もないのに娶る事はできぬと思うておる。相手も、己も裏切る事になるのだと分かったからぞ。娶るという行為は、重要ではない。まずは心。我はそのように今は思う。」
イゴールはそれを神妙に聞いていたが、維心達は違った。
前世…ヴァルラムは今、前世と言った。
「…主の、前世と今言うたの。」炎嘉が、身を乗り出して言った。「主は前世を覚えておるのか。主は…主は前世もドラゴンか?」
ヴァルラムは、苦笑した。
「その通りよ。我は、生まれ変わるのなら王座に近い位置は危ない事を知っており、遠ければ遠いほど力を蓄えるのに時を得られる事を知っていた。ゆえ、わざと全く関係のない軍神家系ですらない市民の中に転生し、そこからのし上がって王座を目指そうとした…思い出したのは、闇の糧になりかけたあの小島。思い出したからこそ憑かれたのだ。」
維心が、眉を寄せた。
「…だからこそ主は憑かれたか。主は誠にあのヴァルラムなのだな?」
ヴァルラムは、頷いた。
「その通りよ。我はあのヴァルラム。サイラスは知っておる。あの後世話になった蒼も知っておるが、あれは口が固いからの。」
やはりあのヴァルラムだったのか…!
維心は、一気にヴァルラムを警戒した。
ヴァルラムが前世愛したのは、維月だったからだ。




